第二章
有彦は立っていた。辺りは闇と静寂に包まれ、一寸先さえ見えない。それなのに自分の体はわずかに光を放ち、その形を確かに網膜へ伝えていた。
(なんだ……?)
どこを見てもただ深い闇と静寂、恐怖さえ覚えるような静寂。この空間に存在するものが自分だけであることが悲しいほど理解できた。
その空間に突然来訪者が現れた。
「有彦か」
後ろから聞こえてきた声に、有彦は頬をひくつかせた。それは今現在、もっとも苦手な人物の声だ。忘れるはずがない。
振り向くと、やはりそこにはクラスメイトの康成が立っていた。
「なんでお前がこんな所に……」
思いっきり嫌そうな顔をして有彦は言った。もちろん康成がそんなもので動じるはずがなかったが。
「雑用さ」
なぜか康成は黒いコートを羽織っていたが、やけに似合っていたので何も言わないことにした
(もちろん襟首も立ててある)。
「雑用って……。どんな雑用だよ」
「雑用さ。例えて言えば大陸間弾道ミサイルを使ってアメリカの国防総省を破壊するくらいつまらない用事だよ」
凍結。
「それはどー考えても雑用じゃない! テロだっ!」
「例えだと言っただろう?」
大声で怒鳴った有彦を不愉快そうに康成は見つめた。そこで初めて有彦は康成のが手に持っているものに気がついた。
「なんだそれ? 人形?」
康成が手に持っていたのはぬいぐるみだった。人間の、しかも金髪で魔女のコスプレをした……。
「それって魔女……いや、加成さんのぬいぐるみ?」
「そのとおり。よくできているだろう」
康成がぬいぐるみをよく見せようと有彦に近づけたが、その直後に襲ってきた有彦の下品な大爆笑のせいで耳をふさがなければならなくなった。
「ぶはははははははははは!? 康成ってそんな趣味があったのか! いやあ、人は見かけによらないなあ~~~~~! 自分でせっせと作ってたのか? 『母さんが夜なべ~をして』みたいなノリで! 恋心を伝えられないまま胸の奥に閉じ込めて、せめて恋しい人のぬいぐるみだけでも……と! でもそれって女の子がやったら可愛いけど男がやったら気色悪いだけだな! ははははははははは……」
一気にまくし立てた有彦を見て康成は呟いた。
「お前、キャラ変わってないか?」
白い目で見てくる康成の視線をものともせずに有彦は笑い続けた。康成がそのぬいぐるみを有彦に渡すまで。
「ほらよ」
康成がぬいぐるみを放り投げた。それを有彦が見事にキャッチする。
「実のところ雑用と言うのは有彦にそれを届けることだったんだ」
「お、俺に? 別に俺は加成さんを見るだけで胸がキュンと何てしないぞ?」
「恋愛から離れろ……。とにかく、ちゃんと持っとけよ。じゃあな」
ビュン、と音がして強烈な風が有彦を襲った。困惑しながらも目を開けると、そこにはもう康成の姿はなかった。残ったのは手に持った加成魔耶のぬいぐるみだけ。
「何だったんだ……?」
さっきまで康成がいた場所を眺めて呟く。そこはまた濃い暗闇が支配していた。
そして、なんとなくぬいぐるみを見てみる。
(…………普通だな)
何の変哲もない、ただのぬいぐるみだった。握った手に力を入れると中に入っている綿の弾力が伝わってくる。
頭の部分を見た。どことなく加成魔耶だと分かる。ほかにおかしい場所はどこも……。
「ん?」
ぬいぐるみの口元が動いた気がした。確かめるためにもう一度見てみるが、変わった所はない。気のせいかと思って目をそらそうとしたその時…………!
にまぁ。
そんな効果音でもつきそうな勢いで、ぬいぐるみの口元がゆがんだ。
「うわあ!?」
とっさにぬいぐるみを離そうとしたが、なぜか手に張り付いていて離れない。よく自分の手とぬいぐるみの接触面を見てみると、透明で乾いたものがそこにあった。
「瞬間強力接着剤!?」
迂闊! おそらくはぬいぐるみを投げたあの時にはすでに付けられていたのだろう。
「あ~り~ひ~こ~く~ん」
呪いでもかけられそうな声色に改めて手のひらを占拠しているぬいぐるみを見た。口が耳元までザックリ裂けていた(そりゃあもうザックリザックリ……)。
「うわああああああああああああっ!」
世界が揺れるほどの大声を上げてぬいぐるみに膝蹴りを入れた(混乱しているわりには鋭い一撃だった)。さらに二、三、四回と続けていくうちに頭の中が真っ白になって……。
有彦はベッドから飛び起きた。
体中汗びっしょり、愛用の青いパジャマが肌に触れるたびに不快感が襲ってくる。それもこれもあの夢のせいであることは間違いなかった。
(恐ろしい……。なんて夢を見てしまったんだ……)
ニヤリと笑ったぬいぐるみを思い出して頭を振る。もう忘れてしまいたい。
目覚まし時計を見る。六時十分。時計は六時十五分にセットされているのでまだ鳴っていない。早めに時計のアラーム機能を解除して、居心地の悪いベッドから立ち上がった。
制服に着替えて、髪をセットする。それから今日の授業の教科書をカバンに詰め込む。今日から休みの日以外はずっとこんな生活リズムになるだろう。
ああ、何て退屈な毎日、こんな日々が続くごとに俺は日常に不満を抱くのだろう。そして日常が退屈でなくなったら、俺は退屈な毎日を懐かしがるのだろう。
(飯食うか……)
感傷から立ち直って部屋を出る。一階へ続く階段を下りて、ダイニングに向かった。
「あら、有彦、おはよう。今日は早いのね」
ダイニングには母と父がいた。母はトントントン、と家庭的な音を出して朝食の準備をしている。父は新聞を読みながらテレビを見るという高等技術を披露していた。
「父さん。新聞読むかテレビを見るかどっちかにしろよ」
「有彦、お父さんはな、いつでもお前の手本でありたいんだ」
「……は?」
