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けれども、楽しみにばかりしていられなかった。
準備も滞り無く進み、思ったよりも順調なことを、密かに私が不気味に思っていたころ、その人は現れた。
「いらっしゃいませ」
ドアの開閉音に、反射的に言葉をかけてから、ドアの方を見る。綺麗に着飾った、上品そうな女性がそこにはいた。同い年か、すこし上に見える。
Insulo de Triではあまり見ない格好の女性。手作りアクセサリーではなく、高い宝石を上品に身につけていそうなタイプだ。
彼女はつかつかと迷うことなく、レジにいる私のところにまで来ると、
「貴女が、三島優美子さん?」
「はい、そうですが……?」
どうやら彼女は、店にではなく私自身に用があるらしい。鋭い視線で睨まれるような気がして、身をすくめながら頷く。
そうですか、と彼女は頷いてから、
「峯岸幸子です」
端的に名乗った。
……峯岸?
「もしかして、峯岸の」
と言いかけて、慌てて呼び捨てから軌道修正する。
「梨々香さんのご家族の方ですか?」
「ええ」
彼女は頷く。じゃあ、最初からそう名乗って欲しい。と思っていると、
「一応は」
不穏な一言を付け足される。一応?
「一応、母親です」
「……え?」
思わず変な声がでた。きっちりとした洋服に身を包んだ彼女は、峯岸の母親というには若過ぎる気がした。えっと、だって、峯岸が二十歳でしょ? 十六の時の子どもだとしても、三十六? さすがにそこまで年がいっているとは思えないけど…;。
と、思っているのが顔にでたのか、彼女は一つ頷いてから、
「後妻です。血のつながりはありません」
はきはきとした口調でそう答えた。
ああ、そうなんだ……。
なんとなく気まずい空気を覚えながらも、空いているテーブルを勧める。
「……あ、それじゃあ、もしかして、伯母と仲がよかったというのは?」
「彼女の実母の方ですね」
「失礼ですが、その方は……?」
「亡くなりました。八年程前ですね」
「……そうなんですか」
それじゃあ、最初峯岸の話にでてきた、進路を反対する母親というのは実母ではなく、この人の方だったのか。
「貴女の伯母様には、生前彼女が世話になっていたようで感謝しています。母親代わりになっていただいて」
「……はあ」
なるほど。どうして伯母がそこまでして峯岸を二階に置いていたのかが疑問だったが、亡き友人の娘の身を案じていたからか。別にこの人が悪い人だとは思わないけれども、姉妹程度にしか年が離れていない後妻と一緒に住むのは大変だろう。峯岸、あの性格だし。
「あ、すいません、それで今日は……? 梨々香さんなら、バイトだと思いますけども……」
「知っています。いないことを確認してから来ました」
つんっとすまして言われる。
「貴女から、彼女に伝えておいてください」
この人は、頑に峯岸の名前を呼ばない。
そして、淡々と、彼女は言った。
「貴女のお父様がどうおっしゃるかわかりませんが、私は貴女と一緒に暮らすつもりはありません。お父様に連れ戻されないよう、せいぜい実績を作ってがんばってください、と」
お客様がいなかったのをいいことに、少し早めに店を閉めると、外階段にこしかけて、峯岸が帰ってくるのを待った。
「あれー、三島ぁ?」
しゃーっと自転車を漕いで、峯岸が帰ってくる。
「どうしたの、そんなところでー?」
かちゃかちゃと自転車を止めながら、峯岸が続ける。
「峯岸を待ってたの」
「……は?」
変な顔をする峯岸。
「昼間、峯岸幸子さんがいらっしゃった」
その顔が、くしゃりと歪んだ。怒りとも悲しみともとれる顔だった。
「あのババア、なんだって?」
「一緒に暮らすつもりはない、連れ戻されないようにがんばれって」
「……うざっ」
言われなくても、あんたのいる家になんか帰るかよ、と峯岸が毒づく。
「……峯岸」
座ったまま、目の前に立つ峯岸と視線を合わせる。
「バイト先、潰れるって本当?」
峯岸は一瞬、驚いたような顔をして、
「それも、あのババアが言ってた?」
悲しそうに肩をすくめた。
ああ、やっぱり。本当なんだ。
外ではなんだから、と私の家に入る。
峯岸幸子は、別になんの意味もなく、ふらっときたわけではなかった。峯岸のバイト先が閉店するという話を聞いて、危機感を抱いてやってきたのだ。峯岸が、お金がなくなって戻って来るのではないかと。
普段、電車を使わないから、駅ナカにある峯岸のバイト先の現状なんて知らなかった。
「だからね、結局あの店長がダメダメだからいけないの」
私が出した紅茶を飲みながら、峯岸が嫌そうに話はじめる。
パンの発注をミスして、ロスばっかりだす店長。
「もともと、あの駅改修工事の予定があるから、二年後には閉店しなきゃいけなかったんだけど。あんまりにも、売り上げが悪いから、早期撤退っていうことになっちゃったわけ」
「いつまで?」
「年内」
まだまだ時間あるといえばあるし、ないといえばない。
「確かに、親父殿からメールは来てたんだ。バイト先潰れるなら一回戻って来ないかって。絶対にお断りだって返したけど、やっていけるのか、って返って来た」
