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 そんな風に多分数か月くらいが経った。

 季節が春から夏に変わったので、それくらいだろうと思う。

 怪我と痛みが原因か、何度も熱を出し朦朧として、時間の経過はよくわからなくなってしまった。


 その頃になると、期待はしていないと誤魔化して、無意識に隠していた最後の望みも潰えた。

 寝て起きても現状は変わらなかったし、わたしを探す人間に会うこともなければ、日本らしい文化も景色もない。

 自力で生きる方法を探す以外ないのだと、腹を括らなければならなかった。



 一方で進歩もあった。

 早口でなければ、ほとんどの日常会話は聞き取れる。片言なら、自分の要求も伝えられる。

 もっともわたしが話すのは、2人の少女に対してのみだが。

 少しだけ世界が広がってきたように思う。


 リズはオレンジに近い明るい髪と、若葉色の大きな瞳をもつ。

 人見知りらしく最初の内は距離を取られていたが、たまに視線を感じて、気になってはいた。

 親しくなれば人懐こくて可愛らしい少女だった。18歳だという。


 ステラは、21歳とは思えない落ち着きと色気がある、伏し目がちの美人。長い栗色の髪に翡翠のような淡い不思議な瞳の色。

 彼女は多分頭が良い。右も左もわからないわたしに、一からここの生活と言葉について教えてくれた。教え方もすごくうまい。


 ついでに言えば、晩秋から数えて数か月くらいということは、早生まれのわたしは多分19歳になった。

 なんだろうこれ。

 わたしいきなり初夏生まれみたいになるのだろうか。南半球に引っ越したと思えばいい、のか?



 言葉がわかってから知ったことは、あの男がパーセット伯爵家の嫡男であるということだった。

 王家を除けば上から3番目の身分というから、おそらく『伯爵』くらいの身分にあたるだろう。

 名をロキュス・パーセット。

 この屋敷は、ロキュスにあてがわれた彼個人の屋敷、王都のタウンハウスらしい。


 『身分制度』、『貴族』。やはりそれが、この社会の基本構造だった。

 機械はほとんど使われず、家事作業は手仕事が主だ。大きな屋敷を維持するためには相応の人数の使用人が必要になる。


 ここは一体どこなのだろう。


 この国の王都、城郭都市であることはわかった。

 国の名前はリンドクルシュ。王政国家らしい。

 聞き違いでなければ、初めて聞く国名。

 日本の発音でしか知らない可能性がないことはないが、違うと思っておいた方がショックは少ないだろう。


 リズとステラは、地図を見たことがないようだった。

 だからこの国の形も、都市の位置も、他国との比較も、おそらくしたことがない。

 平民には知識が制限されている社会。


 ヨーロッパには貴族は現存しているが、文明水準を見ると、やはり現代ではありえない。

 映画の撮影でもないのに馬車を常用している貴族が『王都』、国の中心地にいるものか。

 現代だというなら、王国だろうが民主国だろうが、ある程度の規模の首都に高層ビルがないなんてことはない。窓から見る限り、空は広くて夜は闇そのものだった。


 自分以外に金をかけないパーセットのご子息は、夜の間接照明も最低限しか使用人には許していない。

 だから月が出ていない日は、書庫から借りた絵本も読めない。

 昼はもちろん働いている。

 労働基準法なんてものはないから、休日なにそれ?って感じだし。

 知識が制限されていなくても、ハナから使用人に教養なんて身につく隙がなかった。


 貴族連中にとれば、わたしたちは同じ人間ではなく、せいぜい『労働力』、『家電』でしかない。

 壊れたら捨てて取り換えればいいのだ。

 『人権』という概念がないということが、ここまで自分の生活に影響を与えるとは思っていなかった。


 呆然とする扱いだし、理解ができなすぎて途方に暮れる。

 ブラック企業って、もしかしてこんな感じなんだろうか。

 そりゃ過労死するわ。


 こんな環境では、貧乏人が学をつけるのは至難の業だ。物事を俯瞰する視点など身につかない。

 一方的に搾取されるまま、目の前のことにいっぱいいっぱいで一生が終わる。

 そして貴族の身分は守られるのだ。


 それでもわたしは、知識を求めなければここにいる意味がない。



 実際わたしは生死の境を数回彷徨っている。死ななかったのはリズとステラの看病の賜物だった。

 そして身体がこの生活に慣れるまで、寒い季節が来なかったおかげでもある。 


 晩秋だと思っていた季節は春だった。

 わたしの常識で考えれば、ここは南半球の温暖気候ということになるが、多分違うんだろう。

 そこらへんを掘り下げるのは徒労なので控えたい。





「あの男、生き延びやがって!」


 わたしをサンドバッグにしながら、ご子息が激昴した。

 季節がもう一つ変わる頃になって、耳障りなロキュスの言葉が聞き取れるようになってしまった。

 特定の気に入らない誰かがいるようだ。


「せっかく前線に送ってやったのに、中途半端に怪我なんかで戻ってくるな。そのまま死ね」


 死ね、死ね、死ね。

 叫びながら、鞭をふるわれた。その表情はすでに常軌を逸している。

 わたしはただ頭を守って蹲るしかなかった。


 熱い。痛い。熱い。


(おまえが死ねよ)


