掃除婦シーラの濃すぎる一日②
——カァ、カァ、カァ
カラスの鳴き声がやたらと耳に響く。次いでバサバサと何処かへ飛び立っていく羽音。
(何……? うるさい……)
シーラは暗いまどろみからゆっくりと意識を浮上させた。
朝からカラスが鳴いているなんて珍しい。それにここまで鮮明に聞こえるなんて、部屋の窓を開けっ放しにして寝てしまったのだろうか。
ベッドの上掛けを被り直そうとするが、なかなか見つからない。自分は上掛けがどこかに消えるほど寝相が悪かっただろうか。
(……っ!)
そこまで考えて、シーラは飛び起きた。
そして目に飛び込んできたのは、辺り一面に広がる赤と黄色の落ち葉だった。
「ここ、どこ……?」
寝ぼけていた意識が急速に鮮明になっていく。
シーラがいた場所は自分の部屋どころか、屋内でもなかった。辺りには赤と黄色の色鮮やかな落ち葉と少し寒そうな木しかない。曇った空が黒い枝の額縁から覗いていた。
どうしてこんな所に自分がいるのだろうか。狼狽えていたシーラは自分の手にハタキが握られているのを見て、アッと声をあげた。
「そうだ私、時の石の部屋にいて……」
眩い光に包まれた時のことを思い出す。あの時は何が何だか分からなくて、時の石の元へ踏み出した瞬間、意識が途絶えたのだ。
これは夢なのだろうか、普通に考えてこんなことはあり得ない。だが、手に持っているハタキはあの時確かに持っていたものだった。ついでに頰もつねってみたがすごく痛かった。
「どういうことなの……」
シーラは途方に暮れてしまう。夢ならば覚めてほしい。なんだってハタキを持ったままこんな森の奥に放り出されなければならないのか。
眉はどんどん下がり、視界がぼやけていく。このまま訳の分からないまま森で遭難して死ぬのだろうか。
——カァ、カァ、カァ
絶望の沼に飛び込もうとしたその刹那、もう一度カラスの鳴き声がシーラの耳を突き抜けた。
その声に驚いて飛び上がったシーラは、その拍子にカサカサと自分のポケットから乾いた音が鳴ったことに気がついた。
「これ……」
ポケットを探ってみると、少し割れたクッキーが出てきた。お昼休みに、同僚が落ち込むシーラにくれたものだ。「これでも食べて元気出しな!」そう言った同僚の声が頭の中で蘇る。
震える手で1枚手にとって口に運ぶと、バターの優しい甘さが口に広がった。
ゆっくりと噛んでクッキーを飲み込むと、シーラは震える足を叱咤して立ち上がった。
「お城に帰らなきゃ……」
涙の跡をゴシゴシと拭いて、辺りを見渡す。
ここはどこかは分からないが、こんな所で野垂れ死ぬ分けにはいけない。
地面に落ちてしまったハタキを握り直して、シーラは森の奥へと歩みを進めていった。
◇
赤と黄色に彩られた森の道を進んでいく。
空は鈍色で、木の枝は黒いのに、地面だけは色鮮やかなのが、少し不気味に思えてくる。
(く、熊とか出たらどうしよう……)
城に帰ると腹を括ったものの、シーラは冒険譚の主人公達のように毛の生えた心臓は持ち合わせていなかった。
武器らしい武器も持っておらず、熊に襲われてはひとたまりもない。あるのは先端ににふわふわの毛がついたハタキだけだ。どうせ持ってくるなら、まだ箒の方が武器になったかもしれない。
ビクビクおどおどと周りを見渡しながら、それでもシーラは歩みを進めていく。
空は鈍色だが、ぶ厚い雲の向こうにほんのり赤が差している。夕暮れ時だ。もう直ぐ夜になるという事実も、シーラの歩みを止めない理由の1つとなっていた。
それから10分ほど歩いた所で、シーラはあるものを見つけた。
「……洞窟だ」
小さめの洞窟を見つけたのだ。入り口は狭く、女子供が入るのがやっとというサイズだ。大の男はきっと入らないだろう。