いきなり意味不明な文体をつむぎだした父に、思いっきり疑問符をぶつける。
「分からないか? ……まだまだ子供だな。優しく説明するからよく聞くんだ。まず、普通は新聞とテレビを一緒に見ることはできない。あまりに無駄が多いし、その上頭に情報が入ってこないからだ。しかし! 父さんは違う。われらが悪魔軍が神に戦いを挑んだときのように人は一致団結しなければならないのだ! そこには哀れみも嘲りも一切ない。完全なる均一の社会……かつてすべての被造物がそうだったように!」
話がありえない方向へ脱線したのを見て、ため息をひとつ漏らす。昨日も思ったが、父はやはりおかしいかもしれない。
普通の核家族のはずなのに、父だけが異常だ。俺をあんな訳の分からん高校に転入させたのもそう。転勤先だった会社からいきなりリストラされたのもそう(よく知らないが、部長の顔に思いっきりアッパーカットを食らわせたらしい)。リストラされたその日のうちに新しい就職先を見つけ出したのもそうだった。
(何かいろいろズレてるよな)
まだ話を続けている父の横顔を見ながら心のなかで呟いた(なぜかハーブの種類について熱く語っていた)。
「お父さん、有彦、早く食べたかったら食器運んで」
「うん、わかった」
返事をして食器を運ぶ手伝いをする。とりあえず和風な朝食だった。ご飯に味噌汁、おひたし……なぜかポテトサラダ。
少々の違和感は無視して、食器運びに精を出す有彦だった。
「学校はどうだった? 馴染めそうか?」
「そりゃあもう誰かさんのおかげでデンジャーな日々を送ることになるだろうよ」
「有彦、お父さんにそんな口の利き方しちゃいけません」
だいたいいつもやっているような会話の流れを作りつつ、食欲を満たしていく。それが沖田家の常だった。三人が揃って食事をするのは朝だけ、昼は有彦と父がそれぞれ学校と仕事、夜は父が帰ってこないため二人だけだ。
「ごちそうさま」
両親より早めに朝食をたいらげて食器を流し台に運ぶ。それからニュースを見るためにリビングへと移動した。
今の時間なら朝のニュース番組『スターデイズ』がやっているはずだ。テレビについている主電源をつけて、リモコンを操作する。この番組の古株アナウンサーが画面に姿を現した。ほとんどが白髪で、どこか気の良い顔つきが特徴的だ。どうやら昨日起こった事件を放送しているようだった。
『昨日、非日常区の高校付近で同高校の女子生徒が襲われるという事件が起こりました。襲われた女子生徒は意識不明の重体。警察では通り魔の可能性を……』
そのニュースにいつの間にか釘付けになっていた。非日常区の高校は自分の通っている非日常高校だけだ。そこの女子生徒が襲われた……。
「あら、怖いわね」
ダイニングからニュースを聞いていた母が言った。それほど怖いと思っていないのかどこか他人事のように聞こえる(確かに他人事だが)。
母の感想はおいといて、これは怖い、自分も気をつけなければならないだろう。
「そんなお前にアドバイスだ」
「うわっ! 父さん!?」
いきなり横に出現した父に驚いて有彦は横っ飛びした(なぜ心の声を父が察知できたかは不明)。父は謎の微笑みとともにこちらの目を見すえている。そして悪魔の唇が動いた。
「父さんが直々にこの家に代々伝わる秘奥義を教えよう。まず下準備に十日間飛騨山脈でサバイバルをしろ。そうして霊気が高まったところで父さんが熱を入れて……」
やはり脱線した話を聞き流しながら、ニュースを見る。ちょうど本当の目当てである占いが始まったところだった(女々しいとか言わないでほしい)。一番運勢のいい星座から順に発表されていく。一番運勢がいいのは山羊座、二番目が蠍座……と次々に発表されていき、結局有彦の星座である天秤座は十一位までその名を呼ばれることはなかった。
(げ……。最下位か)
まあ、十二分の一の確率で最下位は巡ってくるわけだから別にいいのだ。占いにはそれを信じる心も重要な力となるのだから、信じなければどうということはない。そして、占いの結果を発表していたアナウンサーが明るく最後の星座を告げた。
『十二位は蛇使い座です。物事がうまく運ばなくてイライラしてしまう一日。出かける前に爪を切ると運勢が好転しますよ』
「…………………………」
有彦はただボーっとテレビの画面とアナウンサーの声を聞いていた。頭のほうが目の前の現実を受けとめるのに時間がかかっている。
『最下位は……残念、天秤座のあなたです。何をやってもうまくいかない一日。日本刀を振り回せば運勢が好転します』
ここでようやく頭がフリーズから抜け出した。
「ちょっと待てっ! 何が蛇使い座だ!? そんな星座いつからあった? 星座といえば十二星座と相場は決まってるだろう!? なぜに蛇使い座などと言うファンタジーにしかエンカウントしないようなヘブンズドアが!?」
「有彦……? 何だか混乱してるみたいだけど大丈夫? 十三星座なんて当たり前じゃない。それよりもお母さんには十二星座の方が分からないわ……」
「はあ!? 何で!?」
母の言葉により有彦はさらなる混乱状態に陥った。
「母さん! 星座は十二星座だろ! 蛇使い座なんて絶対ありえないって!」
「そお? 私は子供の頃から十三星座って覚えてたわよ。ちゃんと蛇使い座もあったし」
「何で!?」
「世の中そういうものだぞ有彦。一月二十九日と三月七日生まれは蛇使い座なんて常識だ」
「は!? ちゃんと日にちまで設定されてるのか!? ってゆーかなんでそんなに日にちが開いてるんだ!?」
「ん? そういえば深く考えたことなかったな……。蛇使い座の日なんて常識だぞ? 色恋ごとは金曜日にやったほうがいいってくらい常識だ。そういえば母さんとはじめてやったのも金曜日……」
ズドォ!
