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街を歩くのは中流階級以下の、おそらく平民の人たちで、貴族は馬車で行き過ぎる。
大通りに出ると特に、そのスピードは容赦がなかった。気を張っていないとうっかり轢かれそうだ。
歩行者は慣れたもので、人や馬車の合間を縫って、難なく進んでいく。
これが王都。目抜き通りには、その名にふさわしい、活気の溢れる風景があった。
この道に並ぶ店はどれも少しお洒落だったり綺麗だったりで、アリサとテレッサに聞いていたより料金設定が少し高めだった。
もっと庶民が住むのに優しい地域もありそうだ。
スラムもあると聞いたので、街の中で格差が大きく、エリアごとに生活する人たちが変わるのだろう。
貧困層や富裕層が、城壁の中にコンパクトにまとまっているのを想像すると、日本より格段に、貧富の差が見えやすい街だ。
この大通りでさえ衛生面が心配なのに、スラムは一体どうなっているのか。
怖いもの見たさはあるが、バッドエンドの予感しかしないので、とりあえず興味を向けるのは控えよう。
袋にまとめて入れられている薬草らしきものを、貼られた表示を見ながら無意識に五十音順に並べ替えて歩いていると、前の背中が突然迫っていた。
「わっ」
思わず声を上げると、彼女が振り返った。
どうやら立ち止まったらしいが、感情が読みづらく目的はわからない。なにか忘れ物でもしたのだろうか。
それともじっとこちらを見ているので、ついに話しかけようという気になったのか。
と思ったところに、すぐ横を馬車が通りかかった。
想定より真近を通った車輪が沿道に溜まった泥水を跳ね返し、見事にわたしたち2人を汚す。
せっかく話しかけようとしたらしい彼女は、泥水を被ったお仕着せを見下ろした。
無駄な会話をしないだけではなく、表情も少し乏しいらしい。
なんとなく面白い人かもしれないなぁと思った。ちょっと笑えてきてしまう。笑わないけど。
「大変失礼しました。お怪我はございませんか」
とそこに、声がかかった。
杖をついたご老人、と思いきや、杖はついているが随分若い男が、こちらに向かって来ていた。片足が悪いらしい。
今しがた泥水を跳ねた馬車が、彼のすく後ろで止まっていた。
その風貌から察するに、どうやら通りすがりでも御者でもなく、乗っていたご本人様だ。
(げ)
間違いなく貴族とわかる上質な服を来ているが、ロキュスのように装飾過多ではない。
なので歳は変わらないようでも印象は落ち着いている。上品に感じる佇まいだった。
それでも貴族は貴族。しかも男。できるだけ関わりを持ちたくなかった。
何なら少し鳥肌が立っている。
「怪我はありません」
無礼にあたるのではと、どきっとするほど、彼女の答えは必要最低限だった。
しかし確かに遠慮なく言わせてもらえば、怪我はないが服の被害はあるわけで、言葉は適切と言わざるを得ない。
「ああ、お召し物を汚してしまいましたね。申し訳ない。是非私の屋敷まで同行願えないだろうか。そこで代わりの服を用意させていただきたい」
突然現れた貴族に馬車で屋敷に連れていかれることに関しては、トラウマレベルで避けたい事案だ。
こういう事故での適切な流儀が、わたしにはわからない。
わからないから答えは出ないが、この流れはおかしくないだろうか。お貴族様が明らかに自分よりも身分の低い者の服を、ここまで気にするなんて。
おかしいだろう。おかしいに違いない。
どうかおかしいと言ってくれ、我が同行者!
わたしは祈りながら、彼女の適切な一言を待ったが、それは裏切られてしまった。
「わかりました。ではお願いします」
考える素振りは見せたものの、拍子抜けするほどあっさり頷いて、彼女は馬車へ移動し始める。
一度振り返り、仕草でわたしをも促した。放っておいてくれて全然構わなかったのに。
(どうしよう)
貴族の申し出に対して、断るという選択肢は用意されていない社会なのかもしれない。
お金を持っていないし道にも自信がないから、1人で屋敷に帰ることはできない。
そんなことはわかっている。
それでも足は躊躇った。
一度貴族の屋敷に入ってしまえば、そこは治外法権だ。
何をされても不思議じゃない。
この世界に来て、あの男に出会ってからの日々がフラッシュバックする。
貴族に対して、自分で思ったよりも根深い忌避感があったようだ。
振り返った彼女は、事態を理解していないものと受け取ったのだろうか。
わたしの手を取り、
「大丈夫ですよ、行きましょう」
と初めて言葉をくれた。
やはり冷たい人ではないのだろう。
彼女を1人で行かせるわけにもいかない。
あの男以上の最悪はないと心で何度か唱えて、わたしはなんとか震えず馬車に乗り込んだ。
場所は多分、パーセットの屋敷よりも中心街に近かったと思われる。同じ郊外でも方向が違ったかもしれない。
でも実際は、緊張が限界突破でよくわからなかった。
部屋の調度は、やはり華美ではないが上品にまとめられていて趣味がよかった。
しかし慣れない貴族の屋敷など、どんなに素敵でも、居心地が悪いだけだ。ざわざわする。
応接室のソファでまんじりともせず待機している現状。
とても落ち着かないので、馬車での貴族と同行者のやり取りを反芻してみる。
彼らの言葉はとても綺麗で聞き取りやすかった。
内容はといえば、
『私はエサイアス・ヴァルトという。貴女方はどこかの家の使用人だろうか』
『パーセット伯爵家で侍女職を勤めております』
『仕事で街へ?』
『はい。買い出しをしておりました』
『それは、時間を取らせて申し訳なかったね』
『いえ、用件はちょうど済んだところでしたので』
『それは良かった』
だいたいこんなような感じだったと思う。
2人の会話にあまりに色気がないので、逆に拍子抜けというか、なんというか。業務連絡かよ。
でも少しだけ安心できた。
会話の最中、こちらにも何度か視線を感じたが、それも物色するようなものではなかった。
でもたかだか使用人の服を汚しただけで、わざわざ屋敷にまで招待するものだろうか。そこがずっと気になっている。
それこそ謝罪したいのであれば、侍従か御者が1人出てきて、小金を握らせるくらいで済むのでは?
効率重視の現代人感覚だと、ロスタイムが多すぎてお互い不利益にしかならないやり取りだ。
なにか思惑があるのではないかと、つい穿ってしまう。
貴族は全員くそったれではないと、頭ではわかっている。けれど、身体が覚えてしまっていた。
現に今だって、呼吸が浅くならないように気をつけなければならない。どうしても、全身に力が入ってしまう。
鞭で打たれた場所が熱をもつように訴える。
クズ、馬鹿、ブス、ゴミと罵倒する男の声が耳で鳴る。言葉が理解できるようになって、あの時間だけは不都合が増えた。
貴族なんか皆いなくなればいいのに。
アリサとテレッサのためにも、無事に帰らなければならないのに。
「大丈夫ですか」
静かな声だったにもかかわらず、過剰に肩が反応した。
「え?」
「汗が」
「あ、ああ」
隣に座った同行者がハンカチで額を拭ってくれた。
「ありがとうございます」
「いえ」
落ち着くように意識している時点で、落ち着いていない証拠だ。
自分はずっと冷静なつもりでいるけれど、とっくに違うのかもしれない。
現にわたしは、自分が普通に受け答えをしていることにまったく気づいていなかった。
「名前を」
「はい?」
「わたしはカシュカと申します。名前を教えてもらえませんか」
名前。
わたしの名前。
ぐわんぐわんとこれまでの色んな音が頭の中を回る。
「わたしは、わたしの名前はマナです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」