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(あれ)


 何かが引っ掛かった。カシュカと名乗る彼女が、初めて見せた淡い笑顔よりも。

 名前。


(これは違う)


 ああそうだ。

 きっと対外的な貴族名があるだろう、わたしにも。

 アリサとテレッサのように、詰め替え用の容器が。


 そしてあの執事の言葉を思い出した。

 ロキュスの屋敷に連れられて行った、初日。

 何度もフラッシュバックするあの日の記憶。

 あの時、唯一耳に残った音。


「いえ、アイナです。間違えました。アイナと呼んでください」


 慌てて訂正をした。


(怖い)


 本名を名乗ることで、何かまずいことが起こるのか、それはわからない。


(怖い)


 でも今ロキュスに下手に逆らって、状況が悪くなるのは困る。すごく困る。ようやく外に出られたのだ。

 ただそれだけだ。


「間違えた?」


「そうです。間違えました」


 アイナ・クルームというのが、わたしの容器だったことに今気がついた。点と点が繋がるように。

 何度か、念を押すように言い含められた名前。

 まだ言葉を知らず、何を意味しているのかはわからなかった。

 けれど先日アリサとテレッサの話を聞いて、今ようやく意味がわかった。

 あれは『わたしの名前』だったのだ。


 カシュカがわたしをじっと見つめる。

 自分の名前を『間違える』なんて、普通はないだろう。

 それでも押し通してしまえばいい。

 だってわたしは『無学な馬鹿女』だから。


(ああ、嫌だ)