気づいた時には瞬間移動で接近した母の鉄槌が父の鳩尾にクリーンヒットしていた。そのまま父は力なくフローリングの床に倒れる。
それから母は頬を赤らめて言った。
「んもう。そんな恥ずかしいこと言っちゃ嫌よ?」
「いくら恥ずかしかったからってこれはないだろ……」
泡をふいて卒倒した父を見下ろして、有彦はため息をついた。
そんな騒動があった我が家を後にしようとした時。家の前に立てかけられている表札に目がいった。
『沖田 陽子
総司
有彦』
(ああ……そういえば……)
この表札を見て、自分の父と母の名を思い出した有彦はさわやかな顔で駅へと歩き出した。非日常高校へ行くには駅を二つ通らなければならない。時間は十分だ。さわやかな朝の陽射しを受けて歩く。
なぜ表札の一番最初が母の名前なのかは暗黙の了解なのでツッコまない有彦だった。
◇
電車は順調に非日常高校へ向け走行していた。どんどん移り変わっていく外の景色に目を向けたところで、よく知らない会社やホテルの看板がその存在をアピールしているだけだった。
いつもならボーっと座席でその景色を眺めているだけの有彦だが、今日は違った。なぜなら九時の方向十センチのところに亡霊が鎮座していたからである。
「…………」
機械的な動きで首を左に回すが、そこにいるのはもちろん亡霊などではない。クラスメイトの坂之上早苗だった。昨日のうちに同好会のメンバー全員のコードネームは聞かされていて、彼女のコードネームは『サダコ』らしい。チャームポイント(?)の腰まで伸びた黒髪がホラー映画の亡霊をほうふつとさせる。どこにでもいるとはお世辞にも言えない女の子だった。
一つ前の駅で乗ってきた彼女は有彦の隣に座り、現在に至る。その間、二人はあいさつすら交わしていない。
「…………」
なんとも言えない微妙な空気。まわりの喧騒が遠く感じる。特に親しくもないのだから無理に話さなくてもいいのだが……。
「沖田さん、降りないんですか?」
「へ?」
なんとも間抜けな声を出して、有彦は声の聞こえたほうに向き直る。そこには座席から立ち上がった早苗がいた。どうやら考え事をしているうちに着いてしまったらしい。
「あ、今行く……」
結局、有彦と早苗は高校まで一緒に行くことになった。
もしかしてこれも非日常領域だからなのか、と有彦は思った。
大通りには通学中の生徒がグループで喋ったり、文庫本を読んで歩いたりしていた。もちろん、全員非日常高校の生徒だ。この隣にいる早苗も。
普通、男子と女子が並んで登校、とくれば九割は恋人同士だ。偏見なのかもしれないがそれが有彦の常識だった。そして今、自分の隣にいるのは女子だ。だが、恋人同士ではもちろんない。早苗も変わった様子はまったく見せない。
やはりこれは非日常領域だからか、と無理やり納得する。非日常的だからこそ、年頃のなんでもない二人が一緒に登校してもいいのだ。目の前の男子のように犬耳をつけて登校してもいいのだ(もしかすると本物かもしれない)。巫女さん姿で登校してもいいのだ。自家用ヘリで登校してもいいのだ。マシンガンを肩にかついで……ああ、あれはクラスメイトの英志だった。コードネームは『武器マニア』。まったくそのままなコードネームだ。
「みんな、個性的でしょう?」
早苗が声をかけてきた。なぜか緊張する。
「うん……本当に、いろんな意味で個性的だね……」
額に脂汗が浮かぶのは、今日の気温が例年より高いせいだけではないだろう。まわりの生徒を見ていると、隣にいる早苗がいくらか可愛く見えた(女性的に、という意味ではない)。
「ところでさ、『ひびつね同好会』ってどんな活動するの?」
まわりがあまりに異常なせいか、早苗に対する抵抗は薄くなりつつあった。そうなると自然と言葉が出てくる。
「『ひびつね同好会』は川本さんの指示で動きます。何をするのかはその時々で違うんです」
「康成の指示で? 俺が入る前はどんなことやってたの?」
そうですね……、と早苗は少し考えてから有彦に顔を向けた(長い前髪のせいで顔は見えなかったが)。
「この前は区内のクリーンクリーン活動をしました」
早苗の口から語られたあまりに普通な答えに有彦は心底驚いた。
「そんな普通なことをやる同好会だったのか……」
すまん、康成、俺はもっとヤバめな事をする会だと思っていたよ、素晴らしい慈善事業じゃないか、おれも喜んで手をかそう。
「その前は……アメリカのニューメキシコ州ロズウェルまで行ってUFO撃墜作戦を展開しました。残念ながら取り逃がしましたけど」
「は?」
実はいい所なんじゃないのか? と思い始めたところにこれだ。
