3『名前』
「いや……別にお前の料理の腕を危惧してるわけじゃないんだ! ほら、その……料理なら俺もできるしさ! そこは大丈夫」
「ふぅ~ん……そんなに私の手料理が食べたくないわけだ」
「いや、そういうことじゃなくて、だな……」
刃は光に料理をさせないように必死に理由を考える。あれをこの幼子に食べさせるわけにはいかない。そして、それをなんとか諦めさせる方法。
必死に考えて考えて、考え抜いた刃の回答は、
「お前の料理は……その……何かの記念日とか! そう! 特別な日に食べるようなものだろ!?」
あまりにも苦しい言い分。それは刃も重々承知の上。しかし、今はこれしかない。
「特別な日に……ですって」
光は俯いていて顔色を伺うことができない。刃の顔を一筋の汗が流れ落ちる。
──や……やばいか?
またさっきのような事になったら生きられないと直感し、窓をぶちやぶってでも逃げる覚悟を固める。
「何よそれ……」
窓に飛び込む準備は万端。2階ならなんとか死にはしないはずと逃げる段取りを考えて、
「いいじゃない!!」
「……へ?」
刃はその場で飛び込む構えのまま固まった。
「特別な日ね、確かに確かに!毎日私の手料理を作ってたら有り難みが無くなるしね!」
「そ……そうだよ! お前の料理はそういうもんなんだって!」
──やった! こいつバカだ!
刃は心の中でガッツポーズ。とりあえず今はそのノリに合わせるしかない。これ以外に、刃と少女が生き残る術はないのだ。
「ナマクラのくせにいい事言うじゃない。そうよね~。わざわざ毎日来て私の手料理をご馳走するなんてねぇ……」
「そうそう! その通りですとも!」
光の料理の危険度は、刃が一番よくわかっていた。
思いだすは、中学の遠足での『蠢くカレー事件』。
その料理を食いきれたのは刃と流斗のみ。中学の遠足で、光の班のカレーだけ何かが中で動いていた。
同じ材料なのに、どうしてここまでできるのかと……当時の彼等を泣かせたものである。
いや、理由はわかっている。光はいつも一工夫を入れたがる、それがいつも仇になるんだ。
「(あの子にあれを食わせたら……確実に……死!)」
絶対にダメだ。それだけは阻止せねばならない。
「そうね。じゃ、料理はそういうことにするわ。残念ねぇ……刃? せっかく私の手料理を毎日食べられるチャンスだったのに」
「そ……そうだな~、アハハハハハ……」
苦笑しかできない。そうだ、下手をすれば少女だけではなく自分の命も危うかったのか、と刃は今になって背筋が凍る。
「じゃ、私は帰るわ。もうすっかり遅くなっちゃったし。まぁ、家近いからあんまり関係ないけど」
確かに、光の家は刃の家の目と鼻の先だ。加えて光の実力的に変質者に襲われたところで返り討ちにできるだろうから、なんの心配もない。
「おう、気をつけて帰れよ」
「……まぁ、わかってたけど、少しくらい送るっていうとかしても……(ブツブツ)」
「……どうした?」
「な、なんでもないわよ!」
何か不満そうだが、これ以上光を居座らせるわけにもいかない。時刻はもう夜の10時近いし、いくら家が近いとはいえこれ以上長居させればこちらの身が危ない。
主に、あの親父さんが乗り込んできた場合は。
「悪かったな、色々と。わざわざ来てくれてさ」
「……言っとくけど、私は毎日来てこの子の面倒を見るからね。さすがにあんた1人には任せられないわ」
「悪かったな」
まぁ、助かる話ではある。正直、自分だけではあまりにも不安が残る。
光は部屋に入って自分のバックを回収すると、キョトンと光を見つめる少女に向き直る。
「じゃ……また明日来るからね。えっとぉ……」
「……」
「……」
「ん? どうした?」
謎の沈黙が生まれた。何が起こったのかと刃も部屋に入ると、光は刃に向き直って尋ねる。
「……ねぇ、この子……名前は?」
「……あっ」
そこで刃達はもう1つの問題に気づく。それは、この子の名前を刃たちは知らないこと。
それはこの先面倒を見る上ではあまりに不便だ。なにか仮にでも名前が必要か。
「ねぇ……この真っ白のワンピース、あんたが着せたわけじゃないわよね?」
そう思ったとき、光がそんなことを聞いてきた。
その少女は現れた時から綺麗な白いワンピースを身に纏っている。
「あぁ。それは最初から着てたんだけど……」
「じゃ……もしかしたら、この服のどこかにこの子の事がわかる『何か』があるかもね!」
そう言うと、光は急火の如き勢いで少女の服を調べ始める。
「お、おい! お前いきなりは──」
「マーッ!」
刃は慌てて止めようとしたが、少女が笑顔でくすぐったそうにしているところを見ると満更でもないようだ。
そして、そのうち光の動きが止まった。
「ん……? どうした」
「なんかあったわ」
光は少女のワンピースの横に付いていたポケットに入れていた手をゆっくり引き抜く。
その手には、茶色の小さく折られた紙が握られていた。
「……なんだ、それ?」
光は無言でその紙を開いて中を見て、刃もそれを覗き込む。
