17
早朝に目が覚めて、ふと、踊りたくなった。
日が昇ると働き始める生活に身体が慣れてしまって、二度寝するのも落ち着かない。
昨日も一昨日も、それで1日つらくならないので、健康に近づいてきたということだろう。
中高ダンス部だった。大学でもかける時間は少なくなったが続けていた。
高校は特に強豪校で、コンクールでも入賞常連。そこで一応中心メンバーだったから、それなりに踊れる方だ。
ずっと続けていたとはいえ、久しぶりだ。怪我をしないように、身体の各パーツを念入りにストレッチで解していく。
ヨガマットが欲しいところだが、出窓の近くに敷かれている毛足の長い絨毯で我慢することにした。
ダンスどころか、ストレッチでさえこちらに来てから初めてだ。日本では欠かさず朝晩身体を動かしていたのに。
この世界で、今、わたしは初めてわたしになったのかもしれない。
いろいろなショックに震えて縮こまって、冷静なつもりでずっとパニックに陥っていた。半年もの間。
『いない』のと変わらない扱いだと思っていたけれど、そう思っていたのはわたしも同じで。
この世界に、進んで『いよう』としていなかった。
わたしは元の生活に帰るべきで、帰れないなんておかしいと、どこかで思っていたから。
少しずつでいい。
わたしはわたしの生活を取り戻す。
こうして身体を伸ばしていくと、全身に血が巡っているのを感じる。生きている。
体内の細胞は、数か月ですべて新しいものに入れ替わるという。ということは、もうわたしの身体は新しい世界のもので構成されているはずだ。
空気。食べ物。水。わたしを生かしているもの。
わたしは、ここにいる。
(ここに、いるんだ)
初めて気づいたように、その実感を噛み締めた。
身に染みついている音楽と振り付けの中から、比較的スローナンバーを記憶から引っ張り出す。
椅子が必要なので、いつもエサイアスがベッド横で使っていたものを運んできた。
歌を口ずさんで、心でカウントする。
3、2、1。
足から腰、腰から肩、首、頭に。
動きを連動させて、流れるように。けれど時に別々の生き物のように。
テンポは、本来の2分の1程度。退屈するほどゆっくりのはずだ。
それでも、かつて思い通りに動いていた足腰は、別物のように重くなっていた。
一曲踊りきる頃には、疲れ切って肩で息をする。
(ああ、でも踊れた。全然覚えてる)
筋力が落ちているんだ。基礎体力も上げないといけない。
また一つ、目標ができた。
嬉しくて、ふふふと一人でにやける。
行儀は悪いが、絨毯の上に倒れ込んだ。滲んだ汗が、むしろ心地いい。
これから、この世界で、わたしがしたいこと、好きなことを探そう。
できることをやり切って、それでももし、未来があったなら。
こつ、こつ、という特徴的な音が近づいてきた。
静かだと聞こえる、エサイアスの杖を突く音だ。
仕事に出るにはまだ早いはず。
どうしたんだろう、と思っていると、その気配はわたしのいる部屋の前で止まった。
「?」
しばらく待ってもノックは聞こえない。
用はあるけど、朝早いから寝ていると思って遠慮しているのだろうか。
でもきっと、急用だからここまで来たんだろうに。
失礼だとはわかっているが、たまに思ってしまう。
(この人暇なのかな)
いや、そんなことはないはずだ。
毎日のようにここでお喋りしていくけど。
こうして無駄に扉の前で立ってるけど。
だって多分、結構偉いポジションのはずだ。
え、重役出勤的なイメージのあれなのかな。いやいや。
なんて詰まらない一人問答を繰り返すのを止めて、扉まで歩いて行ってこちらから開けた。
「うわっ」
あ、そりゃそうか。先に声をかけるべきだった。
「ごめんなさい。足音が聞こえたので」
「いや。やはり起きていたのか」
「やはり?あ、とりあえず、中へどうぞ」
「え、いいのか?」
「なにがですか?」
「いや、うん、じゃあ、失礼する」
「?はい」
ソファセットまで行って、向かい合わせに座る。
まだ着替えていないのか、エサイアスは珍しくラフなチュニックだった。
男の人のチュニックは、日本だと中性的になりがちだが、エサイアスはその骨格のせいかまるで違う。
(あ)
そうか。わたしも寝起きのままなんだった。
それで態度が変だったのかも。
