5
「朝の仕事、昨日まで代わってくれてありがとう、リズ、ステラ」
体調が戻った夜に、いつものメンバーで顔を合わせた。
「ううん」
「そんなことくらいしか、できなくてごめんなさい」
下働きの制服から部屋着に着替えた2人が、小声で返事を返す。
ここはステラの部屋。
月が出ている日は、角部屋のここが明るく一番話しやすい。
ただし壁が薄いので密やかに。
「そんなことない。気持ちもすごく救われてる」
それは本心だった。
にっこり笑うと、2人も眉を下げつつ笑い返してくれる。
わたしに肩代わりをさせているような感覚なのだろう。
でもそれを言うなら、わたしだってそうなのだ。
きっと、彼女たちは。
「わたしこそ、いつもそうやってマナが笑ってくれて、どれだけ救われているか」
リズが涙目になった。
「そうよ。わたしたちにできることなら、なんでも言ってほしいわ」
ステラがわたしの手をそっと包んだ。
わたしのマナという名前を呼んでくれるのは、この世界ではこの2人しかいない。
自分の名前も、彼女たちがいなければ忘れてしまいそうだ。
「ありがとう。あのね、もしできるなら、協力を頼みたいんだ」
「うん、どんなこと?」
「また朝の仕事を代わってほしい」
「またあの方の呼び出しがあったの?」
悲愴な表情を浮かべて、ステラが問う。
「ううん、それは当日に言われるからわからないんだけど、それとは関係なく、これから毎日代わってほしいの。難しいかな?」
「毎日かぁ。朝の点呼と連絡伝達が終わった後なら、大丈夫かな」
「そうね、午前中はあまり突発的な仕事は入らないし問題ないと思うわ」
理由も聞かず、嫌な顔一つせず、2人は頷いてくれた。神か。
以前、何度も変わってもらって申し訳ないと頭を下げたことがある。
すると、リズから『普通の仕事は気が紛れるから、むしろ忙しい方がありがたい』と返ってきた。
その時の2人の、無理に笑おうとした表情が忘れられない。
彼女たちには、『普通じゃない』仕事がある。
本人から聞いたわけではないが、屋敷内の口さがない連中の噂で、想像がついてしまった。
(胸糞悪い)
ロキュスは女を、人間を、何だと思っているのか。
けれど、この社会構造を知るにつけ、やつばかりか貴族そのものに強い嫌悪を感じるようになった。
諸悪の根源は、『これが普通』だと思う人間の価値観にある。
貴族も平民も、わたしからすれば問題だらけだ。
この世界を成り立たせるシステムを、簡単に否定するのは傲慢だと思うのに。
感情がうまく抑えられない時がある。
「じゃあ、点呼の後に」
脱線しかけた思考を戻し、言葉を繋いで、あれ、と思った。
「点呼、って、そうか、そうだね。あれ?じゃあ今まではどうしてたの?わたし起こされないことも多かったけど」
「それは」
リズが言い淀むと、ステラが引き継いだ。
「みんな知ってるのよ、あの方がマナに何をしてるか。侍女長だってもちろんね。だから、その次の日はいなくても見逃すんだわ」
知っていて、見て見ぬふりをしている。
それは自分たちも一緒だと、侍女長だけを責める色を出し切れず、言葉は複雑な響きを持った。
「ふーん、それはありがたいね」
「ふーんって、それだけ?腹は立たないの?」
わたしたちにだって!と2人が眉を寄せる。
彼女たちは、こんな環境にいてなお、優しい。それがどれだけ得難いことか。
「あなたたちや侍女長に腹を立てるなら、まずはあいつを殺さない自分に腹を立てないといけない」
あと余計な労力を使いたくない。
そう伝えると、2人がぽかんと口を開けた。
そして、ステラがすぐにはっとする。
「マナ、貴族を手にかけるなんて考えては駄目よ!」
より声を潜めて、言い募る。
「自分が殺されるだけじゃない、家族にも罪が及ぶわ」
「そう、そうだよ。それにあの方は騎士だもの。敵うわけない!」
リズも訴えた。
その必死な様子に、申し訳なくなってわたしは頷く。
「うん、ごめん。殺そうとしたりしないよ」
わたしの家族は、ここにいない。
けれど、2人が巻き添えに罪を問われる可能性はあるかもしれない。
彼女たちがそれを心配して助言をくれているわけではないだろうが、今初めてそこに思い至った。
貴族を手にかけた平民への厳罰は、見せしめであり、境界を踏みにじった愚者に対する貴族界すべての怒りだろう。
わたしに身寄りがないとして、罪がたった1人でおさまる保証はどこにもない。
やはり文化も常識も違うところで迂闊なことはするべきじゃないのだ。
「心配してくれてありがとう、2人とも。変なこと言ってごめんね。でもやっぱり、責めるべき所は合ってると思うんだ」
困惑を浮かべる2人に笑顔を向ける。
「貴族も平民も同じ人間なんだから、相手が誰であれ、傷つける人が悪い。だからロキュスが悪い。ただそれだけのことだと思う」
リズが目を見開いて、ステラは困り顔をした。
「わかってるよ、法律は違うよね。それに逆らえるとは思ってない。だから何もしない。だけど、本当はそうなんだって、思ってるのは自由でしょ」
『ただそれだけのこと』が、ここではまかり通らない。
それによって守られる貴族という身分があるなら、彼らは人より多い義務を課されるべきだ。
けれどそこは、法ではなく良心に任されているのではないのか。
おかしいと、思うけれど。わたしには何の力もないから。
「そう、だよね」
リズが呟いた。
「びっくりした。すごいね、マナ。そうだよね、悪いのは、傷つけた人なんだよね。みんな、同じ人間なんだから」
噛み締めるように繰り返す。
「わたし、身分が違うんだから、傷つけられるのも仕方ないってどこかで思ってた。納得、しちゃってたと思う。でも、違うよね」
リズの両目が見る間に揺らいでいく。
「わたし、嫌だと思っていいよね。あの方のすること、ありがたくなんて、思わなくていいんだよね」
「そんなの、当たり前じゃん」
心は自由と、言うのは簡単だ。
実際は体調を少し崩しただけで、影響を受けるくらい思い通りにならない。
常識とかルールを気にしないではいられないし、雁字搦めのものだと思う。
それでもリズは、嗚咽を堪えるように、口を手で覆った。
何が琴線に触れたのか、正確にはわからない。
けれどこうして泣けることは、彼女にとって悪いことではないかもしれない。
「わたしは」
ステラが、伏し目がちに口を開いた。
「納得を、してしまった方が楽だと思うわ」
だって、状況は変えられないんだから。そう言って自嘲めいた笑みを浮かべる。
「ごめんなさいね、後ろ向きで」
「そんなことない」
ステラの言うことは正しい。
違う違うと思い続けるよりも、こんなものだと諦めてしまった方が、生きるのは楽だ。
けれど。
「でもさ、状況って、ホントに何も変えられないのかな」
そう言うと、2人の視線が集まった。