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 朝の寒さが傷に染みてツラくなってきたなと感じる頃、思わぬ幸運が舞い降りた。


 屋敷の使用人が軒並み流行り風邪でダウンしてしまい、街への買い出し要員として、初めてわたしが指名されたのだ。

 今のところ怪我で熱は出すものの、何とか風邪は免れている。

 庭や厨房で野菜や果物、他諸々のつまみ食いを見逃してもらっているせいだろうか。


 食事の栄養バランスに危機感を抱いていたのと、不本意ながらここの生活に少しだけ順応して心の余裕ができた時期が重なった。

 それで最近、数少ない『同情的な使用人』マップを頭に入れ、渡り歩くことに余念がない。文字通り死活問題なのだ。


 硬いパンとベーコンと薄いスープでは、寒暖差の激しい今の気候、どんなに健康な人も体調を崩すと思う。

 けれどあまりバランスを意識して食べている人はおらず、貴族の一部には『地面の下にできたものは食べない』とかいう謎ルールまであるらしい。

 人参もジャガイモも玉ねぎも食べない気だろうか。

 カレーが食べたくなってきた。


 そしてわたしは、ただの風邪でも一度引いたら、命取りになりうる環境にいる。

 抵抗力が下がった途端、傷口から破傷風になるとか冗談じゃない。


 現代日本人たるもの病気は薬で治すのが当たり前で、自己治癒力とかちゃんとあるのかも不安だし。

 肺炎併発でもするんじゃないか?

 栄養価を考えて、本当は玉子と牛乳も毎日ほしい。


 野菜については、庭にある家庭菜園の取り残しで随分助かっていた。

 何故か家庭菜園とは別に、観賞用で庭の一角に植えられた赤い実が、トマトだったりもした。こっそり盗んでいる。


 ということで、涙ぐましい努力の甲斐あって(?)、今のところ死に至る病は罹患せずに済んでいる。

 さらに街へ出るという幸運にも繋がったということだ。


 ここに来てから体感では数年にも感じるが、実際には多分半年を超えたあたりだろう。

 とはいえ、決して短くない時間を過ごす中で初めて、街に出ることができるのだ。


 もちろん、1人ではない。

 わたしは侍女に同行する荷物持ちのようなポジションだ。なんせ『言葉が話せない』し『文字も読めない』から、1人で買い物などできるわけがない。

 すっと姿勢よく立つ赤い髪の同行者は、『同情的な使用人マップ』に記載される人物ではないが、だからといって『触るな危険マップ』に名前が載る人物でもない。

 というか、これまで見た覚えがないので、新しめの人なのかもしれない。


 雨の翌日で足場は悪かったが、それでも心は浮き立った。

 今回をそつなくこなせば、これから外に出られる機会が増えるかもしれない。

 そうして情報を集めてこの世界のことを知れば、逃げられる道を探れるかもしれない。

 全部ただの可能性。それも微々たるものだ。それでも、これが一歩目になりうる。

 ようやく、ここまで来られた。



 お屋敷のある郊外から馬車に揺られながら、高級住宅地のような並木道を眺める。

 冬本番になると、雪が降って積もることもあるらしい。

 今は大きな枯れ葉が所々に重なっていた。


 同乗者は、こちらが話さないことをわかっているのか、道中一言も発しなかった。

 風景を楽しむのに忙しかったので、むしろそれはありがたい。結局わたしたちは自己紹介さえしないまま、馬車は進んでいく。


 道は煉瓦が敷き詰められ、馬の蹄が軽快な音を立てていた。

 お金持ち様の馬車だから質はいいはずなのに、まぁまぁ揺れる。座り心地は悪くないが。

 街の中心地に近づくにつれ、建物が増えていった。


 瀟洒な高級住宅街を抜けると、突然活気ある街並みが現れる。空気がまるで違った。

 初日にチラ見した印象通り、西欧のイメージに近い。

 2階から3階くらいの建物が沿道に整列するように並び、その多くが1階に店舗を構えている。


 広場の馬車寄せまで乗りつけ、そこからは徒歩で何店か巡ることになった。

 遠景に聳えるのは王城だろうか。王都というからには城には王が住んでいるはずだ。

 城壁が丘を登るように何層か重なり、その奥、中央にいくつかの尖塔が見える。日本の城とはまったく違ったものだった。


 買い物に関しては基本ついていくだけなので、同じお仕着せの背中を見失わない程度に、小さな店々を眺めながら歩く。

 彼女はたまに振り返って、わたしがいることを確認してくれているので、意外と面倒見がいい人かもしれない。


 広場に降りて、歩き始めに感じた臭いは、おそらく馬糞だ。雨上がりの湿度で余計に強くなっているのだろう。


(想像していた感じと違う)


 煉瓦で舗装された道は、遠目には美しいが実際は衛生的とは程遠かった。

 こりゃ病気も流行するわ。

 馬糞を片づける作業員なんて職業はないのだろうか。それなら資格も身分も関係なくできそうだ。わたしでも雇ってもらえないかな。

 いや、そんな仕事があればこんなに汚れてないのか?


 草食動物の糞の臭いなら、ギリギリ耐えられる気がする。現に今もうだいぶ慣れてしまった。

 もしあるなら、仕事としてなかなか名案では。どの街にだって必要なことだし、雇ってもらえさえすればすぐにでも働ける。

 住み込み可の店舗に飛び込みで雇ってもらえるとは限らないし、代替案は必要だ。店以外の仕事には何があるのか、雇用主はどこなのか調べよう。

 綺麗な煉瓦を選んで歩きながら、無表情の中で1人満足して、帰ったらアリサとテレッサに聞いてみようと考える。


 そんな風に浮かれながらも、予想たがわぬ文化レベルに、改めて再確認した。急に自動車が走っていたり、エレベーターがあったりはしない。

 ここが本当に、自分の知る時代ではないということを。


 では過去なのだろうか。それもはっきりしない。

 とりあえず今は、得られるだけの情報を得て帰ろうと、周囲の人々や店を観察した。


 同行者との会話は相変わらずない。

 わたしからは確かに何も話さないが、それでも沈黙を嫌うタイプの人は、何かしら話しかけてくるものだけど。

 まぁわかっていないフリをして、少し表情を変えたり、相槌を打ったりしてやり過ごすのも気を遣うから、このままで特に問題はないが。


 彼女はお店に入って店員と話す以外、無駄な会話を一切しなかった。

 冷たい人、というよりは理知的な印象を受ける。こんな人材があの屋敷にいたとは驚きだ。


 食材や布などの重いものは、注文だけして屋敷に届けてもらうよう手際よく手配してくれている。

 ふと気づけば、何のために同行したのかわからないくらいの荷物しかなかった。

 荷物持ちというより、なにか不測の事態に備えて、バディを組ませる感覚に近いのかもしれない。


 街を観察していて気づいたのは、初日に着せられたドレスワンピースは、特別なものではなく、平民のお出かけ着くらいのものだったようだということ。

 日本で暮らしていたら、絶対に一生着なかっただろうデザインだった。このお仕着せも大して違いはないが。

 あの夜の、嫌なことを思い出して、一度首を振る。


 前を行く彼女がこちらをふと見たので、首を傾けて誤魔化した。話せたとしても、これは口にもしたくない記憶だ。

 そういえば、来ていたジャージとスウェットはどうなったんだろう。


(捨てられたんだろうな)


 こんなメイド服モドキより、あっちの方がよっぽど仕事しやすいのに。



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