魔物との戦い
俺はまず、子犬が座っていたところにできた血溜まりの近くに、レフレーズの実を置いた。場所を移動して、草むらの間からこちらに来る獣の観察をするつもりだ。
この間に子犬と赤い石を左手に持ち変える。
すると、鼻を鳴らしながら草むらから出て来たのは、なんとかなり大きいイノシシのような獣だった。長い槍のような牙が口に生えていて、額には黒い石が付いている。子犬の額の石よりもやや大きいように見えた。
あの牙で刺されたらひとたまりもなさそうだ。大和時代には見たことのない牙を生やしたイノシシに正直ビビっているが、息を潜め目を凝らして動きを追う。
…よしよし、レフレーズの実の匂いを嗅いでるぞ。お、食べた!あの大イノシシ、この実を食べられるんだな。
レフレーズの実は残り二個だ。大イノシシが食べ終わった頃を見計らって手持ちのレフレーズの実を高く投げる。
すると、匂いに釣られたのか動くものに釣られたのか、大イノシシは上を見上げ投げたレフレーズの実を口でキャッチし、もぐもぐと食べた。
…おお!食べた!じゃあこのまま…
レフレーズの実を潰し、泉で取った結晶に擦りつけた。これを食べさせれば悶え苦しむに違いない。また高く投げれば食いつくだろう。どうか食いついてほしい。
よし、投げようと構えた瞬間、左手に抱えていた子犬が急にけたたましく吠え出した。
「え? 今?!」
大イノシシの姿をやっと視認したのか、威嚇するように吠え続け、俺の腕から抜け出そうともがいている。
「ウゥーッ! ワンッ! ワンッ!」
…さっきまで怯えてたじゃん!!
犬の威嚇を聞いた大イノシシは、こちらに視線を向けた。ぎらりと睨むその目は完全に俺たちを標的として見ている。
「ヤベ!」
俺が立ち上がると、大イノシシは背中の毛を逆立て、身体を震わせる予備動作を見せた後、こちらに一直線に突進してきた。まるで弾丸かのような速さだ。
「うわーーー!」
俺は横っ飛びでかわし、そのまま泉の方へ走り出す。後ろをちらっと見ると、木が倒れているのが視界に入った。どうやら大イノシシは木にぶつかったようだ。
「なんだあいつ! なんだあいつ! どうなってんの?! 普通のイノシシじゃないでしょ絶対!」
俺は叫びながら疲れていることを忘れて全速力で走る。もう少しで泉につく、というところで俺の左脇から赤い石が落ちてしまった。こんだけ取り乱して走っているんだから石なんか落ちて当然だ。
後で拾おうと考えていたら、抱えていた子犬が暴れだし、下に降りた。どうやらよっぽど大切な宝物らしく、赤い石の元へ駆け出す。
さすが野生の子犬だ。何をしでかすかわからない。
こういうときに身体は勝手に動くものだ、と今身を持って知った。
俺は考える間もなく方向転換し、子犬の元へ駆け寄っていたのだ。守れるかわからないが、勝手に身体が動いたのだった。
子犬はと言うと、まだ口が小さいようで石を咥えるのに苦戦していた。
「やばい、また突進が来る!」
ハッと気づいたときには遅く、大イノシシは攻撃をかわされたことに苛立ったのか、脅すような鳴き声をあげながら再び突っ込んできた。口から涎をこぼしながら走ってくる姿を捉えながら、右手に掴んでいた結晶をぎゅっと握り込む。
…一か八か、やってみるしかない!!
「口に入りますように!」
俺は大イノシシ目がけて、レフレーズの実を擦りつけておいた結晶を思いっきり投げつけた。
すると、結晶は真っすぐ飛んでいき、ちょうど大イノシシが迎える形で口に綺麗に収まった。
「おっしゃあ!!ナイスキャッチ!!」
なぜか敵である大イノシシを褒めてしまったが、そのナイスプレー大イノシシは思わぬ衝撃と食べ物が急に口に入ってきたことに驚いたのか、急ブレーキをかけ口元をモゴモゴさせた。
そして、3回ほどモゴモゴしたところで様子がおかしくなり始めた。身体が痙攣しているというか、立っていられないというか、とにかく落ち着きがなくなってきたのだ。
するとその直後、俺は思わず耳を塞いだ。
「ぷごぉーーーーーーーーーーー!! ぷぎぃーーーーーーーーーーー!!!」
叫び声とも捉えられるけたたましい咆哮を間断なく上げ始めたのだ。
それもそのはず、さっき投げた結晶はアルカリ性だ。きっと口や喉が焼かれるような痛みに襲われていることだろう。
あらゆる方向に飛び跳ねまくっている大イノシシがこっちの方にも飛んできた。
「うわ! こっちに来るなー!!」
子犬に覆いかぶさるように身をかがめる。
死を覚悟した瞬間、ドゴォ!!と衝撃音がした。
かがんだままの状態で目をあけ、さっきまで大イノシシがいた場所を見ると、今度はシュティローが立っていた。
視界に映るシュティローの脚は俺の方を向いていない。
シュティローの奥を見るように体の角度を変えると、さっきの大イノシシが横たわっていた。
…助かった。
シュティローの姿が見えたことで安心し、やっと力が抜けた。
「シュティローおじさん… 来てくれたんだね」
「騒がしいから気になって来てみたら、オリバーが魔物と戦ってて驚いたぞ! どこかに隠れるんじゃなかったのか?」
シュティローおじさんは俺の方に向き直った。怒っているようではなく、どちらかというと表情は明るいように見えるが、一応謝っておこう。
「ごめんなさい…」
「いやいや、責めてる訳じゃないぞ。まさか魔物と戦うとは思ってなかっただけだ。それより何を抱えているんだ?」
そう言われて俺は子犬を庇っていたことをハッと思い出した。俺はバッと体を起こすと、子犬は伏せの状態で、首を傾げて見上げた。石は両足の間に置いてある。
…子犬、潰してなくてよかった。
シュティローは興味深そうにその子犬を見て、感心したように声を出した。
「ほぅ…テレピコトゥルフの子供を守っていたのか…」
…テレピコトゥルフ? なんだそれ? 犬じゃないってこと?
