幕間:偽りの数
地下牢の中は退屈だった。取り調べもなければ面会もない。ミハイル・グリンカとしての残り僅かの時間の大半は、何をすることもなく無為に過ぎ去っていった。
裁判は開かれず、明日には処刑と聞いている。田舎の小国では異例のことだった。
ミハイル・グリンカ。42歳。アリーセ王国リーンハルト本部調査官室室長代理。下町育ちのせいか言葉遣いが荒いことと、ほんの少しだけ詰めが甘いのが欠点。実は愛妻家で、老後は妻とのんびり旅行がしたいなんて周囲には漏らしていた。
見栄えはしないが波乱もない。そんな日常が崩れたのは今から2年前。逆らえば妻に危害を加えると脅されて東の大国に情報を流すようになった。半年ほど前には老いた母を人質に取られて西の大国に部下を売った。
最低な所業だと思うかもしれない。だけど仕方なかったのだ。命じられれば俺に拒否権はない。もっとも、俺だって出来る限りの抵抗はしてきた。
エリーセ・イーゲンのギリア海行きの情報を既知だというレッドデイヴィスの英雄一行に流したのもその一環だ。ただ、やっとの思いで書類を片付けエリーセ・イーゲンをギリア海に送り出した後、あいつの部屋を家探ししてこいと命じられた時は途方にくれた。
エリーセ・イーゲンは自室を要塞化していたのだ。いったい、何からの襲撃を想定したらこんな堅固な防犯対策をとることになるのか? ギルドの仕事が終わった後、毎晩〈結界〉破りに向かったが、何日もかけて、とっかかりすら掴めなかった。
ウォルフガング室長の〈マジック・キャッスル〉が天才的な閃きから発明された魔術だとするならば、エリーセ・イーゲンの〈結界〉は、基本を愚直に積み重ねただけのものだ。だが、あそこまで隙間もないほど密に〈陣〉を積み重ねられたらお手上げだ。なんというか、表面があまりに滑らかすぎて、魔力が滑るのだ。ミュルミューレの机からちょろまかしてきたきのこの胞子でさえ付着しない。
しかも、留守中入れ替わり立ち代わり訪問者がやってきたせいで、作業は度々中断された。
1日目の明け方間近に来たのは変な奴だった。この蒸し暑いのに正装してやってきたし、言動もヤバかった。張り巡らされた〈結界〉を見て「え? もしかしてワタクシ、嫌われてたりしまス?」とクネクネした挙句、歳のせいか早起きしていた大家の老婆に「エリーセなら留守だよ!」と箒で追い払われた。
「待ってたら帰ってきたりしまス?」
「ギリア海まで行ってるんだ、当分帰ってこないよ!」
という会話を聞いたときには頭を抱えた。人のことを言えた義理じゃないが、行き先をこんな変質者に喋るなよ。まったく、あの変質者が本当にギリア海まで行ったらどうするんだ。
こんな奴に付きまとわれてたら、防犯対策が過剰になるのも無理はない。エリーセ・イーゲンが調査官室で「不審者対策はバッチリですよ!」と息巻いていたことがあったが、こういう意味だったのだろうか? あの時、もうちょっと不審者対策とやらについて聞いておけばよかったと思う。
続いて4日目の夜中に来たのはなんと《森の魔女》様と使い魔の白いカラスだった。工具の準備で少し離れた隙にやってきたらしく、戻って来たときには裏庭に佇んでいた。白いカラスがそわそわと見守る中、《森の魔女》様は一晩中何をするでもなく裏庭にいて、夜が白み始めてようやく《領域》に帰って行った。
なんの用があったのか知らないが、《森の魔女》様が居座ったせいでこの日の仕事は全く進まなかった。
そして、諦めムードが漂い始めた9日目。しげみの影で弁当をかっこみながら、何かヒントはないかと〈魔導書〉をめくっていると、子供に声をかけられた。
「おじさん、ドロボウ? エリーセおねえちゃんの部屋はすごい〈結界〉が張ってあるから、入れないよ」
「お前、あれが〈視える〉のか?」
俺が問いかけるとガキは首をこくんと縦に振った。驚いたな。この年でアレが〈視える〉のか……。
「鍵がないと入れないよ」
何を当たり前のことを言うのだと思ったが、ふと気が付いた。大家なら、合鍵を持ってるんじゃないか? 一か八か試してみる価値はある。
「そうだな、坊主の言う通りだ。俺はもう行くけど、お前も早く家に帰れよ。飯はもう食ったか? かぁちゃん心配するぞ?」
俺にしては努めて優しく言うと、振り返ることなくその場を離れた。もちろん行先は大家の部屋だ。手早く忍び込み合鍵を拝借すると、驚くほどすんなりと103号室の扉が開いた。
目の前には食卓が一つに椅子が2脚。しきり代わりの薄い布の奥にあるのは箪笥とベッドだろう。それから、部屋の雰囲気にそぐわない豪奢な肘掛け椅子が一つ、〈工房〉に通じる〈扉〉の前に置かれていた。しまい忘れだろうか?