「あとはロシアに潜伏していたテロ組織の殲滅。各国のマザーコンピュータへのハック、およびクラック。アヘンの密輸。自作衛星の打ち上げ。筋トレ週間――あの時が一番きつかったです。それにハワイ諸島沖に出現した謎の巨大生命体『神に似たる者』の撃破、採取、分析……これくらいでしょうか」
「……さいですか……」
有彦は心の中で前言撤回した。
無事に登校して、教室に入ると当然のように康成がそこにいた。コードネームは『情報通』らしい。
「おはよう有彦、坂之上さんもおはよう」
「おはようございます」
「……おはよう」
できるだけ不機嫌に言ってみたが、効果のほどは……なかったようだ。
「なんだ? 不機嫌そうだな、カルシウムが足りていないんじゃないのか? ほら、これやるよ」
むしろ逆効果だったようだ。康成はカバンの中から白い物体の入ったビンを有彦の目の前に突き出した。一見すると牛乳だ。
「……で、康成はこの『ヨーグルト』を俺にどうしてもらいたいんだ?」
「ちっ、気づいたか」
「誰でも気づくわ!」
ドカンッ、と康成の机にヨーグルトの入ったビンを乱暴に置く。よく見ると白い物体の表面部分に透明な液体の層ができていた。
「いきなり嫌がらせか!?」
「いや、なんとなく有彦の驚いた顔が見たいな~と思っただけだ。深い意味はない」
「なぜお前と俺は出会ってしまったんだ……」
「人は宿命とともに生きる生物さ。俺とお前が出会ったのも宿命という必然から生まれた現象なんだ。うけうりだけどな」
「そんな宿命壊してやる……」
「動き出した歯車はもう止められない……悲しいものだな」
そんな二人の言い争いを楽しげに、そして少しうらやましげに早苗は聞いていた。
「何々? 二人の男がお姫様をめぐって争ってるの?」
「魔耶ちゃん! そんなんじゃないよ!」
突然横に現れた魔耶に早苗は少なからず動揺した。正確に言うと、魔耶の出現に動揺したわけではなく、彼女の言葉に動揺したのだ。ちなみにコードネームは『魔女っ子』。
「あ、加成さん……ぐぅ!?」
有彦はうろたえた。理由はひとつ。魔耶がほうきに腰を下ろして宙に浮いていたからだ。その状態に対してツッコむかツッコまないかで有彦の頭はいまだかつてない葛藤を繰り広げた。
(これはツッコむべきではないのか? いくらなんでもほうきで空を飛ぶのは……。いや、それすらこの高校では普通なのか……。実際、飛んでいる加成さんの姿を見ても誰も驚いていない。あれが普通…………。いや、まて! 考え直せ! この高校唯一の常識人の誇りを忘れるな! 人が宙に浮くなんて考えられん。あらゆるどんな方向から見てもありえん。ツッコむべきだ! よし! 行け! ファイト俺!)
そう決心したときには宇都木先生が教室のドアを開けて入ってきていた。
そして、恐るべき非日常生活が今日も始まった。
とはいったものの。
(授業とかは普通だよな……)
国語教師がホワイトボードに漢文をすらすらと書いている。管中字夷吾……その文字の羅列を見ただけでは何がなにやらさっぱり分からない。いかんいかん教科書をちゃんと見て意味を理解しなければ……。
ちらり、と隣を見る。ホワイトボードだけに集中した康成がそこにいた。少し視線を下にずらすだけで見事な書き下し文を見ることができる。
(結構頭いいんだな……)
この学校の平均がどれだけかは知らないが、有彦は前の学校で中の上くらいの成績だった。康成のすべてを知っているわけではないが、おそらく前の学校へ彼が行けばクラストップは確実だろう。
ふと、康成が顔を廊下側に向けた。
(……?)
その視線をたどってみると、英志が同じように康成を見ていた。その視線が意味深に交錯する。康成の視線を確認すると英志は手に持っていたものを机に隠れるように構えた。すでに矢が装填されたボウガンを。
「!?」
なにやらやばいことが起きている……そう有彦は直感で悟った。隣の康成と右前方の席の英志は真剣な面持ちでいる。そして、国語教師が漢文を書くために後ろを向けたその時、それは起こった。
英志が神速の技でボウガンをある人物に向けた。その人物とは……。
(富士原さん!?)
英志が目標にしているのはコードネーム『格闘少女』の七海だった。眠そうにあくびを一発かましている。
そして、ためらいもなく英志はボウガンを撃った。バシュッ、と冗談抜きのスピードで矢が七海に迫る。一瞬、有彦は『危ない!』と叫ぼうとした(叫んでもあまり変わりそうにないが)。
しかし、結果は有彦の予想を見事に裏切った。高速の矢は……七海の右手人差し指と中指によって完全に止められていた。ちらっ、と七海が英志のほうを見る。それから矢にくくり付けられていた紙を解いた。
(やっ矢文……?)
