酒と肴と後輩と
夜の十時。周りはもうすっかり暗くなって、不気味なくらい静かだ。所々に明かりがついている家もあるが、むしろそれが不自然にも思える。まぁ私も明りをつけて一人で酒を飲んでいるのだから、良く言えないのだが。何も考えずに無心で酒を飲むだけ。我ながら虚しいなと毎回思う。今頃世のリア充どもはいちゃいちゃしているのだろう。リア充爆発しろ。
ため息をついて時計を見れば、インターホンが鳴って、私はまた深いため息をついた。こんな時間にインターホンを鳴らすのは常識的に考えて、頭がおかしい行動だ。本当は開けたくない。何故ならこの扉の先にいる人物を知っているから。だがしかし、私は扉を開けてしまう。
「どもっす先輩」
「また来たんですか貴方は……」
この後輩はいつも決まってこの時間に来る。スーツ姿で、ただただ酒を飲むためだけに私の家に来るのだ。会社の飲み会で席が隣で話が弾んだ。それから何回か一緒に飲みに行ったりもした。スーツ姿でいるにもかかわらず、会社では働いている姿を見ることはない。おかしいとは思いつつも中々聞けず、聞く必要はないと自分に言い聞かせ気にしないようにしている。そんな不思議な後輩と家で飲むようになったのは、私のせいだと思う。
ある日仕事でドジを踏んで長々と怒られた。昔から怒られることは得意ではなかった。他人の価値観を押し付けられるだけで時間の無駄と思っていた。だから私は、そうならないように周りの空気を読んで、自分のすべきことをいやいやながらもこなしていた。しかし度重なる激務の疲労には耐えられず、ちょっとした、いやかなり大きな失敗をしたのだ。正直、会社止めたかった。
腹いせに酒でも飲みに行こうかと思ったが、金がなくて私の気持ちは萎えていった。何もかもがめんどくさくなって、トイレ横の長椅子に座っていた。そんなときに、この後輩がしゃしゃり出てきたのだ。
『何をこんな所でうずくまってるんですか先輩?』
『五月蠅い。酒が飲みたい』
『飲めばいいじゃないですか。あ、もしかして一人だから寂しいとか?』
『違う。飲む金がない。奢れよ後輩』
『こういう時だけ上下関係を引っ張り出さないでくださいよ。というか家にあるんじゃないですか?』
『何が?』
『酒っすよ。何なら一緒に飲みます?』
『……頼む』
正直あの時の私はどうかしていたと思う。後輩に酒を奢らせるのはまだしも、家にある酒の存在を忘れ、剰え一緒に飲むことを頼むなんて。頼んだ時のこいつの笑顔が腹立たしかった。それはもう本当に、癪に触る笑顔でいっそのこと殺してやろうかとも思った。以来私たちはこうして毎晩酒を飲んでいるのだ。今もニコニコと美味しそうに酒を私の隣で飲んでいる。その顔があの時とそっくりで、腹が立ったから思いっ切り頬をつねってやった。
「私の横でよくもまぁ、そんな風に酒が飲めますね?」
「痛い痛い。先輩目が怖い痛い!」
少しスッキリして手を離せば、何もしてないのに、と呻き声が聞こえた。酒は楽しんで飲むものだと教えたのは私だから、楽しんで飲んでいる彼は正しい。だがしかし、何となく腹が立ったのだ。これはあれだ、酔っているからという事にしておこう。特に話す話題もなくお互いに静かに酒を飲んでいれば彼がおもむろに口を開いて言った。
「そう言えば俺、高校の時も先輩の後輩だったんですよ?」
「それは驚愕の事実ですね」
「あの頃の先輩も一人で、ナイフみたいに尖ってました」
「中々に物騒な物の例えですね?」
「まぁ事実ですし?」
「つまり何ですか。貴方が言いたいのは、私は高校の頃から変わっていないと?」
「痛い痛い、ギブギブ先輩ギブ!」
全く、先輩に対する態度がなっていない。もっと敬ってほしいものだ。罰として先ほどよりも強く、しかも両頬をつねってやった。誇張でも比喩でもなく彼の頬が赤くなっているのは、自業自得だ。決して私のせいではない。横目でちらと彼を見れば、よっぽど痛かったのか冷たい酒瓶で頬を冷やしている。そんな姿が少し可愛らしくて、思わず笑ってしまった。隣から物言いたげな表情でこちらを見つめる彼に、酒をついでやれば納得いかない様子ではあるが、一気に飲み干した。それから一瞬、悲しそで寂しそうな複雑な表情をして、良くも悪くも空気をぶち壊す。
