31
わたしは、カシュカが去ってからも、しばらく抱き締められたままだった。
「エサイアス?」
「もし本当に、あの骨が彼女たちのものだったとして」
静かな声が胸越しに響く。
「その名を名乗らされていた君が、次に殺されないとは言えなかった。そこまで異常な環境だったなら、そもそも君に協力を依頼して屋敷に帰そうなど、考えてはいけなかったんだ」
これはわたしではなく、エサイアスが震えているのだ。
怖さなのか、怒りなのか。
(失いたくないと)
そう思ってくれている。わたしという存在を、認めるだけでなく、必要としてくれる人がいる。
「こうして貴方に助けてもらったから、ちゃんと生きていますよ、わたし」
後悔を滲ませる彼の背中に、腕を回した。
「貴方はわたしの命の恩人です。感謝だけでは、足りないくらい」
そっと身体を離して、その綺麗な深緑を見つめる。
気にしないで。ちゃんと助けられている。今この瞬間だって。
気持ちが伝わるよう頬に触れた手に、エサイアスの大きな手が重ねられた。
「うん、君が生きていて、本当に良かった」
祈るように額の前で握られた両手に、わたしの左手が包まれた。
何日か経って、エサイアスから続報がもたらされることになる。
その頃には、一日中起きているのも苦ではなくなり、ようやく食事も通常通り食べられるようになっていた。エサイアスとも、タイミングが合えばランチを一緒にしたりしている。
さすがにご飯時に相応しい話題ではないということで、その日は夜に改めて、エサイアスが部屋を訪れた。
「こういう事件は、本当に気が滅入るな。聴取をするだけで体力をもっていかれる」
紅茶を飲んで一息つくと、彼にしては珍しく、ソファに力を抜いて凭れかかった。片手は無意識に、わたしの髪を弄んでいる。
「エサイアスが直接、聴取をしているんですか?」
意外に思って問うと、エサイアスが苦笑する。てっきり指示を出す側なのだと思っていた。
「ああ、貴族への事情聴取など、できる人員は限られるからな。特にロキュスは、私を前に冷静さを失うことで、ボロを出すことも多い。
パーセット伯爵家の軍事費横領のほうは、証拠がはっきり出たので裏付けは別部署が動いている。私の出番はもうあまりないだろうが」
わたしはロキュスが裁かれるのであれば、正直罪状はなんでも構わない。
ロキュスの支配下に戻ることはもうないと、エサイアスが約束してくれたことで、わたしの中でだいぶ終わってしまった。
というより、一刻も早く忘れてしまいたかった。もう自分には関係ないと思い込みたいのだ。
けれどそこに至るまで、エサイアスが毎日こうして消耗していることを初めて知った。
「貴方が危険な目に遭うことはないんですよね?」
「ああ、ロキュスの聴取は王宮の尋問室で5人体制で行っているし、私は帯剣もしているから問題ない。
騎士隊の訓練時代は、あそこまで極端な性格ではなかったと思うが。薬物の影響もあるのか、すでに半分正気ではないのかもしれないな」
言い換えれば、5人体制でなお帯剣しなければならないほど警戒が必要な状況ということだ。それは消耗もするだろう。
暴力に躊躇いが微塵もなかったロキュスの振る舞いを思い出して、小さく震えた。
まだ刑罰が確定したわけではないが、パーセット家は、世論の影響も無視できない状況にあるらしく、爵位剥奪に至る可能性が高くなっているという。
たとえそうならずとも、貴族にとってもっとも重要な体面が丸潰れで、社交界では死んだも同然なんだとか。
ちなみに、極刑つまり死刑は、刑罰として存在はするが、貴族に対して施行されることはほぼないとのこと。話す雰囲気から察するに、表向きはということだろうと思う。
重いのか軽いのかピンと来ないが、国外追放というはた迷惑な刑罰もあるらしい。しかし、国の重要ポストにいた人間にその罰が下されることはない。
まぁ当然だろう。そんなことをすれば他国に情報流出し放題だ。だから野放しにできない貴族は、蟄居が難しければ幽閉ということになる。
いずれにしても、ロキュスが貴族として今まで通り復活することはないのだ。わーい、かんぱーい。
「しかしマナ。言いにくいことだが、現行の法律では、戦時中に国の金を盗んで国家に不利益を招いた罪と比べれば、身分が低い者を虐待した罪は、あまりに軽い。
今回出た死体も、対象が貴族の子女かもしれないという可能性が浮上して、ようやくロキュスへの尋問が許可されるような有様だ。人員もごく少数に限られている」
とエサイアスは肩を落とした。わたしの手を取って、感触を確かめるように撫でる。
「もしかして、それでエサイアスが、動いてくれているんですか?」
いくら別部署が動くとはいえ、横領の件でも、仕事がなくなったわけではないだろう。
