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わたしは日本の中流家庭に育った大学生1年生、伊咲茉那。
中高ダンス部。
天才の類ではないが、何でもまぁまぁそこそこできるので熱意がなく、低温動物とよく言われる。
高校時代に付き合っていた彼氏が浪人生になり、現役合格したわたしと勝手にギクシャクしだして、結局先日別れたところ。
未練がまったくないかと言われるとわからないが、後悔はまったくない。
正直、付き合っていた頃からわたしは少しブラコン気味なのか、どちらかというと兄のほうが大切だった。
家族は、両親と2歳年上の兄1人。
幼い頃から両親は不仲で、1階のリビングで飽きもせず繰り返す夫婦喧嘩を、2階に繋がる階段の途中で身を小さくしながらよく聞いていた。
隣に座った兄が、耳を塞ぐように抱きしめてくれていたことを覚えている。
2年前に高校を卒業して家を出た兄を追うように、とにかく現役合格することだけに重きを置いて受験を乗り越えた。
家を出て一人暮らしを始め、もうすぐ冬、という時期だった。
少なくとも覚えている最新の記憶では、今は晩秋。
直前の記憶はないが、着ていたのが部屋着だったから自分で旅行に出たわけではないだろう。
現実逃避をやめるならば、小説でもあるまいし、記憶喪失が都合よく起こるとも考えにくい。履いてたのコンビニ仕様のクロックスだしな。
そもそも欧州らしき場所に旅行する理由がない。傷心旅行でもあるまいし。
少なくとも、ここの言葉は聞いたことのある言語ではないし、服装も、西欧風とは言え、現代のものとは程遠い。
パリコレで見る突飛な服の方向性でもない。
王政、帝政が主流だった時代のヨーロッパ、というイメージが、やはり一番近いと思う。
これが夢ではないとして。
どちらにしろ、こんな恐怖を味わって、まだ覚めない夢なのだとすれば、それはもう今のわたしにとって現実でしかないのだし。
それに、自分の乏しい想像力が創り出したにしては、精巧すぎて、リアルすぎて違和感しかなかった。
こんな酷い夢を見るほどのストレスを抱えているつもりもない。
ではわたしは、時間と場所を越えてしまったのだろうか。
それとも、パラレルワールドのような世界なのか。
考えても今結論は出ないと気づいて、とりあえずそれは置いておくことにした。
そういえば、この情報化社会にあっても、行方不明者は後を絶たないらしい。
けれど、一つわかるのは、ここがわたしの知っている国、社会ではないということ。
人の姿も文化も違う。
わたしの信じている常識が、通じない。
実際、あの男がやったことは誘拐の上、婦女暴行未遂だ。
けれど、あれだけ叫んで暴れて人が来なかったことから考えても、訴えたところで身の安全は確保できないのだろう。
そもそも誰に訴える?
昼に会った兵士のような男たちは、あの男を止めることはできなかった。
この屋敷の使用人にしてもそうだ。
この世界が、ひと昔前の文明水準だと仮定するなら、人権などという考え方が通用しない可能性がある。
日本では月に一度来る生理の度に、女を小屋に押し込め、汚物のような扱いをするのも普通だった時代がある。
近現代においても、未だ女を下に見たり、学歴や貧富の差で人を分けようとする風潮は根強いのだ。
わたしはまだ若い女で、身分もない。
ここでは言葉も振る舞い方もわからない。知り合いも見当たらない。
無知で後ろ盾もない若い女。
それがどうやって生きていけるかなんて。
ぞわりと背中を這う現実を感じて、目を閉じてやり過ごす。
夢ならば、目が覚めないだろうか。
兄が助けに来てくれないだろうか。
数秒期待して、深呼吸して目を開ける。
最悪を想定しろ。
言い聞かせて、思考を無理やり切り替えた。
この身一つで、この世界で生きて行かなければならないのだとしたら。
(何だそれ、マジで詰んでる)
まずは、帰る方法を探すにしろ、ここで生活をするにしろ、言葉とこの世界の知識を絶対に習得しなければならない。
手がかりを探しに倒れていた場所にもう一度向かうにも、人に聞かなければわからないのだ。交通費も必要かもしれない。
言葉がわかるようになれば、これまでの知識が役に立つかもしれないし、家事全般もこなせる。
身元の保証がないこと、女であることがどれくらい足枷になるか次第。それでも希望は持てる。
では、それを習得するまでの衣食住はどうするのか。
最悪を考えるなら、物乞いか娼婦か。安直な思考かもしれないが、状況はそう遠くはないだろう。
難民保護制度が整っている国だという可能性に賭けて、一度公的機関に助けを求めるのも手だが、あいつのような権力者の巣窟である危険性と背中合わせだ。
すでに身分の高い人間への信頼など底辺。極力関わりたくない。
あの男のような人間が蔓延る社会だったなら。
そう考えるだけで震えが上がった。
(思い出すな。思い出すな)
脳裏に、殴られて服を裂かれた時の視界が蘇る。
ふぅーと一度大きく息を吐き出す。
大丈夫。きっと何とかなる。大丈夫。
冷静になれ。得意なはずだろう、と言い聞かせる。
物乞いか娼婦?
