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「この屋敷を出て他で働くってこと、考えたことある?」


「え?」


 今日は実は、この話をするために時間を取ってもらったのだ。


「いいえ、それは無理だわ」


 目を真ん丸にして驚くリズ。そしてステラから、やけにきっぱりと応えが返ってきた。


「なぜ?」


「自分から辞めたいと希望を出したり、お咎めを受けて出されたりした時、この家では紹介状を持たせてくれないのよ。だから、同じ仕事につくことが難しいの」


「だから辞められないのか」


 どんなブラック企業だよ。


「そうね。それにわたしたちは、元の家と縁も切らされてるから、あの方の庇護下でしか生きられないと思う」


 リズが悲しげに言った。


「縁を、切らされてる?」


 家族がいないのではなく、縁を切らされるとはどういうことなのか。


「あの、わたしたちはマナと同じで、あの方に突然、この屋敷に連れてこられた平民なの」


「マナが来るまでは、鞭で打たれていたのはわたしたちだったわ。こんなに頻繁ではなかったけれど」


 彼女たちが話すことは本当に何から何まで不快な内容だった。

 あの男は悪代官よろしく、見初めた平民を半ば攫うように連れてきて、家族にはすずめの涙ほどの金を握らせ縁を切らせるのだという。

 そして貴族の家としての体面を保つために、子飼いの子爵男爵家の家名を名乗らせ、貴族子女の行儀見習いの名目で雇用する。

 詳細に自信はないが、聞き取れたのはおおよそそんな話。


 彼女たちが貰っている給金は小遣い程度。

 子どもができたり、自分が飽きたら、不祥事を起こしたことにして身一つで放り出す。

 そんなことを繰り返しているのだという。


「でもそれなら逆に、たとえ放り出されても、身分は貴族ってことにならないの?それなら就職は」


「そうじゃないの、多分ね。わたしたちについた身分ではないのよ。ここを出たことがないからわからないけれど。おそらく、この屋敷内限定の、役職のようなものなの」


「どういう意味?」


「『この家で働いている若い女』が、『貴族の子女』ってこと」


 リズが神妙な顔でわたしに応えた。


「え、それって」


「連れてこられた時に、あの方に言われたわ。この家にいる間は、ステラ・ヤーキンを名乗れと。わたしの名前、本当はテレッサって言うのよ」


 息を呑んだ。

 ここまで酷いのか。

 消耗品扱いというだけでなく、名前さえも捨てさせる?

 人間をどこまで馬鹿にするんだろう。


 そして体面は気にするくせに、手間を惜しんで、同じ容器に中身だけ詰め替えるみたいなことを。

 きっと何とも思わずに。

 そこにあるのは端から端まで自分の都合だけだ。


「ここを出るということは、アリサに戻れるということでもあるけど。例えば、元の家に帰ったとしても、事情は近所中が知っているから、貰い手なんてないだろうし。

 縁を切る契約書がある以上、家に戻ったらあの方の報復がいつあるかもわからない。そんな危険に家族を晒せない」


 だから、ここにいるしかないの。リズもそう言って悲しげに笑った。


「リズの本名は、アリサっていうの?」


「ええ」


「アリサにテレッサ。うん、じゃあこれからはそっちで呼ぶことにする」


「え、でも」


「どうせわたしが呼ぶ時は、3人だけの時だもの。わたしの名前を呼んでくれる2人のことは、ちゃんと呼びたい。ダメかな?」


「いいえ」


 リズ改めアリサと、ステラ改めテレッサが、くしゃっと笑った。

 泣くのを堪えて、わたしを抱きしめる。


「いつか、3人で、本当にここを出られたら素敵ね」


 テレッサが、夢を語るように呟いた。




「うん。それなら、そのための準備をしようよ。2人とも、ちゃんと暮らせて、家族に害がなければ、ここを出たいってことだもんね」


「え?」


「準備って、どういうこと?」


 わたしの言葉に顔を上げてアリサが首を傾げた。

 現実の話だとは思っていなかったのだろう。テレッサも戸惑っている。


「この先どうなるかはわからないけど、いざ放り出された時に、自力で暮らせるようにするっていうこと」


 わたしは近々殺されてしまうのかもしれない。でもそうならないかもしれない。

 あの庭に埋めた書類を、どうにかして活かせるかもしれない。

 この先のことは誰にもわからない。


 そんな不確定なことを口にはできないけれど。

 たとえここから逃げられなくても、準備は彼女たちにとっても無駄にならないはず。


 生きているうちにできること。考えて思いつくことは、やってみるべきだ。

 それが少しでも彼女たちのこの先に、役立つのであればなおさら。


「ここが終わりじゃないよ。もっと、生きるのに向いた場所は絶対にあるんだから」


 そう、わたしは知っている。違う価値観、違う国、どこにだって本当は行ける。


「万が一ここを出ても困らないように、必要な技術や知識を増やしていこうよ。その材料集めのために、朝の仕事をサボりたいんだ、実は」


 でも下手に希望をもってしまったら、余計につらくなるかな。と眉を寄せると、勢い良く首を振った2人から、真剣な眼差しが向けられた。


「マナは本当にすごい」


「そうね、目から鱗が落ちたわ。わたし、本当に今のことしか考えていなかった」


「こんな生活なら、無理もないよ」


 苦笑して、3人で目を合わせる。


「それで、なにをすればいいのかな」


「字なら少し読めるわ」


 2人はここで生き抜いているだけあって、切り替えも早いし、若いのに並の大人より肝がすわっている。

 頼もしく感じて、自然に口角が上がった。


「この国ことはよくわからないけど、まずは字の読み書きと、計算かな。計算はわたしが教えるよ。その代わり字を教えてほしい」


「字が読めないのに、計算はできるの?」


 テレッサが不思議そうな顔をする。


「うん、計算だけなら、ここの執事にも負けないかも?」


「ええ?」


 これは冗談と受け取られたらしく、2人が笑った。

 知り合ってから、一番前向きで明るい笑い声だった。



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