詳しく聞いてはいないが、エサイアスは王家直属の調査局の人間なのだというし、中でもかなり上の地位にいる感じがする。暇なはずがない。
それなのに、白骨事件の陣頭指揮をも執っていそうな口ぶりだ。ロキュスへの尋問も含めて。
「確かに、それもあるが」
言いにくそうに一度言葉を切って、続ける。
「埋められていたのが、もし君のような子だったらと考えてしまったら、調べずにはいられなかった。せめて、家族のもとに返すことができればと。
それに、戦争で人が死ぬのは何度も見ているが、本来なら死ななくていい少女たちが弔われもせずいるというのであれば、やりきれないものがある」
私たちは、彼らを守るために戦ったはずなんだ。エサイアスはそう言って目を伏せた。
守るべき民が、守るための戦争の陰で人知れず死んでいる。もちろんそれは現実の一側面かもしれないが、目の前にすればやはり心は揺れてしまうのかもしれない。
彼は優しい人だ。
腕を伸ばして頭を抱えるように抱き締めると、エサイアスは抵抗せずに深く息を吐いた。
医学者を手配して調査したところ、庭に埋められていた死体は、年若い女性、2体分だということだった。
「アイナ・クルーム、リズ・ラルセン、ステラ・ヤーキンという名は、いずれもロキュス・パーセットの家で行儀見習いをしていた少女の名前だった。
それぞれの家に問い合わせたところ、アイナは流行り病で亡くなっていた。リズは行儀見習いから戻って、領地の屋敷で過ごしているという。
そしてステラ・ヤーキンに至っては、パーセット家で引き続き行儀見習いをしているはずだという回答だった」
「え」
いや、いたら名乗らせないだろう、他人に。
あの屋敷に、ロキュス以外の貴族が住んでいたという記憶はない。たとえ行儀見習いと言っても貴族であれば、使用人と扱いが同じということはないはずだ。
わたしが立ち入らない部屋に引き籠っていた、ということであればあるいは?でもそれにしたって、使用人の話にまったくあがらないというのも考えにくかった。
「そうだ。君たち以外にその名を名乗るものはいない。これはあの屋敷だけではなく、パーセット家所有の屋敷すべてに確認を取った。
彼女たちの名前があるのは、ロキュス・パーセットの屋敷だけだ。本人たちはいないがな」
骨は2人分、いないのは1人。
触り心地のいい銀髪を、無意識に梳いていた手が止まる。
「どういう、ことなんでしょう」
やはり関係なかったのか。しかしそれにしては、ステラのことが気になる。
そう思っていると、エサイアスがわたしを膝に乗せてしっかり抱き締め直した。肩に頬を寄せるには、おさまりのいい高さだ。
「ロキュス本人は、使用人がやったことだからあずかり知らぬということだったが」
そう前置いて、エサイアスは複数の使用人から得た情報を教えてくれた。
数年前、ほとんど同時期に3人の少女がパーセット家の行儀見習いとなった。
それぞれがパーセット伯爵の取り巻きである男爵家、子爵家の娘で、その思惑は透けて見える。
つまりロキュスにうまいこと見初められれば玉の輿、ということも視野に入れた申し出だったということだ。
行儀など習う気がハナからない下級貴族のお嬢様方のうち、ひと際プライドの高い一人が、ロキュスは気に入らなかったらしい。
「ここらへんは皆、口は重かったが、罪に問わないことを条件に、カシュカがうまく聞き出した」
その日をきっかけに、ロキュスは変わってしまった、と使用人の一人が語った事件。
「動物をけしかけ、自分も馬に乗り、庭で少女一人を追い回したんだそうだ。その時、必死に逃げたその少女が、つまずいて転んだ拍子に、打ちどころが悪くて死んだらしい」
うっかり想像して、彼女の恐怖が染み込んできた。
自分よりも強い者たちが襲いかかり、自分の命と尊厳を脅かす恐怖だ。ロキュスはきっと笑っていただろう。普段は高慢だったかもしれない彼女が、怯え泣き叫ぶ姿を見て。
ロキュスにとっては、憂さ晴らしの遊びだったのかもしれない。それでまさか死んでしまうなんて、思わなかったのだろう。
自業自得の側面が強いとはいえ、双方に不幸としか言えない事件だ。
(なんて浅はかな)
暴力は怖い。それを振う時、相手を傷つける、最悪命を奪う覚悟がなければいけないんだ。
できることなら、わたしだってロキュスを思い切り殴ってやりたい。踏みつけて蹴とばしてやりたい。自分がされたように。
それ以上のことだって考えた。けれどその時、覚悟はあっただろうか。
その罪を背負って、相手の人生を変えてしまうかもしれない覚悟。自分が変わってしまうかもしれない覚悟。
(そうだ。相手は、人間なんだ)
どれだけ自分が無価値と思おうが、誰かの腹から産まれ、それまでの時間を生きて、何かを考え感じてきた。
