番外・エサイアス1
「報告の『噂』とは、随分違った者のようですね」
執務室に戻ったエサイアスに紅茶を淹れながらそう言ったのは、アロイス・シャーレクだった。
執事としては随分年若いが、最近下賜されたこのタウンハウスに、もちろん筆頭執事は連れて来られなかった。
とはいえ、彼の能力は申し分ない。
「ああ、カシュカの予想は当たっていたらしい」
『アイナ』と名乗る異国の使用人について、顎に手をやりエサイアスは思案する。
名前も、もしかすると違うのかもしれないとカシュカは言っていた。理由はわからないが、名乗ることさえ怯えているようだったと。
彼女は先ほど意識を失い、今は客間に寝かせているが、その様子は明らかに尋常ではなかった。
カシュカから、通いではなく住み込みの使用人の中に内通者が必要ならば、彼女を引き込みたいと告げられた時、エサイアスはその人物が怪しいと感じた。
彼女は決して愚者ではないに違いないとカシュカは言った。
聞いた噂では、常識を何も知らず言葉さえわからないらしいが、それは屋敷の誰もが気づいていないだけだと。
貴族の家で使用人が素性を偽っているのだとしたら、それは十中八九犯罪者、あるいは他家か他国のスパイだろう。カシュカがそうであるように。
しかも彼女は外国人だという。
通常、住み込みの使用人については詳しい身辺調査がされるものだが、屋敷内の様子を聞く限り、手を抜いていないとは言い切れなかった。
だから、どうしてもと言うなら、本人に会ってみたいと伝えたのだ。
化けの皮を剥いでやるつもりで。
けれど。
「一体、どんな目に遭わされれば、あんな」
着替えを手伝おうとした侍女からの報告を思い出す。服に隠れる部分はすべて、傷や痣で埋め尽くされていたという。
彼女は怯え、そして何より怒りを抱いていた。
貴族に対する、否、貴族社会そのものに対する明確な拒絶。
あれが演技とは思えない。
であるならば、貴族の命で動いているスパイであるとは考えにくい。
では犯罪者かというと、それにしては雇用期間が長すぎる。盗みや殺しを手引きする役にしても、何か月間も同じ家に留まることはまずないからだ。
それよりは、事情を隠さなければならない状況に追い込まれている、と考えた方がしっくり来る。
「あの様子を見る限り、非人道的な扱いを受けているという点については、疑う余地がありませんね」
アロイスも似たような感想を抱いているらしい。
彼女を警戒するような言葉は出なかった。
「しかし、冷静でないあの状況下でさえ、彼女の言葉は深い教養を感じさせるものだった。
にもかかわらずパーセットの屋敷では、『言葉も話せない聞き取れない愚者』の扱いということだ。これはどういうことだ?」
彼女が血を吐くように叫んだ言葉は、実際、実に的を射ていた。
咄嗟に返す言葉もなかった。
予想だにしていなかったとはいえ、貴族相手でさえ、エサイアスが返答に窮する場面などそうそうないというのに。
「カシュカ殿が同情するくらいですから、それも含めて人の扱いを受けていないのでしょう。ロキュス・パーセットなら不思議ではありません」
無表情のままアロイスは淡々と言うが、その声音は心なしか冷えていた。
俯瞰的な視点からのあの言葉は、とても一般的な平民のものとは思えない。しかしその内容から同時に貴族でもありえない。
たとえ他国出身であっても、周辺国家で貴族以外にあれほどの教養が身につけられる身分は思い当たらなかった。
では彼女はなんだ?
今となってはスパイや犯罪者だとは思わないが、だからといって、彼女に関するすべての謎は解けない。
けれど、ここまでの印象通りの人物だった場合、これ以上ないくらい都合のいい人間ということになってしまう。
(彼女を守ると言った気持ちに、嘘はなかったはずなのに)
エサイアスは頭を抱えて、深い溜め息を吐いた。
「ここまで来て引き返すことはできないが、気が重いな」
すでに限界まで追い詰められた様子のあの少女に、さらに取引を持ち掛けようとしている自分が、正しいことをしていると言えるのだろうか。
それが結果彼女を救うことになるなら、それは正義か?
思わず抱き締めた身体の細さ。
彼女を守ると言った時、本当に不思議なほど打算はなかった。
純粋に、守りたいと、あの時のエサイアスは思ったのだ。初めて会う、異国の人間に対して。
身体は限界を訴え冷たく震えていた。それでもなお、意思を失わないあの瞳を思い出す。
悲痛な声を。苛烈な感情を。溢れる涙を。
カシュカが何故彼女をと言ったのかはわからない。
しかしエサイアスもまた、彼女を知りたいと強く思っていた。
2021/1/8改稿UP