「さて先輩。僕はいい加減満足できました」
その言葉を聞いた時、私は悟ったのだと思う。もうこれが、最後の晩酌なのだと。きっと明日からこの時間は進まない。今日ここでこの時間に終わりが来るのだ。だから止めろ。それ以上先を言葉にするな。言ってしまえば終わってしまうから。頼むから何も言わないでくれ。
そんな私の心は届くはずもなく、馬鹿な後輩は絶対的な一言を口にする。
〝いい加減、僕は成仏します〟
その時の表情は、いつも以上に腹立たしくてスッキリとした笑顔だった。月明かりに照らされたその表情は、まるで生きている人の如く新鮮だった。
「知ってましたか先輩?僕こう見えてれっきとした幽霊なんですよ?」
……知ってた。最初から全部知ってたよ。昔から腹の立つ笑顔と、気さくすぎるその態度も、意外と人見知りするってことも、交通事故でもうこの世にはいないことも、全部知ってた。だって私の高校からの後輩だもの。知らないはずがない。悟ったとか強がった事を言ったが、やはり駄目だ。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。叫びたい。胸の奥に眠る不快感とともに何もかも全部を吐き出したい。そんな気持ちを僅かな理性で無理やりに抑えつけ、わざとらしくも冷静さを装う。
「貴方が幽霊だってことは、もちろん知ってましたよ?」
「えぇ!?知ってたんですか?何時から?」
「最初から」
「またまた御冗談を……」
「本当ですよ?でも確証があったわけではないんです。もしかしたら私の夢なのかもしれない。疲労が生み出してしまった儚い幻なのかもしれないと思ってました」
実際に、私が彼と話していれば周りの人は私の事を訝しげに見るし、会社では働いている姿が見ず、私の休憩時間にだけヒョコっと現れてはいなくなったりしていたのだ。幻覚と思ってしまっても不思議なことではない。
「ではいつ確信したのかというと、貴方と初めてここで飲んだ時です。あの時、というか今もですが貴方そこの鏡に映ってないんですよ」
そう、今の鏡に映っているのは後輩と私の姿ではなく、大量の空き缶と今にも泣きそうな顔をしている女の人だ。彼は眼を見開き後ろを振り向いて鏡を見た。そして何やら、驚愕の事実でも見つけたかのように私の方に再び視線を戻した。いやいや、お前知らなかったのかよ。幽霊が鏡に映らないのって割と有名な事ではないのか?
「で、でも俺が先輩の思ってる後輩だとは、既にあっているとは限らないじゃないですか」
「何言ってるんですか。貴方がさっき言ったのでしょう?自分は高校からの後輩だって」
「あれが、嘘だとは思わないんですか?こんな訳の分からない奴の言う事が本当だと信じられるはずがありますせん。少なくとも先輩はそうじゃないはずです!」
おいおい、酷い言われようだな。私がそんなにも疑い深い人間だと思っているのかこの後輩は。私だって普通の人間である。そりゃ多少人付き合いや愛想が悪かったりもするけど、それでも中身は普通である。好きな物は何ですかと聞かれて、酒ではなくぬいぐるみと言えるぐらいは普通だ。……この感覚は間違っていないはず。
「信じますよ。だって貴方、高校の頃から全くと言っていいほど変わっていませんからね?一目見て分かりましたよ?うざいぐらいに友好的なその態度も、人見知りなことも、本当に時々気が利いてることも、腹立たしいその笑顔も。それから……」
ここから先はあまり言いたくなし、彼も聞きたくは無いだろう。それでも言っておきたかった。聞かせたかった。今からいう言葉に対してどんな反応を示すのか見てみたかった。冗談半分、真面目さ半分の気持ちで私は、いよいよ確実な証拠を突き付けるのだ。今の気分はさながら探偵のようだ。
「それから、事故で負った右腕の怪我も、全部私の中にある貴方と変わりません」