その紙は端がギザギザとなっていて……どうやらもっと大きな紙の"破られた一部"のようなものに見えた。
そこには、縦に英語の『A』と『I』が書いてある。
でもそれぞれ、右側に文章があったような感じを受けるが、そこは破けてわからなかった。
「……何なんだ……これ?」
刃は首を傾げたが、光は対照的にニッと笑って言葉を返す。
「何言ってんのよ! これは私たちが探していたものじゃない! やっとわかったわ!」
刃はその発言に驚きの表情を隠せない。一体この紙切れだけで何がわかったのだろうか。
「は……? お前、これで何がわかったんだよ?」
「ふふっ……それはね、この紙に書いてあるのは……」
次の瞬間、光は鼻息荒く胸を張り、自信満々に言い放った。
「この子の名前よ!!」
「……………………は?」
その発言に刃は目を点にするが、そんな刃などお構いなしに光は続ける。
「なんでわからないのよ? こんなに堂々と『A』と『I』って書いてあるじゃない。この子の名前は……『アイ』よ!」
光はまるで「犯人はおまえだ!」と言わんばかりに少女を指差し、高らかに言い放つ。
しかし、その推理はあまりに単純すぎやしないだろうか。それにこの紙にも疑問に残ることが多々ある。
「いや……これどう見てもそれぞれの右側に文字があったような痕跡が──」
「さぁ『アイ』! あなたは『アイ』なんでしょ!?」
もう刃の言葉など光の耳には入っていない。
光はキョトンとしたままの少女の肩を掴み、ユサユサ揺らして問いかける。
「お、おい、いい加減にしろよ。そんなわけないじゃ──」
「ないか」と言い終わる前に、少女は満面の笑みを浮かべ、元気に手をあげて応えた。
「アイ!」
「「!!?」」
喋った。『パパとママ以外の言葉』を。それも、その言葉に応えるように。
「や、やっぱり! あなたの名前は『アイ』なのね!」
「アーイ!」
少女は依然として元気に手をあげて応えた。そんな馬鹿な……。
「でも……『アイ』だけじゃ、漢字や苗字はわからないわね」
と、光は何かを思いついた顔をし、徐に刃の机の上にあったノートに何かを書き始めた。
「今度は何してんだ、光?」
「ふっふっふーん! じゃーん!」
刃が問うと、光は今書いたページを開いて見せる。
「この子は今日、今から……『火野藍』と命名します!」
そのノートにはデカデカと『火野藍』と書いてあった。
「お前、勝手に……」
「だってこうでもしないといろいろ不便でしょ? じゃあ改めて……また来るからね、藍!」
「アイ!」
少女改め、『火野藍』は光の問いに右手を挙げて元気に答えた。
こういうのは名前をつけたら愛着がわいて別れの時に辛くなるとどこかの話で聞いたことがある。光もそのパターンにならないといいのだが。刃がそんな心配をしたとき。
「あっそうだ、ねぇ刃」
「なんだ、まだなんかあんのか?」
「わかってると思うけど……この子のことは他の誰にも話しちゃダメよ。誰にもよ!」
「わかってるよ……それくらい」
言ったって信じてもらえないだろうし、心配することもないだろう。
もし知られても親戚の子だと通せばいい。きっとどうにでもできる。……多分。
「いい? これは私たちだけの……“秘密”だからね」
「あ……あぁ……」
“私たちだけの秘密”というワードに少しドキッとした自分に、すぐに心の中で喝を入れる。
光は『藍』を泣かせないよう念を押し、自分の家へと帰っていった。
「……私たちだけの秘密……か」
思わず光の言葉を反芻してしまう。正確には『刃と光、そして翔矢や流斗との秘密』なのだが、それでも特別に感じてしまう。
刃は光を藍と共に見送った後、リビングに座り込んだ。藍はそんな刃を怪訝そうに見つめる。
「……はぁ。全く今日はお前のせいで大変だったぞ……」
「アイッ!」
元気に挙手して応える藍。さっきからえらく上機嫌だ。対して刃はこれから起こり得る多くの不安を思い見て深いため息。
「まぁ、いいや。早く風呂入って寝るとするか……」
そうとも。今はとにかく気分をリフレッシュして向かうことが大事だ。そう思って上を1枚脱いだタイミングで、
「……あ」
刃はその瞬間、気づいてしまった。その“真っ先に解決すべき事実”に。
それは今一番、自分が藍と同居するに当たって解決すべき問題点。
「……そういや……こいつ!」
慌てて刃は藍を腕に抱き抱え、光を追い掛けた。
今の刃に出来なくて、光に出来ることがある。
「待て光ぃ! こいつを……藍を"風呂へ入れて"やってくれぇ! 俺じゃ……わからないんだぁぁあっ!」
外はすっかり暗くなり、明るく輝く星と明る過ぎる街灯。そして真っ暗な漆黒の闇の三色に染まっていた今日という日。
この日……刃には『火野藍』という新しい家族ができた。
でも、それが刃の人生を大きく変えてしまうとは、この頃には全く想像もつかなかったのだ。
今のその世界には、少女の無邪気な笑い声と、上半身を出して追いかけてくる男への叫び声とビンタの音だけがこだましていた。