シーラが迷ったのは一瞬で、直ぐにそこに入ることを決めた。暗い森で吹きさらしの中、一晩しのぐよりは、幾分かはマシだと思ったのだ。
入り口の付近の少しぬかるんだ所に注意して、シーラは洞窟の中に入っていった。
洞窟の中は思ったより広かった。入り口が狭いせいで光が弱く薄暗かったが、風は十分に防げそうだ。
壁にもたれかかり、シーラは大きく息を吐いた。
しばらくシーラはぼーっとしていたが、ふと、首筋に何か冷たいものを感じた。
まるで、冷たい、何か金属のようなものがひたりと当てられているような……
そこまで考えて、シーラはヒュッと息を飲んだ。
「動くな」
地を這うような、静かな声が左耳から聞こえる。
刃物を首に当てられている──そう意識した途端、全身の血がサッと引いていくのがシーラには分かった。
「質問に答えろ。お前は誰だ?」
「わっ、わたっ、私は、し、シーラ、めめメッル、」
全身を襲う恐怖に口が戦慄いてしまう。上手く呂律が回らない。それでも、質問には答えなければならないと本能で感じた。
「分かった、シシーラ・メメメッルだな」
「ち、ちが……」
「あ?」
「は、はい……」
正しくは“シーラ・メルディス”なのだが、正すことも恐怖でできなかった。
「お前はここに何しに来た?」
「も、森で迷って、こ、ここで一晩しのごうと……」
「迷っただと? お前何処からきた」
「お、お城です。で、でも気がついたらここにいて……」
とにかく疑われないように必死に質問に答える。
自分の命を他人に握られているというのは、こんなにも恐ろしいことなのだと知る。
「……城か。確かにお前が着ているのは城のお仕着せだな」
「は、はいっ……!お城のそ、掃除婦です……」
シーラは持っていたハタキの柄を胸元で爪が食い込むほど握りしめた。体を強張らせ、目をギュッと瞑る。
このまま殺されてしまうのか。そう覚悟した時、首筋にあった刃物がそっと離れた。恐る恐る首に手を当てると、傷口らしきものはなにも無い。
「いいだろう。見たところお前からは殺気は感じないしな。信じてやる」
「さっ、殺気……」
殺気などという言葉はシーラにはまるで縁のない言葉だ。声の人物は自分を暗殺者が何かと間違えているのだろうか。
そう思いながら、左にいるであろう声の主を見て、シーラは目を丸くした。
声の主は少年であったからだ。顔は暗くてよく見えないが、背丈や体つき、そして恐怖に駆られて先ほどは気がつかなかったが、声も声変わり前の特徴的な少年のソレであった。弟がいるシーラには断言できる。歳も12歳の弟と同じくらいだろうか。
「あ、貴方はどうしてこんな所にいるの……?」
震える声でシーラは尋ねた。
自分がここにいるのもおかしな話だが、これくらいの歳の少年がこんな所に居るのも随分と奇妙な話だ。
「……逃げてきた」
「逃げてきた?」
「誘拐されたんだ」
「……ゆ、誘拐」
「そうだ。まさかお前もその仲間とか……」
不穏な言葉に、シーラは千切れそうなほど首を横に振った。誘拐犯の仲間なんてとんでもない。
「でも、一体どうやって逃げてきたの……?」
「半殺しにして逃げてきた」
「は、はん、殺し……」
シーラはゆっくりと横の物騒な少年から距離を取った。少年も「まあ、そうするだろうな」といった雰囲気で、それに関しては何も言わない。
シーラは再び襲ってきた恐怖と共に激しく既視感を感じていた。「自分を攫った誘拐犯を倒す」なんて、何処かで聞いた話である。
身震いして、シーラは自分の肩を抱く。自分の二の腕をさすって、ふと左側が湿っていることに気がついた。
(何だろう……?)