「この子、テレピコトゥルフって言うの? 動物?魔物?」
「オリバーは魔物は初めて見るのか? 額に魔石があるだろう?これがついていたら、動物じゃなくて魔物だ。トゥルフっていうのは狼の魔物のことだ」
俺は動物と魔物の見分け方がわからなかったが、どうやらこの子犬は狼の魔物らしい。テレピコトゥルフという名前がちょっとおもしろいと思うのは、日本語は聞き馴染みがなかったからだなと一人で勝手に納得した。
トゥルフ族は狼を祖先に持つとディータが言っていたが、トゥルフは狼の魔物という意味だったようだ。
そして額についているのは石ではなく魔石と呼ばれているもので、これが大きいほど魔力が強いらしい。
俺がさっき戦った大イノシシも額に黒い石がついていたから、あいつも魔物だったということだ。
「…もしかして、オリバーは魔物か動物かわからずに守ってたのか?」
「え? 怪我してるし、まだ子犬だし、目の前で食べられるのを見たくなかったから守っただけだよ?」
「…そうなのか」
何やら驚いたような顔をした気がしたが、すぐ優しい笑顔に戻ったシュティローに俺は質問をする。
「じゃあ、この子が宝物みたいに大切にしてるこの赤い石も魔石?」
シュティローは、首を傾げながら話を聞いている犬の短い黒い両足の間にある赤い石を見た。
「大きさと色からの判断になるが、この子の親の魔石だろうな」
「…多分、親と一緒にさっきの魔物に追われてたのかもしれない。魔物が近づいてきたとき、この子すごく怯えてたんだ」
子犬と俺が遭遇した状況と、この魔石を大事そうに扱っている様子が、この赤い魔石が親のものだというシュティローの憶測を裏付けているように俺は感じた。
「そうか… 子供を守りながら逃げて途中で力尽きてしまったのかもしれないな。魔物は死ぬと魔石だけが残るから」
シュティローは子犬の顎あたりを撫でようと手を伸ばしたが噛まれた。だが、そんなことを全く気にしない様子で噛まれていない他の指で撫でている。多分、この人は痛みを感じてないと思う。
…シュティローおじさんに殴られでもしたら即死だぞ!おとなしく撫でられてろ!
俺の念が届いたのか子犬が根負けしたのか、シュティローの指をぺろぺろ舐め始めた。もう二度と噛みつかないで欲しい。見てるこっちがハラハラする。
「母親か父親かどちらかまではさすがにわからないが、子供と共に行動するのは母親の場合が多いから、母親の魔石かもしれないな。それにしてもエーバーがかなり暴れていたが、何をしたんだ?」
「泉に結晶が生えてるでしょ?あれを投げて食べさせた」
俺が簡潔に答えるとシュティローは目を見張り、ぽかんと口を開けたままの状態の数秒後、大笑いし始めた。
「はっはっは! そんな戦い方をしたのか!オリバーは随分と賢いんだな!」
「皮膚が溶けるってシュティローおじさんが言ってたし、食べたら口の中が溶けると思ったんだ」
あれはアルカリ性の結晶だよ、なんて口を滑らせたくないので俺は話題を変えるべく、心配していたことを聞いてみる。
「でも、死んじゃったよね? 殺したら山が火を噴くんだよね? 大丈夫かな?」
「ああ、一匹くらいなら大丈夫だ。何十匹も殺したら話は別だが、この一匹だけなら問題ないさ。魔物と戦ったこともないのによく頑張ったな。偉いぞ、オリバー!」
まだ笑いが収まらないシュティローの返答に俺はホッと胸をなでおろし、褒めてもらえたことを素直に喜んだ。魔物を倒せた喜びと、シュティローが来た安心で自然と笑みが溢れた。
「シュティローおじさんは?塩は採れたの?」
シュティローは腰にぶら下がっている、塩の入っているであろう袋をパンパンと叩き「しっかり採れたぞ」と言う。
「しかも今日は肉もある!オリバーのおかげで大収穫だ!」
なんとあの大イノシシは食べられるらしい。魔物って食べられるんだ、とびっくりしているとシュティローがおもむろに短剣を取り出し横たわっているエーバーに近づいていった。
「シュティローおじさん、何するの?」
「何って、血抜きに決まってるだろ? このまま放置してても魔石になるだけだ。早めに血抜きしとかないと味が落ちるしな」
そう言うとシュティローが首の付け根あたりにナイフをぐさりと刺す。エーバーから出る血が地面にじわじわと広がっていくのが目に飛び込んできた。
突然の出来事と光景に、俺は貧血のように頭がクラクラしてきた。
スーパーでパッケージに入った肉しか見たことのない俺にはかなりの衝撃映像で、心臓がバクバク言い、指先が冷たくなっていく。
どんどん体から血の気が引いていき、小さくなっていく子犬の声を最後に、俺の意識は暗転した。
尻尾の描写が少ないですが、シュティローに褒められたときにオリバーは尻尾をぶんぶん振っています(本人無自覚)