ばっとシャツの袖を慌ててまくる姿は、滑稽で不謹慎にも笑ってしまった。袖をまくって晒されたその右腕には、上から下まで大きな傷が痛々しく残っている。交通事故、小学生の女の子を庇って轢かれてしまったあの時にできた傷。彼が私の後輩である確かな証拠。私は一時期、彼女のことを恨んだりもした。お前がいなければこんなことにはならなかった。お前のせいで死んだんだ。彼女が悪いわけではないと頭ではわかっているつもりでも、心の方が追い付かなかったのだ。
「そういえば先輩。あのときの小学生どうなったんですか?元気ならもう大人になってたり?」
「ふふっ」
「ちょっと、なに笑ってんですか?」
「いえ、貴方があまりにも貴方らしくて。ふふふっ」
あぁ、やはり昔から何も変わっちゃいない。例え幽霊になっていようが誰かを思いやる心は揺るがないのだろう。だけど私は一度だけ、そんな彼にきつくあたってしまった記憶がある。多分似たようなことだったと思う。自分のことよりも他人を思って行動した彼に私は〝自己犠牲と思いやりは似て非なるものなんだ。貴方のそれはただの有難迷惑で、自己満足にしか過ぎないんです〟と言ったのだ。今思い返せばそうとう酷いことを言っていたのだな。何故ここまで言ってしまったのか、理由はもう知る由もないのだが、あの時の私はよっぽど腹が立ったのだろう。
「貴方が助けた小学生は、あの後病院で検査を受け、特に異常もなく元気にしていますよ」
「そっかそっか。それは良かったです」
「えぇ、あのとき行動は決して間違ってなかったですよ」
「何故でしょう、先輩に褒められると裏がありそうで素直に喜べない……」
「失敬な。私だって心の底から貴方の行動を尊敬してるんですよ?」
二人揃って笑い合えるこの時間は、高校の頃に戻ったような感じだ。何も考えずに、ただただ純粋に生きる事を楽しんでいられたあの頃。今はもう戻ることは出来ない。だけど思い出すことは出来る。その記憶をいつまでも抱えていけたら、それはとても幸せな事だろう。しかし人間は忘れる生き物だ。必要なことと、そうでないことを取捨選択しながら生きていく。今は必要だと思っていることも、もしかしたらあと十年すれば思い出すこともできないだろう。だから私は、思い出したそのときに一秒でも長く浸ることにしている。酒を一人で飲むのはそうした時間を作る為でもあるのだ。
ひとしきり笑い合って、私たちの間にはまた心地よい沈黙が流れている。お互いに何も言わず、このまま静かに飲んでいても良いなと思っていたのに、私は話し出してしまった。どうにかして口を閉じようとしても、私の口は閉じる事はなく、むしろどんどん言葉が溢れてくる。
「私はその、困ったことに嬉しかったんですよ。一人だった私に声をかけてくれて、一緒に酒も飲んでくれて。だって今は給料も入って酒を飲みに行くこともできるし、扉を開けないことも出来たんです」
彼は黙って酔った私の話を聞いてくれている。表情は分からない。こんな話はしてもしなくてもいい。というか絶対に言わないはずだったのに。今になってぽろぽろ溢れてくるなんて、今日の私は相当酔っているな。
「でもね、気がついたら私は貴方と一緒に飲む楽しさを覚えてしまった。貴方と同じ部屋で同じ安い酒を飲むのが本当に楽しいの。だから、お願いだから……」
〝私の前からいなくならないでよ〟
手のひらに零れる涙を私は抑えることが出来ない。よく上を向いて歩けば涙は流れないと言うけれど、実際は上を向く事が出来ないくらい悲しいことがある。上を向けなければもう何も出来ない。隣を見る勇気もなくて、ただひたすらに泣き続けた。こんなに泣いたのは初めてかもしれない。ありがとうという言葉は、私か彼のどちらかのものだろう。でも私は、それがどちらのものなのか分からなかった。
いつの間にか夜が明けていて、私の目の前には開けていない酒があった。彼と一緒に飲んで、慣れ親しんだいつもの酒だった。その横には私の好きな肴と、〝また飲みましょう〟と書かれた紙切れがあった。
「最後までしゃしゃりやがって……」
小鳥の鳴き声が喧しい。そんなことも今日だけは許そうと思えるのは、久しぶりの休日だからだろう。
折角の休日だし、朝から飲むか。一人意気込んで酒に手を伸ばす。〝まだ飲むんですか!?〟と驚きの声が聞こえたのは幻聴ではないと信じたいな。