なぜボウガンを人に向けるとか、なぜ七海があの矢を取ることができたとか、そんな事が有彦の頭の中で渦を撒いていた。あれほど危険な矢文の受け渡しはそうはあるまい(今の時代に矢文でやり取りする人物もそうはいない)。
七海はその矢文を見て……微笑んで、それから頬をほのかに赤らめた。
これはただ、それだけの話だった。
時は流れて数学の時間。
「え~つまりこの公式をこうやって当てはめればいいわけでなぁ~」
妙に語尾が延びる教師だ。髪が天然なのかわざとなのか分からない程度にボワッとしていて、さらには少々茶色がかっている。一見、どこかの音楽家のような雰囲気がする。
少し退屈なので(非常に先生に失礼だが)教室を見回していると……。
「!?」
目線の先にいたのは光一である。コードネームは『エジソン』。その苗字から取られたものなのかそれとも発明家から取られたものなのか……おそらく両方だろう。
その光一が……なにやらピンク色の本を堂々と読んでいた。
いや、言い回しはやめよう、これは断言してもいい。光一が呼んでいるのはポルノ雑誌だ。しかも光一は本を隠そうとさえしていない。なぜか姿勢正しく本を立てて(そのため教卓側から丸見えだ)さらに真剣な目をして一ページ一ページ読んでいる。
(ありえない……)
『「ありえない」なんてことはありえない』という偉大な言葉を残したのは誰だったか、そう、まさにここはそうなのだ。ありえないことが平然と起こる……未曾有の無法地帯なのだ。
「で、ここをこうすると……ん~~~~?」
と、ここで数学教師が光一の雑誌に気づいた。すたすたと近づいていくが、光一の方は一心不乱に雑誌を読んでいて教師の行動にまったく気づいていない。そして……。
「おいおい、光一ぃ~~、何読んでんだぁ~~?」
数学教師が雑誌を取り上げた。そしてパラパラと中を見る。
「こんなの学校に持ってきちゃぁ~~……ん?」
不意に数学教師の顔つきが変わった。鋭い眼光で雑誌を見つめている。
「……このように火星付近と冥王星付近には小惑星が大量に存在しており、特に冥王星付近の『カイパーベルト』と呼ばれる場所には冥王星クラスの大きさの小惑星も存在しており、近年になって発見が相次いでいる……」
そのページに書いてあったであろうことを読み上げてから、また数学教師はぺらぺらとページをめくった。
「……つまり、人の頭の中はウニのような状態なのである。突き出している針が『意識』、つまり一人一人の個性を表し、中心の身の部分が『無意識』である。この例えのように人間の脳は万人とつながっている『無意識』の部分があるのだ。これは著者の推測に過ぎないが、超能力の『テレパシー』もこの状態を利用したものではないのだろうか。いや、もしかすると『予言』
なるものもこれを利用しているのかもしれない。なぜなら……」
パタン、と数学教師は雑誌を閉じた。
「なんだぁ~~、ピンク色の表紙だからエッチな本だと思っちゃったぞぉ~~」
なんて笑いながら光一の手に雑誌を戻す。
「さあ、さっさと授業進めるかぁ~~」
そうしてのんきにホワイトボードに戻っていく。
(な、何だ、そういう本じゃなかったのか……)
有彦は安心すると同時にそういう本だと思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。謝罪の意を込めて光一の方を向くと……。
「!?」
光一の持っている雑誌のインクがだんだん薄れていき……今度は本当のポルノ雑誌になってしまったのだ!
(い、いったいどうなってるんだ!?)
もちろん、どんなに考えたところで答えなど出るはずもなく、ただただ授業に集中することしかできない有彦だった。
この他にもいろいろ騒動があり(光一が試作β型Pマウスで女子更衣室を隠し撮りしようとしたり、魔耶がバンデモニウムからメフィストフェレスを召喚しようとしたり、早苗が内職で呪いのわら人形を作っていたり)、有彦のまわりが静まることはなかった。
「この学校はいつもこんなに騒がしいのか……?」
「そうだな、いつもこれくらいだ」
別に答えてもらいたかった訳ではないのだが、次の授業の準備をしていた康成が言った。
「もっと静かにできないのか?」
「静かすぎると陰気なイメージになるぞ」
「このさいそれでもいいかも……」
「いいわけないでしょ?」
いつの間にか康成の机の前に魔耶が出現していた。ほうきで宙に浮くのはもうやめたようだ。
「この学校から騒がしさをとったらかなり恐い集団よ」
魔耶の言葉を聞いて、有彦は想像した。
静まり返った教室に三十八個の机。そこに魔女のコスプレをした女子生徒が黙って座っている。マシンガンを片手に構えた男子生徒が黙って座っている。エレキギターを持った金髪の男子生徒が黙って座っている。自分の頭を『宇宙戦艦ヤ○ト』にした男子生徒が黙って座っている。長い黒髪で顔さえ見えない女子生徒が黙って座っている……!
有彦の全身に悪寒が走った。
「確かに……いかれた宗教組織みたいだ……」
「でしょ? 明るくしてるとどんなことでもカムフラージュできるわ」
「そうゆーものでもないと思うけど……」
「いえ、そうゆーものなの」
有彦を強引に丸め込んでから、魔耶は康成に向き直った。
「ねぇ康成、早急にクマツヅラがほしくなったの、イギリスまで行かなくちゃだめだから……おこづかい頂戴?」
「ふぅ、仕方がないな……」
そして康成はカバンの中から……一万円札を取り出して、魔耶に渡した。
「なぬ!?」
意味不明な奇声を出して有彦はその一万円札に目を奪われた。
一万円札。自分はここ最近こんな高価なものを触ったことがあっただろうか? 答えは、否。それをこの男は『おこづかい頂戴』の一言で渡してしまうのか!? 一瞬(かなり失礼だが)有彦の目にはそれが援助交際の場面に見えた。
しかし、そこで有彦は新たな事実に気づく。
「……ねえ加成さん、イギリスから行って帰ってくるのに……一万円じゃ足らないんじゃ?」
魔耶はキョトンとしてから。
「飛行機じゃ行かないわよ? あれに乗るの」
すっ、と魔耶の指が自分の机を……いや、その横に立てかけられているほうきを指した。
「え~っと……」
有彦は困ったように呟いて。
「それは……そのほうきを使ってかの偉大なる宮崎駿監督作品の中の人物ように空を飛ぶ……ってこと?」
「ええ、もちろん! 第一、ほうきにそれ以外の使い道ってないわよ」
「あると思いマス……」
そんな有彦の妙に他人行儀な呟きを無視して、魔耶は一万円札をしまって席に戻った。
その姿を憔悴しきった目で追いながら、ぽつりと有彦は言った。
「加成さんって……反則的バディだよな」
実際彼女のプロモーションはボン、キュッ、ボンであった。
「なんだ有彦、ムラッと来たのか? やはりお前も野獣か。ストーカーで色欲魔で性病持ちなんだろう? ああ、あれか、後天性免疫不全症候群ってやつか。ポルノ雑誌も十冊以上持っているんだろう? 破廉恥男め、地獄に堕ちろ」
ただ淡々と、本当に淡々と康成が罵倒語をつむぎだした。その抑揚のない声のせいで有彦は一瞬何を言われたか分からなかった。
数秒の解析の後。
「おのれはぁ――――っっ! 俺の人格疑われるようなこと平気で言うなっ!」
康成につかみかかろうとする有彦、しかし、単調なその行動は完全に相手に読まれていた。
「ふん」
机に座った状態から人外とも言える跳躍。二メートルほど離れた場所に着地した。
「あんまり怒ると血管が破裂するぞ。これでも飲んでおけ」
そう言って康成は朝のヨーグルトをどこからともなく取り出した。
「いらんわっ!」
有彦は精一杯康成を怒鳴りつける。
「なんだかんだ言ってさ、有彦くんって学校になじんでるわね」
「そうだね」
有彦と康成のけんかを傍観していた魔耶と早苗が言った。
確かに、それは悪ふざけをした男友達と口げんかをする微笑ましい(?)光景だった。
いつの間にか環境適応してしまうのもひとつの美点である有彦だった(本人自覚ナシ)。
その日の放課後。
有彦は『今日は活動するからこい』と康成に言われたので律儀に管理棟三階の生徒会室にきていた。
(こんなところで何をする気だ?)
