番外・エサイアス2
その瞬間、自分が落ちたのがわかった。
取り返しのつかないくらい、深い深い業に。
いや、最初から本当はわかっていたのだ。
気づかないふりをしていただけ。
「副局長?聞いてます?」
「え?」
「珍しいですね、うわの空なんて」
「悪い。もう一度頼む」
私情で仕事が疎かになるなんて、今まで一度だってないつもりだ。
こんな事態に、目の前の部下よりも自分の方が驚いている自信がエサイアスにはあった。
しかし実は他にも職場の各方面で、人並みに休みを取るようになっただとか、表情筋が人間ぽくなっただとか、いろいろ驚かれていることを本人は知らない。
彼女は重要な協力者になるはずだった。
そう、『だった』。過去形だ。
エサイアスはすでに、マナをあの家に帰す気がまったくない。
彼女は気丈で、そして肝心なところで冷静だ。
話していると、その聡明さに何度も舌を巻く。
だから気づかない。忘れてしまう。
医者が、少女に対しての所業ではないと、怒りを露わにするほど傷んだ身体。
貴族の屋敷に連れて来られただけで、恐慌に陥るほどの精神状態。
たった半年程の間に、彼女が負った傷の深さを。
マナがヴァルト家に留まっていることを、パーセットは知らない。
エサイアスがカシュカや協力者などと口裏を合わせ、別の屋敷の名前を知らせているからだ。
内偵を入れてまで調査をしていることに気づかせたくない。
もちろんそれが第一だが、昔から何故かロキュス・パーセットが、エサイアスを目の敵にしているからという理由も大きい。
もともと家同士が敵対派閥に属していて、力も拮抗してはいる。そして2人の歳が近いことも間違いはない。
が、事あるごとに比較してきたのは、どちらかと言うと世間ではなく、ロキュス自身だとエサイアスは思っていた。
同じ伯爵家ではあるが、エサイアスは次男。ロキュスは長男様だ。そもそも立場的にはあちらの一人勝ちで、同じ土俵に立てていない。
どうせなら兄を相手にすればいいと思うが、
(騎士予備隊時代に、一勝もさせなかったのが原因だろうな)
山より高いあの男のプライドを、こてんぱんに潰した自覚はある。エサイアスも若かったのだ。反省はしている。
そのおかげで、先の戦では殺されるところだったのだ。笑いごとでもない。
ロキュスは自分の無駄な権力を最大限に使って、エサイアスを前線送りにした。
嫡男であるロキュスは、戦場に出たという事実さえあれば体面は保てる。そして適当に過ごして生きて帰りさえすれば、将来は安泰だ。
エサイアスは違う。ただ生きているだけで地位が保証されている長男とは違うのだ。
この戦争で、騎士として確固たる地位を築きたかった。だから危険を承知でロキュスの思惑に乗った。
けれどあの男は、補給線の寸断、間違った情報を吹き込むというところまでやった。
事実を上司に訴えたところ、ロキュスの部下が独断でやったことにされた。
そのおかげ、とは死んでも言いたくないが、結果、エサイアスは大きな武功を上げることになった。
命の危険に何度も晒され、決して軽くない怪我を負ったが、それでも生きて帰った。
対してロキュスは、限りなく安全圏にいたにも関わらず、器用にも部下を大勢死なせたらしい。
勝手に張り合って、勝手に自爆して、勝手に敵視している。すでに逆恨みに近い。
いい迷惑だ。心から関わりたくない。
しかし怪我をしたことで前線から退いて、王都に戻った時にエサイアスは悟った。
このままだといずれ殺されると。
目を瞑ってやり過ごして、それで済む段階ではなくなった。
しかし、パーセット家とヴァルト家が本気で事を構えたら、下手すると国を巻き込んだ内戦が勃発する。
何をするにしても、対策を立て、慎重に進めなければならない。
そんな折、特務調査局というところから内々に声がかかった。
主に王都の治安を維持するため、貴族の犯罪にメスを入れる、王太子肝いりの極秘部隊だということだ。
武功を上げたとはいえ、怪我が完全回復しなければ騎士隊には戻れない。経過は不明だと医者には言われていた。
話はまさに、渡りに船だった。
王太子は癖があるものの信頼に足る人物で、もともと関係も浅くない。上司として不満はなかった。
だから実際のところ否やはなかったが、エサイアスは入局にあたり一つ条件を出すことにした。
「パーセット伯爵家を徹底的に調べさせていただきたい。私の気が済むまで」
王太子は国内の政局図を頭に描きながらしばらく沈黙したが、
「この組織の力試しには、不足ない相手だ。いいだろう。ただし、下手は打つなよ」
やがて面白そうに口角を上げた。
「ロキュスのやつも、怒らせちゃいけないやつを怒らせたもんだな」