入り口から漏れる僅かな光に濡れた指をかざして見ると、指先が赤く艶めいていた。
一瞬、何処か怪我でもしているのかと思ったが、直ぐに思い直す。左側の二の腕といえば、先程少年がシーラの首筋に刃物を当てた際、接していた場所だ。
シーラはすぐさま少年に向き直り、取っていた距離を縮めた。
「……貴方、怪我してるの?」
「あ?」
「私の服に血が付いてたから。貴方の血でしょ」
「あー……誘拐犯と戦ったときに出来たやつだな」
「“出来たやつだな”じゃないでしょ。見せなさい」
「あ?」
「いいから見せなさい!」
「なっ、おい……」
突然豹変したシーラの様子に少年は少し戸惑った様子を見せる。
それにも構わずシーラは少年の身体をがっしりと掴むと、光がより当たり、傷口が見えやすい場所にズルズルと引きずり始めた。
「おい! 離せ!」
「どうして貴方たちの年頃の男の子って怪我してること言わないの。ほっといたら酷くなるの分かってるでしょ!」
「はぁ?」
「私の弟も怪我してもこっちが見つけるまで何にも言わなかったの。カッコ悪いからって。そのくせ化膿して酷くなってから泣きついてくるんだから、馬鹿みたい」
あの時の一悶着を思い出して、シーラは眉根を寄せた。もちろん弟への治療は消毒液をふんだんに付けて、思いっきり痛くしてやった。それからは反省したのか、怪我をしたり体調が悪い時には素直にシーラに報告するようになった。
普段は気弱なシーラも、弟には強かった。要は、弟と同じ年頃の少年が怪我を何でもないように扱うのを見て、シーラの「姉スイッチ」が入ってしまったのだ。
明るいところで見ると、傷口は酷かった。雑に巻かれた布が真っ赤に染まっている。
シーラはおもむろに自分のエプロンを裂くと、少年の真っ赤な布とそれを取り替えた。しっかりとキツく巻いて止血する。
少年は諦めたのかシーラがすることにもう何も言ってこなかった。ブツブツと文句を言いながら自分に応急処置を施すシーラを黙って見ている。
「よし、出来た。他にはないの?」
「…………」
「ないの? あるの?」
シーラのあまりの剣幕に気圧されたのか渋々と少年は口を開く。
「……ある」
「どこ?」
「左腕、多分折れてる」
「見せて」
ずいっと突き出されたは左腕は確かに随分と腫れている。
エプロンは先程の処置で使い切ってしまった。もうズタズタで、使えるところは殆どない。
となれば、スカートだ。迷うことなく、シーラは自分のスカートを膝が出るあたりまで裂いた。
「おい……」
驚いたのは少年の方だ。この国の一般常識として、嫁入り前の女性が異性に足を見せるのは、はしたないこととされていた。もちろんシーラは嫁入り前の18歳の年頃の少女であるが、今はそんなこと構ってなどいられなかった。
(布は用意できた。後は添え木ね)
周囲を見回したシーラはあるものに目をつけた。
もちろんハタキである。
熊退治には役には立たないが、添え木には十分すぎる長さと丈夫さだ。
ハタキを添え木にして、それを縛り付けてやる。あとは三角巾で腕を支えてやれば完成である。
支える三角巾をシーラが作っている間に、少年がハタキの先端のふわふわの毛を引きちぎっていたのは見なかったことにした。
◇
治療が終わり、ひと段落ついた頃。
辺りはすっかり夜になっていた。
明るい月の光も洞窟の奥までは届かず、入り口付近以外は洞窟は真っ暗だった。
「…………」
「…………」
洞窟内には沈黙が流れている。
沈黙は普段のシーラならば、気まずさと居心地の悪さでどんどんネガティブになる空気感であったが、今のシーラは疲労でそれどころではなかった。
疲労の原因は分かっている。慣れないことをしまくったからだ。森を彷徨って、殺されかけて、服を裂いて応急処置をした。濃すぎる1日である。
「……お前、」
微睡んでいると左隣から声がかかる。シーラはぼんやりと声の方向を見た。
「……何?」
「お前、変なやつだな」
「はぁ」
眠たいシーラは気の抜けた返事しかできない。瞼が重い。睡魔がじわじわと襲ってくる。
「……まぁ、変なやつだけど、助かった。」
「うん」
「……足見せて大丈夫だったのかよ。」
「うん」
「ふーん……」
少年が何を言っているのかもだんだん分からなくなってきて、シーラはうんうんと相槌を打つことしかできない。
少年はそんなシーラの様子に気づくことはなく、話をぽつりぽつりと続ける。
「……もしお前に相手が見つからなかったら、」
「うん」
「……俺が貰ってやってもいい」
「うん」
「一応、助けて貰ったから」
「うん」
「……お前、寝ぼけてんな」
「うん」
「…………」
一向に変わらない相槌に、漸く少年はシーラの様子に気づいたようだ。試しに頰を軽くつねってやるが、シーラは一向に反応を示さない。どうやら既に夢の中に旅立ってしまった。
少年は軽く呆れたため息を吐いたが、また明日の朝言えばいいかと思い直し、その目を閉じた。
次の日の朝、目を覚ましても右隣には誰もいないことを知らずに。