そう怪訝に思いながらも、生徒会室のドアを叩いた。
「有彦君ですか? 入ってきていいですよ」
ドアの中から聞きなれない女性の声で返事があった。透きとおったいい声だが、どこか威厳がある。その女性の言うとおりにドアを開ける。そこには同好会のメンバー(宇都木はいなかった)と書類を手にした女子生徒が立っていた。おそらく、有彦を中へ入るよううながしたのはこの女子生徒だ。
実のところその女子生徒を有彦は見たことがあった。金髪碧眼、優しそうな顔つき、なにも知らなければ留学生だと思うだろう。しかし、彼女はれっきとした日本人で、戸籍も日本だ。宇都木先生から昨日のうちに教えてもらった彼女は、この学校の生徒であり……生徒会長だった。
「遅いぞ有彦。会長はカンカンだ」
「うふふ、怒ってなんていませんよ。あなたが新しく『ひびつね同好会』に入った有彦くんですね」
「あ、はい」
ふんわりと柔らかく、抱擁感のある声だった。その声に誘われるようにして有彦はほかの同好会のメンバーと同じ場所に歩いていた。
「私がこの高校の生徒会長であるフロリダ・マーズデンです。覚えておいてください」
「あ、どうも」
次の瞬間、有彦の脳天に書類アタックが決まった。康成が持っていた書類で頭を叩いたのだ。
「なにが『どうも』だ! 『お会いできて光栄です。女王様』と呼べ! いまなら初回特典で会長に鞭打ちしてもらえるんだぞ!」
康成がかなりヤバめなことを言った。
「もう、私はSM嬢じゃありませんよ」
余裕で流す。
「これは失礼……。では、丸く収まったところで報告を再開しましょう」
「どこが丸く収まってるんだ……?」
そんな有彦の呟きを無視して康成は報告書を読み始めた。
「……ということで、ロズウェル近郊に出現したUFOは我々の追撃から逃走。現地の魔力素の微量な減少を加成魔耶が察知し、その減少量から目標は『空間転移』もしくは『時間転移』したと思われます」
「『時間転移』ですか。あまり景気良く使ってほしくないですね」
「同感です。『空間転移』もそうですがおそらくWHDを使ったと思われます」
「ワームホールドライバですか……。やはり『彼ら』には制裁を加えなければならないようですね。オゾン層が破壊されて困るのは私たちだけなんて不公平ですから」
「イエス・メム。それでは続いてクリーンクリーン活動の成果ですが……」
真剣に話し合う二人の姿を有彦はただ呆然と見ていた。今は『やはり区内にはタバコの吸殻がよく落ちています。一部にはポストの中に吸殻を入れられたとの報告もあり……』なんてことを話しているが、さっきまでは二人とも『高嶺の人物』だった。有彦はあの会話を聞いても早苗から聞いたUFO撃墜作戦のことだとだけしか分からなかった。
「では、本題に入りましょう」
康成の重苦しい声を聞いて、改めて二人に注目する。はたして『本題』とは……?