それ以前に、街に出たところで捕まる可能性が高いのかもしれない。
だったら、気まぐれでもわたしに興味を持ったらしいあの男に囲われていたほうがまだ幸運なのだろうか。
どうせ処女というわけでもないのだし、不特定多数の人間を相手にするリスクと比較すると、好条件なのかもしれなかった。
頭ではそう合理的に判断するのに、少し思い出しただけで身体が震え出す。
あの男に抱かれて、未来はあるだろうか。
おかしな趣味嗜好がないのであれば、生き続けることはできるだろう。
この屋敷にいる限り、外で物乞いをするよりは知識も得られるし、安全も確保できるのではないのか。
今ここから逃げて、適切な法律も権利憲章もなさそうな場所で、それ以上の最悪に遭わないと言い切れるのか。
特別セックスに夢を見てはいない。
わたしが震えていたところで、あちらが勝手にやるだろう。
むしろ悦ばせるかもしれない。
逃げなければいいだけだ。
ものすごくピンチになったら誰かが助けてくれるとか、元の世界に帰れるとか、そんな楽観的予測は、あの男に服を引きちぎられ髪の毛を掴まれた瞬間に砕けた。
自分の身は、自分で守らなければならない。
でもどうすればいいかなんて、何も思いつかないまま。
それでも悲愴に決意だけしたものの、貞操、という意味ではその後心配する必要がない日常が待っていた。
***
「ぐ、ぅ」
朝方に物置部屋に何かを取りに来た侍女が偶然見つけたような様子で、わたしは最初に通された部屋に連れ戻された。
わたしの様子を見て、侍女たちは何も言わずに傷の手当てをして着替えを手伝った。
今夜また同じような事態になって、同じように抵抗したら、殺されるのだろうか。切り捨て御免、という特権階級の権利が、まさか自分に降りかかるなんて。
でもあの男なら、それくらいやりそうだ。
言葉はわからずとも、まるで面白い玩具でもみるようなあの目が。
期待が外れた時の虫でも見るようなあの表情が。
すべてを物語っている。
「うぅ」
とてもではないが、あの朝食事は喉を通らなかった。
けれど食べておけば良かったと今は後悔している。
わたしばその日の夕刻、あの男が帰宅した瞬間から、下働きよりさらに下、もしそんな身分があるのだとしたら、「奴隷」と言える立場として扱われるようになった。
腹部を押さえて、蹲る。
漏れる呻き声に満足するように、貴族男は鼻を鳴らした。
逆らった罰だと思えたのは最初の数日だけだった。
あらゆる雑用を押し付けられる毎日で、あの男が思い出したように部屋に呼び出し暴力を振るう。
わたしはこいつのサンドバックになったのだと、すぐに気づくことになった。
性的に触れようとはしないあたり、初日に懲りたのか。よっぽど女の抵抗が埒外だったのだろうか。
足で蹴るか、鞭で打つか。
暴言を吐かれもするが、内容は今のところほとんどわからない。
日常の言葉は少しずつわかるようになってきたが、貴族男の言葉だけ何故か一言も頭に入って来なかった。
身分の違いで言葉遣いも変わるかとも考えたが、多分自分の心の問題だろう。
ここに来て、おそらく1か月程度が経過していた。
人手不足なのか入れ替わりが激しいのか、はたまたサボり要員にうまく使われているだけか、炊事洗濯掃除裁縫など、あらゆる仕事が回ってきた。
雑用が多岐に渡るおかげで、この屋敷にいるほとんどの人と顔を合わせる機会がある。
会う度に、挨拶から覚え、一言ずつ教えてもらい語彙を増やした。
言葉と、知識を得る。思えばこんなに必死に集中して、何かを求めたことはなかった。
わたしが正気を保てたのは、この屋敷を逃げ出すまでにやるべきことが決まっていたからということと、もう一つ。
おそらく同じような経緯でこの屋敷に来たのだろう、リズとステラという2人の下働きの少女たちがいたからだ。
彼女たちは、わたしに殊更優しかった。
勝手にわたしの扱いを変えては咎めを受けるから、こっそり食べ物を分けてくれる。
そして、空いているわずかな時間を割いて、言葉を丁寧に教え、怪我の手当てをしてくれた。
「ごめんね、痛いよね」
リズが眉を提げて、擦り傷を消毒し、打撲した箇所には湿布薬を宛がう。
前の痣が赤黒く消えない内に新しい青いものが加わる。わたしの身体は今や色とりどりだ。
「だいじょうぶ、ありがとう」
よくあるイジメの構図で、わたしにターゲットが移ったことによって、彼女たちへの負担が減っているのだろう。きっと罪悪感もあるのだ。
彼女たちは何も悪くないのに、罪悪感をもたなければならない。
この世界しか知らなければ、その理不尽にも気づけないのかもしれない。
教室のイジメでさえ、助けを求めるのに勇気がいる。ここでは社会も味方になってはくれないのだろう。
声を上げても望みがまるでないのなら、声を上げるという選択肢自体を思いつかなくなる。逃げ道を、社会に塞がれている。
虎の威を借りて、主と同じように蔑んだ態度を取る使用人たちもいた。
そんな中で、優しさを失わない彼女たちが、わたしに人間らしい感情を分けてくれた。