 こうやって床に這い蹲って、呻き声しか上げられない人間が、今日こそは殺されるんじゃないかっていう恐怖と戦っていることを想像もしないんだろう、おまえは。

 こんな風に人生をすり潰して殺されるなら、今日死んだ方がいいような気さえしてくる。

 正気を手放せば楽なのかもしれない。


 実際、食事中にカトラリーを見る時、このフォークを隠し持って、ロキュスの首に突き刺す想像を何度もしている。

 顔が怖い、大丈夫?とステラに聞かれて、初めて自覚した。

 誰かに殺意なんて、初めて感じた。それも洒落にならないやつだ。

 すでにわたしは狂っているのかもしれない。


 痛みには少しずつ慣れても、ロキュスの狂気じみた感情と、痛みが接触する瞬間には慣れない。

 完全に自分に非がないことを確信している。だからこそ理不尽に対する怒りを持つことで、心のバランスを保っていた。

 その怒りが過度に振れると、それもまた正気を逸脱してしまうが。


 そして、この屋敷を抜け出すことを想像した。

 終わりがあるから、耐えられる。

 終わりがあると、言い聞かせる。



 痛みに集中しないように、別の、他愛のないことも考えた。

 ほつれた服を縫わなきゃとか、明日は今日よりも寒いだろうかとか。

 逃げ出した後に必要な生活能力はついたような気がするが、この街で暮らせない可能性を考えると、周辺地域の情報とそこに向かう資金が必要だ。

 驚くことにわたしは賃金をもらっていない。


(わたしは、ここには『いない』ということか)


 人権どころではない。

 存在自体ないのと同じ。

 だから何をしてもいい。


 殴っても、蹴っても、使い潰しても、殺しても。


 理不尽というのは、降りかかってからでは遅い。

 その前に、状況に陥ること自体を回避しなければならないものだ。

 わたしはそれを思い知る。


 熱が出たところで、倒れるまでは働かされた。

 どうせ休めないなら体調を崩すだけ損だし、内臓に損傷が出れば、まず間違いなく死んでしまうだろう。


 誰もわたしを守らない。守れない。

 だからこそ、これ以上状況が悪くならないように、先を読んでできる限りの対策を立てる。

 的外れでも、できることはとりあえず保険をかけるようにやっておく。



 鞭は風を切る音が。

 蹴りはその衝撃の大きさが。

 わたしに恐怖を植え付けた。


 弱みは見せたくないのに、身体が勝手に震える。ロキュスを喜ばせることがわかっていながら。

 痛みの先に『死』という真っ黒の穴が見え隠れする。それを、無視することができない。


 『毎日死と隣り合わせの生活』なんて、日本では考えられなかった。

 そしてうっかりすると、死ぬことに焦がれている瞬間があって怖い。

 日本に帰る方法があるのかないのか、逃げ出すことができるのか、結論が出ていないのは逆にいいことなのかもしれなかった。

 もし望みがなくなれば、多分生きられない。


 もう一度会いたい人がいる。

 安心して眠れる世界に帰りたいと思う。

 わたしはそれを知っている。

 こんな場所まで来ても、兄や友人たちがわたしを生かしてくれているのだ。


「言葉もわからないくせに抵抗だけは1人前にしやがって。おい、まだ寝るんじゃないぞ」


 触れようとしてこない限り、最近は抵抗らしい抵抗などしていないはずだが。

 だってそれが一番早く終わるから。

 でも次に犯されそうになったなら、こいつのペニスを握り潰してやろうとは思っていた。殺されるだろうが構うものか。

 せめてこいつの人生を狂わせて死んでやる。


「ちっ。その目が気に入らないんだ。くそ!」


 わたしがいるこの屋敷は、王都にいくつかある伯爵家のタウンハウスの一つで、ほとんどこの男しか使わない。

 つまり、この中で何が行われていても、止められる人間はいないのだろう。

 屋敷それぞれが、治外法権の領事館に近い感覚なのかもしれない。


 暴力も権利侵害も、わたしだけではない。

 詳細を話そうとはしないが、リズとステラも酷い目に遭っている。

 それでも警察のような組織が、監査が入ったり、見回りに来たりすることもないようだった。


 中世あたりの身分感覚だとすれば、王都の警備隊は貴族には手を出せないだろう。正しく特権階級。

 政治に関わる事件でもなければ、中枢の調査機関も目を瞑る。

 雇用した人間に対する裁量権は、その貴族に大幅に認められている可能性が高い。ここでわたしが死んだところで事件にすらならないだろう。


 下手するとスラムや城壁の外に死体を棄てて終わりじゃないのか。

 この男は多分、そういうことに慣れている。

 少なくとも、戦地にいたのなら、人を殺したことがあるだろう。


 もしかして、そうやって屋敷の人間が減るから、わたしのようなイレギュラーを即日で屋敷に連れてくることもできるのはないのか。

 また怖いことを思いついてしまったところで気を失った。




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