「見てください」
康成が一枚の紙をフロリダに渡す。そしてその紙にめまぐるしいスピードでフロリダが目をとおす。
「都内の高校の生徒、教諭の個人情報です。生徒は生徒会に関わっている者全員、教諭は校長、教頭のものです」
「んな!?」
個人情報、つまり『それはいろいろとやばいんでねーの?』という情報のやり取りがいま目の前でされている。もう『プライバシーがどうたら』言っている場合ではない。
「間違いありませんね?」
「はい、事務コンピュータへのハック、さらには盗聴、盗撮、監視までして手に入れた完璧な情報です」
「どれほど『完璧』なんですか?」
「それには載っていませんが、血縁関係、交友関係、食事の時間、現在ハマっているゲーム、趣味、銀行の預金残高、パスポートの有無、幽霊の肯定派か否定派か、今行ってみたい国はどこか、好きな異性のタイプ、ABCは経験済みか否か、視力、特技、良く行くサイト、アーティストはだれが好きか、さらにはマスターベーションの時間まで」
「ちょっとまて―――――――――っ!」
有彦は顔を真っ赤にしながら叫んだ。内容を聞いていれば当たり前な反応だ(周りには女子もいるし)。
「……有彦、うるさい」
康成が眉間にしわをよせて睨み付けてくる。しかし今はそんなものにひるんでいる場合じゃない。
「最後のひとつを除いたものは百歩譲って良しとしよう! だけど……だけどなぁ……! 最後のひとつは調べちゃ駄目だろっ!」
「なんだ有彦、お前まさか……『女』の方が良かったのか? 確かに盗撮はしてあるが……」
「俺が言いたいのはそんな事じゃな―――――いっっ!」
ふと、真横からこんな会話が聞こえた。魔耶たち女グループがいる方だ。
「やっぱり有彦くんもそーゆうのに興味あったんだ~。ね、早苗ちゃん、あんまり有彦くんに近づかないほうがいいわよ。変にやさしくすると有彦くん勘違いして早苗ちゃんの△△△△を■■■■しちゃうんだから、そして最後には×××に○○してフィニッシュしちゃうのよ!」
「魔耶ちゃん、そんな恥ずかしいこと……」
その会話に七海も割って入ってきた。
「いいえ、ちゃんと知っといたほうがいいわ、あの朴念仁に見える英志だって私と二人きりになったとたん襲い掛かってきたんだから。たぶんあの後■■■■しちゃう気だったのよ!」
「女の子がそんな言葉使っちゃいか―――――――――んっっっ!」
学校全体が震えそうな大声で有彦が叫んだ。そのおかげで英志が『違うんだ七海、あれはアクシデントであり、深い意味はない』と言おうとしていたのを遮ってしまった。
「女の子はもっと清楚で可憐でなくちゃいけないんだ――――――っっ!」
「わ、それひどい、横暴」
魔耶が呟く。
「……だけどさ、マジでそんなところ盗撮したの? もしそうだったらちょっと軽蔑するかもしれないよ」
七海が言う。当然の指摘だが康成はまったくひるまない。
「事実だ。重要な証拠物件としてDVD‐R(一度だけ書き込みが可能なDVDのことだ)に記録してある。それとまったく関係ないことだがDVDをデジタル・ビデオ・ディスクと勘違いしている奴が多くて困るな」
康成の肯定を受けて、七海が怒鳴った。
「全部燃やしなさい! 女とか男とか関係なく!」
「そーだそーだ!」
七海の後ろで有彦も声と手を上げた(情けない構図だ)。
「……メンバーの二人がこう言っていますがどうしますか?」
康成がフロリダに話を振る。
「そうですねぇ、いい脅迫材料なんですが……あなたたちがそういうのなら仕方ありませんね、処分してください」
「分かりました」
「ちょっと待ってください!」
今まで黙っていた光一が不思議な迫力と共に意見した。コードネームは『エジソン』だ。
「そのDVD、僕に処分させてもらえないでしょうか? ちょうど今DVD‐Rの情報を削除する装置の実験をしているんです。必ずや完全に消去し、書き込み可能な状態にして返してご覧に入れます!」
光一のまわりに謎のオーラが立ち込める。それはお世辞にも『神聖』なオーラにはほど遠かった。
「どうします? 会長」
「そうですね、任せてみましょう。DVD‐Rが書き込み可能な状態で帰ってくるのならお得です」
「ということだ。くれぐれも会長の期待を裏切るなよ」
「はは~~! ありがたき幸せ~~~」
何かもう光一のキャラが変わっている。横でまた女子軍団がひそひそ話をしていた。
(あれ絶対嘘だよね~~)
七海が最初にたんを切る。
(DVD持ち帰って自分のパソコンの中に入れる気よ。そんでもって毎夜のオカズにするんだわ……)
(わぉ、過激。で、根拠は?)
(根拠も何も今日あった『Pマウス女子更衣室襲撃事件』が雄弁に語ってるじゃない。絶対そうよ!)
「ひどいな富士原さん……。僕はただ……DVD消去装置の実験がしたかっただけなのに……」
突然暗い顔をして光一が七海と魔耶のあいだに顔を突っ込んだ。
「あ、あのその……いや、別に光一くんのこと疑ってるわけでは……そっそう! 可能性! 可能性の話よ! だから気にしないで!」
七海があわてて取り繕う。
「分かってくれたらいいんです……」
そして光一は暗い顔のまま七海たちに背を向ける。位置関係で有彦には光一の顔が見えた。
「―――っ!」
光一の目は爛々と輝き、尋常でない雰囲気をかもし出していた。そして女子軍団に見えないように……。ニヤリ、と性根のひん曲がった悪代官のような笑みを浮かべる。
その顔を見た有彦は一歩引いた。そして彼を正式に『変態』だと認める。
「……重要な脅迫材料はなくなってしまったわけですが、会費のほうはいかほどいただけるでしょうか?」
「そうですね……」
康成の問いにフロリダは一人考えて、なめらかな動作で指を一本立たせた。
(一万円かな? こんな同好会にしては結構もらってるな)
鬼ごっこのとき七海が言っていた「会費が多い」発言はあながち嘘ではないようだ。
フロリダの指を見て、康成ははっきり言った。
「交渉成立です。お金はいつもどおりの手はずでお願いします」
「はい、きっちり十億、口座に入れておきます」
有彦の頭はフリーズした。