それを除けば室内はこざっぱりとしていて、少々意外に思う。エリーセ・イーゲンは整理整頓が苦手だったはず……。
窓を開けてむせかえるほどの薔薇の香りを逃してから、〈暗号符〉で103号室に忍び込んだことを報告すると、10分もしないうちにフードを目深に被った男たちがやってきた。合鍵を渡すと手振り一つで追い払われたので、素早くあすこと荘を後にする。男達は家探しを始めていた。
〈ゴーレム核〉なんて特大の餌を使って一調査官をおびき寄せ、留守の間に部屋の中を調べるなんて、いったい何が目的なのか。
今まで集めて流した情報は、それが何に使われるのかだいたい予測がついたが、今回はさっぱり分からない。
危険なことに巻き込まれなければよいのだがと心配しかけてから首を振った。レッドデイヴィスの英雄がついているんだ。大丈夫だろう。
とにもかくにも、なんとか指令を遂行した俺は、久しぶりに誰もいない家に帰った。
ところで、よく考えて欲しいことがある。
昨今、商人だって誘拐ややっかみを恐れて家族に護衛を付け、定期的に〈守護〉をかけている。まして、アリーセ王国で三本の指に入る実力者であるウォルフガング室長の側近が、いくら詰めが甘いといっても家族の防犯対策を怠ったりするだろうか。
あと、室長ほど頭の切れる人間が、何年も間諜に気が付かないなんてこと、あると思っているのだろうか。
大国ゆえの奢りは俺たちを苦しめてきたが、助けもした。
俺たちが生まれるその昔から東西の大国はこのアリーセ王国に干渉してきた。しかし、ウォルフガング室長、リュクス騎士団長、セレン宮廷魔導士という王国史上でも屈指の実力者が同年代に揃い、各人が競うように功績をあげるようになると、目に見えてアリーセ王国への警戒を強めるようになった。
守るべき家族のいる他の二人はともかく、天涯孤独のウォルフガング室長につけ込む隙なんてないから、側近である室長代理から情報を引き出そうとすることは想定されたことだった。いつもは厳重に張り巡らす〈守護〉と〈結界〉をうっかり掛け損なったところ、まずは東の大国が食いつき、次いで西の大国が食いついた。
ちなみに、ミハイル・グリンカに妻はいないし、母親はすでに他界している。ウォルフガング室長の〈エレンシア・ドール〉は受付嬢と秘書の2体だけではないのだ。いつも家で俺の帰りを待っていてくれる「妻」も、夫に先立たれて一人で暮らす「母」も室長から支給された〈人形〉だった。
〈魔眼〉でも〈聖眼〉でも見破れないほど精巧な〈人形〉が完成した時から今回の計画は始まった。計画書の1ページ目に「室長代理、旅先で運命的な恋におちる」と書いてあるのを読んだときには体中がむずむずしたし、結婚式のときにここぞとばかりに幼馴染に冷やかされたときはどれだけ「仕事だよ!」と叫びたかったことか。
しかも、この幼馴染は計画の協力者で、全て分かった上で揶揄ってきたのだ。他にも約5年間方々で俺のことを「詰めが甘い」と言いまわってくれたのだが、完全に面白がっていた。
だが、その日々もこれで終わりだ。まさか「秋の狩猟祭」の前日に、シエル・リュニエールに間諜として摘発されて終わるとは思っていなかったがな。
シエルは本気で〈魔剣〉〈オートクレール〉を突き付けてきたから、俺が室長の指示を受けて動いていたことなど知らないのだろう。何が決め手だったのか問うたところ、エリーセ・イーゲンに「サキシオル島」の上陸許可証とゴーレム捕獲許可証をやると言ったときに疑念をもち、その後の空賊騒ぎで疑いを強め、一気に調査したらしい。
まったくもって、優秀な「調査官」だ。
俺が摘発されたことはすでに東西どちらにも知られている。余計なことをしゃべる前に口封じをしようと動くだろうということで、王宮の地下牢内にわざわざ〈マジック・キャッスル〉を張って匿われた。
このまま密かに「処刑」された後は、しばらく王宮の奥でのんびりと働くことになっている。すでに新しい名前と経歴ももらった。
「ミハイル?」
凛とした声が頭上から降ってきた。弾かれたように顔を上げると、意外な人物が牢の外に立っていた。
「エメラルディか?」
「私以外に牢の中の貴方に面会にきてくれうような人、誰がいるっていうのよ?」
「あー……、妻とか? 母親とか?」
俺がそう言うと、幼馴染は噴き出した。
「で、何しにきたんだ」
「たいしたことじゃないのよ。でも、ついてきて欲しいところがあって」
「どこだ? 悪いが当分は動けないぞ?」
「動けるようになったらでいいわ」
歌うように告げると、何が面白いのかエメラルディはクスクスと笑った。
「行き先もこれから決めればいいことだわ。これだけ協力したんだから、もちろん結婚してくれるわよね?」
そう言った時のエメラルディの顔を見て、俺はこの先一生、こいつの尻にひかれるんだろうなぁと思った。