すとんとしたワンピース型で露出が高いわけでもないのに、気づくと何となく恥ずかしい。しかし今更追い出すこともできなかった。
「ここ数日、早くに起きているようだと侍女から報告があって」
「あ、そう、なんですか」
「いや、見張らせているわけではないぞ!危ない状態の時もあったから、ベルはマナのことを気にかけているんだ」
ベルというのは、主にわたしの部屋を担当してくれている侍女の名前だった。
ちゃんと話したことはないけど、余計なことはしないのに、良く気がつく、とても感じの良い人。
「眠れていないのか?汗を掻いているようだが、熱がまた出たか?」
「あー、いや、これは、ちょっとダンスを」
「ダンス?」
「はい。日本でわたし、ずっとダンスをしてたんです。それで今日、急に踊りたくなって」
そう言うと、エサイアスが目を丸くした。
「じゃあ君は、ダンスが踊れるのか」
「そうですね、6年間ガッツリやったので」
いやでもちょっと待て。
「あ!違う!多分貴方が想像しているのと違います」
「え?」
多分違う。きっと違う。
神妙な顔で申告する。言葉がわからないので一部日本語で。
「『社交』ダンスはできません」
「シャコ、ダンス?」
なんだそれ竜宮城で見られそうだな。
「えーと、舞踏会で男女が踊るようなダンスは知りません」
「そうなのか。ではなんだ?」
「えーと」
どう説明するのがわかりやすいか悩んでいると、エサイアスがぽんと手を叩いた。
「じゃあ、見せてくれ。今踊っていたんだろう?」
「え。今ブランクがあって、見せられるような状態では」
しかもこの服じゃ足上がらないし。
「雰囲気がわかればいいんだ、構わないさ」
わぁ、とてつもなく楽しそう。
この人最初の生真面目実直なイメージぶち壊して、かなり表情豊かだよな。全然いいんだけど。
年上で頼りがいがあって可愛いってどうよ。
「わかりましたよ。期待しないでくださいね」
断れるわけがない。
そして朝から2曲目。
今度はポップなものをあえて選んだ。
テンポはもちろん落とすが、明るく動きが明確なものの方が一般受けするからだ。
音と動きがばっちり噛み合って、曲と歌詞を全身で表現する。
難しいところは特に、何度も繰り返しているからむしろ決まるのが快感で。
肩の小さな動きを、指の先の先まで伝える。
身体が一回りも二回りも大きくなったような、広がっていく感覚。
多少の痛みなんて、どうでもよくなってしまう。
気持ちいい。
少し勘が戻ったのか、1曲目よりも踊れた気がした。
やっぱり楽しい。
ポピュラーソングの1番を歌い切って動きを止め、すでに今日はよく眠れそうだ、なんて思う。
働きづめだったとはいえ、使っている筋肉がまったく違うようだ。たった2曲で筋肉痛になりそう。
と、拍手が聞こえた。
息を整え、客に応えるように礼を取る。
「こういう感じです」
照れ隠しに笑うと、呆然と見ていたエサイアスが、熱い息を吐いた。
「素晴らしかった。大道芸人のものとも違う。男を誘うような媚びたものでもなく、もっと躍動的で、美しい」
今まで踊ったものの中には、かなり煽情的な振り付けもある。が、今は黙っておこう。
「ああ、マナ」
そう言ってエサイアスは顔を覆った。
この程度で、ここまで感動してくれるとは。もちろん嬉しいが不本意でもある。
「あの、本当はもうちょっとかっこいいんですよ?」
近づいていって覗き込むように言い訳した。ダンサーの端くれとしてのプライドが疼く。
すると、エサイアスが立ち上がって覆いかぶさってきた。
(え)
違う。
これは抱き締められている。
距離が近づいた緊張は、踊った後の脱力がうまく逃がしてくれたようだった。
それに多分、この人は大丈夫だと、心が判断している。
けれど違う意味で鼓動が乱れた。
わたしが混乱している間にも、ぎゅう、とエサイアスの腕に力がこもって、身体はぴたりと密着した。
お互いに部屋着なので、肌の温度まで伝わってしまう。
(う、わぁ)
片腕で頭を抱えるようにされて、耳にエサイアスの唇が触れた。
「そろそろお支度をされませんと」
ノックの音で、2人の身体が面白いくらい跳ねる。
すぐ後に続いた青年の声に、聞き違いでなければエサイアスは舌打ちをした。
2021/4/12改稿UP