その時エサイアスはこう答えたはずだ。
『別に怒っているわけではありません、必要に迫られただけですよ』と。
あちらが命まで狙うというなら、それ相応の覚悟はあるんだろう。その程度のもの。
けれど今、エサイアスの中には明確な怒りが生まれている。
パーセット家には今、公金横領の疑いがかけられていた。
叩けば埃は出ると思ってはいたが、想像以上の爆弾があった。
領主であるロキュスの父親は軍の経理部に所属している。
この国の傾向として、公爵や侯爵という最上級貴族よりも、実務の重要部署は伯爵あたりが担うことが多い。
つまり、実質この国の政治経済を動かしているのは、有力伯爵家だということだ。
パーセットもヴァルトもそういう家の一つで、下手な侯爵よりも実際の影響力は大きい。
そのパーセット伯爵が住む本宅から、何かの書類が移動された形跡があると、内偵からの報告があった。
公金、主に軍事費の横領を裏付ける証拠書類、裏帳簿のようなものではないかと、エサイアスは疑っている。
戦争の影響が収束に向かう現在、国内が完全に落ち着く前に、調査の及びにくいだろう別の場所で保管、あるいは証拠隠滅をしようとしているのではないか。
こちらの内偵の存在に勘づいた故の行動かもしれない。
領地に運び込まれた様子はなかったので、王都にあるタウンハウスのいずれかだろう。
子飼いの貴族か、息子に与えた屋敷かと考え、それぞれ調べを進めているが、猜疑心の強いパーセット伯爵の性格を考えれば、本命は身内だった。
ひと月ほど前から下働きとして、ロキュス・パーセットの屋敷にカシュカを潜入させた。
しかし、新人の、しかも通いとなると行動範囲が限られていて、未だ証拠を掴むことはできていない。
それで住み込みの使用人の誰かを引き込めないかとなった時、カシュカがマナに白羽の矢を立てたのだった。
けれど、もはや、それだけではない。
公金横領という罪に対してではなく、マナを傷つけたロキュス・パーセット個人に対して、エサイアスは怒りを感じている。
ロキュスには、自分だって辛酸を舐めさせられた。その時だって、ここまで感情が動くことはなかったのに。
表情が乏しく、華奢な少女、というのが、マナの最初の印象だ。
実際は19歳らしいが、15、16に見える。
けれどその見た目を裏切って、彼女は激しい感情を内に抱え、同時に達観と言えるほど理知的で、さらに謎多き女性だった。
話をすると打てば響くようで、下手に使えない他部署の同僚と話すよりよっぽど建設的な意見が聞ける。
何より、一緒に過ごすことが楽しかった。
彼女を可愛がりたくて欲しいものを尋ねれば、それはエサイアスを、そして街を助けるための提案で。
貴族もこの国も、彼女を一度も助けなかったのに。
時折浮かぶ笑顔をもっと見たいと思う。
身体だけでなく心も救いたいと思う。
側に居て抱き締めたいと思う。
マナは、自分の健気さにきっと気づいていない。
自分の辛さを呑み込んで周りを気遣う優しさを、過小評価しすぎている。
エサイアスは、お願いという言葉でマナに尋ねながら、本当は『助けて』と彼女から言って欲しかった。
遠慮をするのではなく。限界まで独りで頑張るのではなく。
でないと、彼女は今度こそ壊れてしまうかもしれない。
ロキュスの屋敷の内情は報告を聞くしかないが、それくらい危うい状況にいるのではないのか。
そう言いつつ、本心は、距離を取られているのが嫌だっただけだ。
会うたびに、目が覚めるような魅力に惹きつけられて。
エサイアスは、ずっと彼女に触れたくて仕方なかったから。
しなやかなあの身体を、この腕に抱いた感触を思い出す。
1度目の抱擁は、暴れる彼女を宥めるためだった。2度目は転ばないように支えるため。
今回は違う。何もかも違う。
抱き締めたのは半ば無意識だ。
そうせずにはいられなかった。
バランス良く筋肉がついていながら、想像以上に柔らかく。
そして華奢でありながら、女性らしい凹凸。
彼女が舞う姿は、本当に美しかった。
彼女の人となりを表わすように、自立した、一つの芸術の完成形に見えた。
熱を発する、躍動的な身体。
初めて聞く歌声は、時折吐く息が混ざって官能的でさえあった。
見たこともないほど、その表情は楽しそうで、ダンスに嫉妬を覚えるほど。
照れたように小さく笑う、上気した頬が忘れられない。
アロイスが呼びに来なければ、何をしていたかわからない。
コントロールを外れた自分が恐ろしくもある。
(マナ)
恐ろしいなどと嘯くそばから、今すぐ抱き締めて、甘やかして、可愛がりたいと思っている。
エサイアスはこれまで、知らなかったのだ。
こんな風に落ちるものだとは。