 どれだけ目を逸らしても、あの男を怖いと思う心を止められない。

 それが死ぬほど悔しい。

 あいつが目の前にいないこんな時にまで、まるで支配されているかのような屈辱。


 間違っているのはあいつなのに、傷つけられるのはいっつも弱い方だ。

 弱いのがいけないのか。

 立場が低い方が、力の弱い方が、騙される方が、いじめられる方が。


 人間社会における強さと弱さは一様ではない。

 それぞれのコミュニティや状況によって、いくらでも裏返ってしまう。

 今日の強者が、明日の弱者になり得るほど複雑なのだ。


 だからこそ、誰でも弱者になり得るからこそ、ある程度弱者を救済するシステムが、社会には作られる。

 単純ではない関係を構築するヒトという種にとって、弱肉強食をそのまま放置している社会は、未熟と言わざるを得ないんじゃないのか。 

 ここでは、貴族が肉食動物で、平民は草食動物だ。まるっきりそれが当てはまってしまう。力の逆転はきっと起こりえない。

 その立場も、ほとんどの場合ただの生まれで決まる。子どもに親は選べないのだから、それは努力ではなく運でしかない。


 立場が低い方が、力の弱い方が、騙される方が、いじめられる方が。

 現代日本だって、まだまだ弱い人間は泣き寝入りすることが少なくない。

 それでも随分自分は、自由の中にいた。

 守られていた。

 恵まれていた。

 逃げ場があった。

 それをわたしは今全身で思い知っている。


 怖いという感情と同じくらい、怒りを抱いている。

 ぐらぐらと煮立つような感情は、わたしを生かしながら、けれど同時に心を削っていく。

 どこかで冷静になるべきだとわかっているのに、それに今は縋るしかなかった。

 でなければ、1人で立てなくなってしまう。



「準備が整いましたので、ご案内致します」


 執事らしき青年が、ドアを開け告げた。

 カシュカに倣って席を立ち、案内のまま進むと、廊下に並んだ2つの扉にそれぞれ侍女が立っていた。

 別々の部屋に通されることに、強い抵抗を感じる。

 けれどカシュカがさっさと奥の部屋に入ってしまい、目の前の侍女は入り口で立ち止まったわたしに困っている。


 知らない部屋。

 密室に入ることを考えただけで、背中に汗が伝った。

 服なんて洗えばいい。

 いっそ汚れたままだっていい。誰も気になんかしない。

 どうせ暗い色に隠されているだけで、この服はすでに靴跡や血で汚れているのだ。


「やはり、着替えはいりません」


 1歩後退る。


「え?」


「このまま帰ります」


 2歩。


「いえ、ですが」


 ますます困り果てた侍女が、同じだけ距離を縮めつつ、言葉を詰まらせている。

 わたしもこれ以上言い様がない。

 どうしても動けなくて俯くと、杖をつく音が前方から聞こえてきた。


「おや、どうかしたのか」


 先ほどの貴族、エサイアス・ヴァルトが、穏やかな声で訊ねた。

 侍女がわたしの我儘をオブラートに包んで説明すると、彼はこちらに向き直る。


「今着ている服が好きなのか?ちゃんと洗濯をして、後日お返しするよ」


「いえ、そうではなく」


 優しい声音。丁寧な口調。

 それなのに、怖さがまたせり上がる。


「では、この侍女が気に入らない?」


「そんなことはありません」


 近づくなと叫んでしまいそうで、奥歯を噛み締めた。


「遠慮ならば、本当にいらないよ。悪いけど新品ではなく、妹が着なくなった服だから、帰ったら捨ててくれても構わないんだ」



 エサイアスの声には生真面目さと気遣いが滲んでいた。

 無理やり腕を引くようなこともしない。

 威圧的にならない距離から、静かに話しかけてくる。


 本当に、ただの好意なのだろうか。本当に?

 わたしは、この言葉を信じていいのだろうか。

 俯いた視線を上げて、初めて彼の顔をまともに見た。


 銀髪に深い緑の瞳。彫りの深い綺麗な顔。

 日本で育ったわたしには奇抜といっていいほどの目鼻立ちなのに、見ていると何故か少しだけ感情が凪いでいく。

 懐かしいような気さえする、その表情のせいだ。


(お兄ちゃん)


 見た目は全然違うのに、思い出す。


(わたしに優しい、人の目だ)


 本当に?

 貴族なのに?


「部屋には、誰もいませんか」


 気づいたら問うていた。

 相手の好意を疑うような言い草に、嫌な顔もせず、彼は応える。


「ああ、中には誰もいないし、着替えの最中もこの侍女以外は入らないよ。約束する」


「わかりました。お手を煩わせて申し訳ございません」


 しっかりと頭を下げてから、部屋に歩を進めた。侍女がほっとしたように笑い、部屋の扉を開ける。

 しばらく緊張して耳を澄ましたが、エサイアスの言う通り、部屋の中には他の気配は感じなかった。


 着替えは自分1人でしたかったが、正しい着方がわからず、結局手伝ってもらう。

 身体中の傷を見られてしまったものの、よくできた侍女らしく、息を呑んだのは一瞬だけだった。

 そこかしこにある生傷に触れないように、気遣いながら服を着せてくれる。

 優しくされると嬉しいだけじゃなく、惨めにもなるものなんだ、と初めて知った。


 エサイアスは捨ててもいいようなことを言っていたが、この服はとてもそんな安物には見えない。

 あの日無惨に裂かれたワンピースより、よっぽど良いものに思えた。


 ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。

 ちゃんとわたしに似合う色を用意してくれているようだ。


 これを着た姿を見られて、興味を、少しでも引いてしまったら。

 またあの日のような目に遭ったら。


 今度は逃げ切れないかもしれない。

 


「ごめんなさい」


 咄嗟に、侍女の手を止めて謝っていた。


「どうしましたか?」


「やっぱりいらないです。着たくありません」


 このまま心が削れていったら、どうなるのだろう。

 人は悲しみが多いほど優しくなれるとか、教科書の歌にあったけど、あんなのは嘘だ。

 怯えて小さく固くなっていく。

 視野が狭くなって余裕もない。

 一日一日、自分を生かすだけで精一杯なのに、どうしたら人に優しくなんてできる。

 

 この人のよさそうな侍女を困らせることなんてわかっている。

 カシュカに迷惑をかけるかもしれない。

 それでも身体が動かない。


「元の服を着ます」


「あの、なにか」


「お願いします」


 懇願のようになってしまった。

 みっともない。

 彼女の目を見つめると、少しの沈黙の後、けれどしっかりと頷いてくれた。


「少しここで待っていてください」


「え」


(嫌だ)


 1人で置いていかれるのは嫌だ。


「この部屋には、無断で誰も入りません。絶対です」


 わたしの不安を見透かすように、彼女が手を取り力強く言った。

 すぐにガウンのようなものを持ってきてわたしの肩にかけると、部屋を出ていく。



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