同じ人間だと思いたくなくても、それが厳然たる事実。
「ロキュスはそれをなんとか隠蔽しようとした。出て行ったことにして、死体は焼いて埋めたそうだ。けれど残りの2人は察したんだろう。
それからしばらくして、それぞれ部屋に監禁されるようになったらしい」
歯車が狂い出すきっかけは、たった一度の選択ミスなのだ。
わたしだって、たとえばロキュスを殺そうとしていれば、
(そして、本当に殺してしまっていたら)
とりかえしのつかない泥沼に足を踏み入れたかもしれない。背筋にざわりと悪寒が走った。
こちら側とあちら側。
取り返しのつかない境界線が、そこにあるような気がする。それは、戦争を知らない時代に生まれたわたしの甘さなのだろうか。
少なくとも、私情で踏み越えるべきでないもののように感じた。
その境界線を、ロキュスは越えた。
そして戦争、薬物、いろいろな要因で、タガが外れたのか、それとも自分を正当化できてしまったのか。
(わからない)
理解したくもない。
「そしてまた1人死んだ」
「え?」
「彼女たちの部屋の中で、ロキュスが何をしていたかを知る者は無かったが、少女のうちの一人が亡くなったらしい。おそらく自死だろうということだ」
「自死」
つまり自殺。
「そう。君の国ではどうかわからないが、この国において、自死は下手をすれば殺人よりも罪が重い。宗教上、許されていないから」
「え、他人を殺すよりも?」
「場合によっては、そうなんだ」
そもそも貴族の対立は、この国の二大宗教の対立と言っても過言ではないらしい。今回の件は共通する教義部分なのでその詳細は割愛された。
「宗教上の教義を理由に、リンドクルシュ王国では自殺を許していない。『神』により与えられた命を全うしないということが、重大な背信行為であるという理由からだ。
だから自殺者を出した家は、『神』を冒涜したと非難されることになる。一部の財産を没収されたり、遺体を教会へ埋葬することが許されなかったりする」
『神』と解釈したが、これに関しては修正の余地があるかもしれない。意味を聞いたところ、わたしのイメージする『神様』とはなんとなく違っているようだ。
それにしても、財産没収とは。
家族を失って、慰めるどころか非難され、寄り添うどころか奪われる。強盗よりも性質が悪い。
宗教を否定する気は毛頭ないが、そういったルールの多くは、教義を人間の都合で拡大解釈した上に成り立っている。
もちろん1つの集団を維持する時、人を統制する手段として、ルールが必要であることはわかる。けれど一方で、人の信じる心や不安を悪用する、犯罪行為にもなりうると思う。
話を聞いていたら腹が立ってきた。
「自殺なんて、嘱託殺人でしょうが」
「ん?なんと言った?」
理不尽に対する怒りで、思わず日本語で呟いたのを拾われた。
わたしの首筋に鼻を埋めていたエサイアスが顔を上げる。ところで大真面目な話題でこの姿勢はいかがなものだろうか。と身動ぎするが、背中に回った腕はがっちり固定されていた。
「いえ、つまり、自死というのは、人や環境など加害者が別にいて、手を下したのがたまたま本人だというだけの、依頼殺人みたいなものだと思うんです。
自殺した人はただの被害者です。罰せられる理由がありません。と、わたしは思います」
「そのような考え方は初めて聞いた」
「だって、そうでしょう?その少女は、ロキュスに殺されたんです。直接手を下さなくても、ロキュスの横暴が彼女を追い詰め、結果その手を動かさせたんです」
わたしも同じだ。あの生活の中で、もし死ぬことを選んでしまっていたら、それを罪だと謗られたのか。そう考えたらやりきれない。
「いや、しかし、彼女の意思だってあったはずだろう」
「追い詰められた人間に、正しい判断力を求めるのは酷ではないでしょうか」
視野が狭くなり、心が固くなる。本来なら見えるはずの逃げ道さえ、見つけることができない。追い詰められるというのは、そういう状況だ。
そしてふと、魔が差す。
ほんの一瞬、その一歩を間違えることで、一生は終わってしまうのだ。
わたしの言葉に、エサイアスはしばらく黙り込んだ。
そして視線を合わせると、神妙な表情を向ける。
「この国の価値観を根底から覆してしまうかもしれない意見だ。他では言わないほうがいい。敬虔な信者の前では特に」
「わかりました」
「しかし、筋は通っていて無視できない。私は機会があれば君の考えをもっと聞きたい」
「それほど、大層なものではないのですが」
エサイアスの真剣さに眉を下げると、君は変なところで弱気なんだな、と笑われた。
またできるだけコンスタントに更新できるように頑張ります。よろしくお願いいたします。




