さくら
薄く霞んだ空は花曇り。
遠くから風に流されて来た、雪か月か、花びらが一枚、くるくると袖の上に落ちた。
もたげた腕の、白布の上に薄紅の。襲ねの色目もまた桜。幼い、まだ着物も一人で着れなかった頃におじいちゃんが初めて着せてくれた、その時と今も同じ。桜の咲き誇った、お花見の日にはいつも、白と赤の薄布の、流れるような小袖の布の波間に、花びらは沈む。
でも、優しかったおじいちゃんはもういない。
いつもおじいちゃんと一緒に見た、庭の大きな桜も、おじいちゃんが亡くなった年から、白く立ち枯れてしまった。
花びらが流れてきたのは、お屋敷の門から続く桜並木の方から。
春になると、うちは庭を開放して近所の人をお花見に招き入れるのだった。
おじいちゃんが始めた習慣は今も続いていて、今日も桜並木は賑やかに、舞い上がる笑い声は花吹雪かと、降り注ぐ。
おじいちゃんがいた頃は、この大きな桜が一番見事で、この桜の回りに人が居た。
私は引っ込み思案で、いつもおじいちゃんの裾にしがみついて、お花見の人達の間に揺られていた。
今はこの桜の枯れ木が隠れる裾か、一人、白枝の影からお花見の風景を見やる。引っ込み思案は変わらず、おじいちゃんのいた頃が懐かしくて、お花見の中に混じれなかった。
遠くから一人眺める祭り囃子は、綺麗で、寂しかった。
ため息をついて、縁側に体を横たえる。ひんやりとした木の感触に、また花びらが一枚、二枚。指に、髪に絡む。
その一枚を唇にあてて、
「私がどんなに寂しくても、桜は綺麗に咲くのだものね。ひどいな……」
呟き一つ、春の陽気に眠気がうすぼんやりと、いつの間にか微睡んでいた。
「娘さん、風邪をひくぞ」
声に、跳ね起きた。
気づかないうちに夕日まで落ちきり、あたりは月の光に明るい。
見事なおぼろ月夜。暖かく白い光が、雪のように降り積もった上に、いや、雪は月光か、花びらか。
これは夢、そう思った。白い枝を張るばかりだった桜の木が、今や満開の、一面に、花びらを敷き詰めて。
その、桜の海の中に、ぽつりと人が立っていた。
小柄で細い影に、でも背筋はぴんと伸びて、月の光故か真白に長い髪とひげ。顔には、能の舞手みたいな、いや、そのものの翁面をつけて。
これは夢。
薄ぼんやりと目をこすった私に、からからとその人は笑った。
「月明かりの桜もまた風流なり。雪月花とはよう言った。じゃが、娘さん、桜は何もひどくなどないぞ」
独り言の呟きを咎められて、私はびくりとした。
「……だけど、私が寂しかろうと、楽しかったとしても、きっと桜は変わらないんだろうと思って、なんだかそれが悲しくて……」
「寂しいも悲しいも。楽しいも、人の心の有様。ひどいのは人の心で、桜じゃありゃせん」
また、からからと笑う。
「のう、だから折角桜を見るなら、懐かしい人を思って悲しんでばかりも仕方ないと思うんじゃがのう。こんな枯れ木の桜ばかり見ているのも、またつまらなかろうて」
見上げた、笑顔を崩さない翁面。
「娘さんは桜は好きなんじゃな」
「好きだよ。綺麗で、優しい色で、儚くてどこか寂しくて。おじいちゃんの色んなこと、思い出せるから」
「これは孝行な娘さんじゃて。じゃが枯れ木の桜を一人で見て、思い浮かぶはきっと寂しい思い出ばかりじゃ。楽しい思い出は楽しく賑やかに、もっと美しい桜を見てこそ、思い出されよう。老婆心ながら、この老体が、この世の名物と呼ばれる桜を、教えて進ぜよう。いや、老爺心と言うべきかな」
からからと、花びらの舞うように笑って、膝を一打ち。翁面の人は、どこからか扇を取り出すと、満月に翳して、良く通る声で謡った。
-九重に咲けども花の八重桜。
幾代の春を重ぬらん。
然るに花の名高きは。
まづ初花を急ぐなる。近衛殿の糸桜。
見渡せば。柳桜をこき交ぜて。都は春の錦。燦爛たり。
千本の桜を植ゑ置き其色を。所の名に見する。千本の花盛。
雲路や雪に残るらん。毘沙門堂の花盛。
四王天の栄花もこれにはいかで勝るべき。
上なる黒谷。下河原。
むかし遍昭僧正の。 浮世を厭ひし花頂山。
鷲の御山の花の色。枯れにし。鶴の林まで思ひ知られてあはれなり。
清水寺の地主の花松吹く風の音羽山。こゝはまた嵐山。
戸無瀬に落つる。滝つ波までも。花は大井河。ゐせきに。雪やかゝるらん。
ざっと、風に、吹雪の如く花びらが一斉に舞い上がる。
花の滝に雲隠れて、その人は、一つ礼して、手をかけた翁面の向こうに、かすかに覗いた、また、翁顔。
「のう、わしは桜を見て笑うお前の顔が、どんな花よりも好きじゃったよ」
また、跳ね起きた。
「……おじいちゃ……」
眦に、涙の跡。
桜の袖でぬぐって、見上げた、まだおぼろ月夜。
まん丸の月を背に白く張られた枯れ枝の、
地面には、一面の雪か、月明かりか、花びらが。