一ヶ月の会費が十億なんて、冗談もいいとこだ。
「では、私たちはこれで」
「活動、頑張ってくださいね」
フロリダに見送られて『ひびつね同好会』のメンバーは生徒会室をあとにした。
「どうゆーことだ康成ぃ――――――――っっっ!」
生徒会室を出てすぐに有彦は大声を張り上げた。
「……やはりカルシウムが足りていないようだな、ほら飲め」
康成がどこからともなく朝のヨーグルトを取り出す。
「そのネタはもういいっ!」
そして有彦は押しに押した。
「一ヶ月の会費が十億!? 世界中のサラリーマンに土下座して謝れ! お前はこの不景気経済の中でがんばっている数億人の気持ちを考えたことがあるのか? みんな血と涙と粘液垂らして頑張ってるんだよ! それを……それをお前は……十億だとぉ!? 恥を知れ!」
「何を言っているのか分からんな。俺たちは何もただ十億もらってるんじゃない。それ相応の働きをしてるんだ あれだけの個人情報なら当たり前の報酬だ」
「どこがだ!? さっきから聞いてたら『行ってみたい国はどこか』とか『視力』とかほとんど役に立たない情報ばっかりだったじゃないか!」
「それは違う」
意外にも英志が口を開いた。
「視力は重要だ。特に近眼の場合は狙撃が……」
「黙ってなさい」
七海が静かにささやくと英志は口を閉ざした。有彦は気を取り直して、
「あの個人情報と十億円じゃ釣り合わないだろ! ぼったくりもいいとこだ! 田舎の母ちゃん泣いてるぞ!」
と吼える。
「あいにく今頃母は『ネバー・ヘブンの畔』をプレイしているはずだ。一昨日発売されたばかりの新作ゲームだからいち早くクリアしようと奮闘してるんだろう。そう言えば昨日、『アクアリウス』召喚から精霊王三体を呼び出して全員『追撃』モードにする裏技を見せてもらったよ」
康成の会話の内容が分かったのはメンバーの中で光一と魔耶だけだった。
「お前も持ってたのか『ネバー・ヘブンの畔』。あれって『トリスメギストス』に『白い花』を調合した後『真功殺陣』使うとモーションが変化するって知ってたか?」
「え! 『トリスメギストス』って何!? 私まだ『オリネス』のところで苦戦してるのよ」
…………完全についていけない状態になったので有彦、早苗、七海、英志の四人はなんともいえない虚しさとともに下校した。
早苗は毎週木曜日が塾通いだ。
今日もご希望にもれず(?)木曜日だったので、早苗は高校近くにある『夜鍋塾』に入っていった。『夜鍋塾』には非日常高校の生徒が多く通っている。
今はもうそんな風変わりした塾も終わり、早苗は帰路についていた。時刻は八時二十分、女子高生が一人で歩いていると危ない時間だ(だが、なぜか皆早苗を避けるように通る)。
(魔耶ちゃんもう帰ったかな?)
魔耶の家は非日常高校のすぐ近く、対して早苗の家は駅を二つ過ぎたところだ。当然魔耶はもう帰っているだろうが、時々意味もなくこんなことを考えてしまうのだ。それと今回はもう一人。
(沖田さんはどうだろう?)
早苗は昨日転入してきたばかりの男子の姿を思い浮かべた。彼にそれほど興味があるわけでもないが、たまたま思い浮かんだのだ。自分より前に電車に乗り込んでいる有彦。おそらく一つ前の駅ぐらいから乗っているのだろう。それでも有彦がまっすぐ帰ったのなら、塾帰りの自分よりも先に家についているはずだ。
(結局出歩いてるのは私だけかな)
ほかの同好会メンバーの私生活を知っているわけではないが(特に光一)、それを自然と確信する。
そんなことを考えていると早苗にとって一番の難所が近づいてきた。もっとも人気がなくなる裏路地である。別に遠回りをして行けばこんなところ通らなくて済むのだが、面倒くさい。
(でも、嫌だなぁ……)
不安を胸にしまいこんで早苗は裏路地に進入した。髪を長く垂らしているからといって怖いのは好きじゃない。いつも家で聞いているCDがマ○ケル・ジャクソンの『スリラー』なんってこともない。
ゆっくりと歩き始める。できるならすぐさま走り去ってしまいたいが、うるさくするとある意味幽霊なんかよりもずっと怖い『お兄さんたち』が現れる。ちょうどそれくらいの時刻なのだ。ゆっくりと裏路地を歩く早苗の姿を見て『幽霊だ!』と騒いで半狂乱になった『お兄さんたち』がいたことを早苗は知らない。
カツン…………。
乾いた靴の音がした。その音に反応して早苗は歩みを止める。それから首を機械的に動かしてふり返ってみた。
「…………」
誰もいない。どうやら空耳か……近くを通った人の靴音が聞こえてきたのかもしれない。気を取り直して早苗は前に向き直った。
そこには合羽を着て、木刀を高々と振り上げた男が立っていた。
ガンッ。
早苗の右側頭部に鈍痛が走った。衝撃で道の脇まで吹き飛ばされる。
「あ……」
早苗が小さなうめき声を出した。その直後に早苗の後頭部にさっきと同じような衝撃が走る。
「――――っ」
早苗はまたうめき声を出そうとして踏みとどまった。
(まだ意識があると分かったらまた襲ってくる……死んだふり、死んだふり……)
すぐ近くには人の気配と息づかいが聞こえる。まだこちらのようすをうかがっているようだった。
(早く行って……)
早苗の願いが届いたのか、人の気配はしだいに遠ざかっていった。
「う……」
立ち上がろうとするがうまくいかない。後頭部を触ってみると生ぬるい液体の感触がある。手を目の前に持ってくると案の定、赤いものがべったりとついていた。
自分の後頭部から流れ出た血を見ると、早苗は意識が急激に遠のくのを感じた。そして走馬灯の代わりに、朝見た『スターデイズ』というニュース番組を思い出す。その番組の古株アナウンサーが昨日の晩に起こった事件を話していた(早苗はこのアナウンサーがなかなか好きだった)。
『昨日、非日常区の高校付近で同高校の女子生徒が襲われるという事件が起こりました。襲われた女子生徒は意識不明の重体。警察では通り魔の可能性を……』
ああ、そうか、と早苗は消えゆく意識の中で理解した。
二人目の被害者はどうやら自分になってしまったということを。




