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午前中は目が覚めなかった。
起こされた記憶もない。
わたしの仕事は誰かがカバーしてくれたらしい。ありがたい。
「また、熱が出てる」
声も掠れていた。
まぁ未だに大部分の人には、言葉が理解できないと思われているから、話す必要はないんだけれど。
何か月も経っているのに、まだ話せないって、どんだけ馬鹿だと思われているのか。
いや、単純に興味がないんだろうな。
そしてひたすらに人間だと思われていない。
頭痛が酷かったが食べなければ体力がもたないので、使用人用の食堂で賄いを無理やり呑み込んだ。
喉が痛い。思考が朦朧としている。
だからといって、することは変わらない。
午後には、帳簿の整理をしに、執務室に行った。
本来ならロキュスの執務室だが、彼がいるのを見たことは無い。
多分執事あたりに任せ切りなのだろう。
それともまだご子息だから、やらなくていい仕事なのだろうか。
わたしは読めない話せない無学な愚者だと思われているせいで、割と機密に近い文書や会話に遭遇している(ということに最近やっと気づいた)。
執務室の仕事もその一つだ。
『帳簿の整理』はその際たるもので、つまりは何かの証拠隠滅作業かと思われた。
文字は確かにそれほどわからないが、数字はわかるし計算もできる。ここのお金の単位や価値も教えて貰った。
資格の勉強を始めていたので、簿記知識も多少ある。
きっともう少ししたら、この書類の意味もわかるようになるのになぁ。
そう思いませんか、ねぇ、先輩。
と無言無表情のまま隣を見ると、いつも通り執事が指示を出して立ち去った途端、態度を急変させた侍従が、わたしに書類を押しつけた。
「とっとと行ってこい」
どん、と突き飛ばすように押された背中に昨日の痛みが蘇る。
息を詰めると、鼻で笑う気配がした。
そのまま部屋を出る。
シュレッダーなどという便利道具はないので、これはすべて裏庭で燃やさなければならない。
一度の量はさして多くない書類を2人で担当させるのは、お互いを見張るようにとの暗黙の了解のはずだが、侍従にはもっと大切な用事があるらしい。
わたしはいつものように庭の目立たない場所に書類を埋めると、周辺から集めた落ち葉に、厨房から貰ってきた火をつけた。
(根暗かなぁ、この虎視眈々と復讐狙ってる感じ)
炎を見ていると落ち着く。
美しい、と思う。
たまに風向きが変わって煙をまともに喰らい、それどころじゃなくなるが。
(しかも経理文書読めるようになるとか、いつまでかかるって話。その前に死ぬわ)
多分冗談抜きで。
身体中痛んで、同じ姿勢でいるのはツラい。それに座っていると、もう二度と立てないような気がしてくる。
ゆっくり立ち上がって周囲を見渡した。
王都の中心から離れているとはいえ、それでも広い庭。
パーセット伯爵家は国内でも金持ちなんだろうな。
けれど、この庭にしても食器や部屋にしても、主人から見えない所は荒れている。
この屋敷は基本そうだ。
ロキュスが法であり、ロキュスのご機嫌だけ取っていればいい。
ロキュス以外の目や思考は無いのと同じだ。
だからこそご主人様の目が届かない、言及しない所は、どうでもいい。それが屋敷の状態にとても良く表れていた。
思考と善悪の放棄だ。
この屋敷にいる人間の大部分が賢そうに見えないのは、そのせいなんだろう。
日が差していても、暖かく感じなくなってきた。
お昼までは寒くて震えていたが、熱が上がりきったのか、今はむしろ風が気持ちいい。
ここがわたしにとって、唯一の外出先だった。
サボる侍従はどうかと思うが、外で一人になれるこの時間は正直ありがたい。
敷地内だけど。
この世界に来てから、いわばロキュス王国とも言える、この敷地内がわたしのすべてだ。
もうきっと、半年くらいは経っているはずなのに。
(何の冗談なんだ、ホント)
ふと気が緩むと泣きそうになる時がある。ホントに柄じゃない。
頭痛が酷くなるだけだから、そんな無駄なことはしない。
自分の思考に自嘲して、緩やかな風をうなじに受ける。
纏めた髪は、ここに来てだいぶ伸びてしまった。不揃いで艶もない。
それを気にする余裕もない日々だった。
頭が白くぼんやりとして、慌てて振った。
気を失うワケにはいかない。
現実から救うような風と穏やかな陽射しが、わたしを誘惑する。
逃げてしまえと。
この屋敷から?
生きることから?
それとも良心から?
ロキュスを殺すことを考える。
でも多分やらないだろうとも思う。
あんな小さな男を殺す罪を、わたしが一生背負ってやるなんてゴメンだ。というのは半分強がり。
男の機能を潰してやったら「ざまあみろ」と思える自信があるけど、殺してしまった後に「ざまあみろ」とは、心から思えない気がするのだ。
それは、これまでの18年で育ってしまった平和な世界のモラルとか、良心という名の楔のせいだろうか。
思考も善悪の判断も、やめてはいけない。
わたしはわたしの身体を守れない。だからせめて、わたしは死ぬまで心を守る努力をしなければ。
損なわれてしまえば、その後死ぬまで傷を残すだろう。
ここを抜け出せる可能性がまだあるなら。
この良心は捨ててはいけないものだ。
落ち葉が燃え尽きて、陽も傾いてきた。
そう、せめて。
まだできることが残っている内は、踏みとどまるべきなのだ。