それから峯岸に貯金は、絶対にない。
「峯岸幸子によると、峯岸が次のバイト先見つけるなり、絵の仕事見つけるなり、なんらかの結果を示さないと、お父様は峯岸を無理にでも連れ帰るってよ?」
「……するわねー、あの親父殿は」
はぁ、と一つ溜息。
「ばれちゃったから言うけどさ、別にあたし、絵が反対されたからってだけで家を出たわけじゃないの。そりゃあ、それも大きいけど。それよりも、あの自分の娘と五つしか変わらない女と再婚して、あまつさえその女と娘を同居させようとする、親父殿の無神経さに切れたわけよ」
そりゃあ、切れるわ。
「再婚するなとは言わないけどさ、もうちょい考えろと思うわよね」
「……それは、あのひとの方も思ってるみたいだった」
「でしょうね。あたし、あの女のこと嫌いだけど、可哀想だと思ってるんだわ。いきなり、五歳しか変わらない娘の、一応母親になって、旦那は娘のことばっかり気にしててって、最悪じゃない?」
親父殿はしょうもないのよ、と続ける。呆れているけれども、父親のことは嫌いではないみたいだった。ただただ、本当に呆れて、嫌気がさしているのだろ。
「次のバイト先探したりしてるの?」
「んー。……デザフェス終わってからでいいかなーって」
「……大丈夫なの、それで?」
終わったら十一月だ。年内閉店なら、一カ月しかない。
「別に、なんでもいいし」
「早く起きられないのに?」
「……うん、まあそれは」
「人見知りするのに?」
「……それは、そうだけど」
「電話一つかけるのも、面接だって嫌なのに?」
「……うん、そうなんだけどさ」
言って、峯岸は両手で顔を覆ってしまった。
「……そうなんだけど、なんでもいいっていいながら、出来ること限られているのはさぁ」
ああ、自分でもわかっているのか。
「だけど、とりあえず、今はせっかくだからイベントに集中したい。……駄目かな?」
顔をあげて、上目遣いで問いかけてくる。
「駄目っていうか……。それは峯岸の問題だけど」
なんていうか少し悩んでから、
「心配は、してる」
一番適切な言葉を投げかけた。
早くバイト先を探せと叱咤しているわけではなくて、それで大丈夫なのか、と心配しているのだ。
峯岸は、私の言葉が意外だったのか少し驚いた顔をした。それから、
「ん、ありがと」
なんだか照れたように頷いた。
「三島には迷惑かけないよ」
「そうは言うけど……。なんだったら、お家賃待ってもいいからね?」
タダにはしないけど。
「えっ!?」
峯岸が大声をあげる。
「三島がそういうこというなんて! 公私の区別はしっかりつける、お堅い人なのにっ!?」
「……私のことなんだと思ってるわけ?」
否定はしないけど。
「だってほら、家賃は店とは関係ないし」
私が公私の線引きをしっかりしようと思っているのは、Insulo de Triのことだ。あれは、他の作家さんやお客さんの手前、峯岸や美作さんだからって特別扱いしないように気をつけている。……ちょっとしているけど。
だけど、家賃は私と、峯岸との問題だ。第三者に口を挟まれる筋合いのものではない。
ああ、美作さんは同じ条件だから、美作さんに文句言われるのならば仕方ない。峯岸を特別扱いされていると、美作さんに言われたら考えよう。だけど、美作さんはそんなこというひとではないし、もし美作さんがなんらかの事情で収入が厳しいのならば、私は同じように提案しただろう。
なぜならば、
「私達、友達じゃない?」
言ってから、もし峯岸がそう思ってなかったらどうしよう、ということに思いついた。なに、勝手に友達扱いしてんのよ! とか言われるかも。
恐る恐る峯岸の顔を見る。峯岸はなんだか、怒ったような無表情だった。ああ、やばい、やてしまったかもしれない。
「……とも、だち?」
初めて聞いた言葉かのように、峯岸が復唱する。無表情で。怖い。
「あ、あの、峯岸」
とりあえずなんか言おうと慌てて口を開くも、
「……峯岸?」
沸騰したやかんのように、急速に赤くなった峯岸の顔に、正直びびって言葉を見失った。え、なに。
峯岸は両手で頬を押さえると、
「三島っ!」
怒鳴りつけてきた。
「は、はい!」
「照れるじゃないの! なんで真顔でそういうこというのっ!」
きゃんきゃんと、怒鳴りつけてくる。
「え、ごめんなさ……」
ん? 照れる?
「え、照れてんの?」
「なんで確認するのっ!」
赤い顔の峯岸が噛み付くように吠える。けど、怖くない。
「ふふっ……」
「何笑ってんのっ!」
だって、なんだか可愛い。何もそんなに赤くなることないのに。
「あーもーやだ、本当やだっ!」
言うと峯岸は立ち上がった。
「とにかく、とりあえずデザフェス集中するから! あとのことはそれから考えるから! あと、来ないだろうけど、あのババアは二度とあげなくていいから! 三島には迷惑かけないから!」
人差し指をつきつけて、ぽんぽん言ってくる言葉を、
「はいはい、わかりました」
微笑んで流すと、峯岸が悔しそうな顔をした。たまには、こういう峯岸を見るのもいいかも。
「帰る!」
言って峯岸が玄関に向かうから、見送るために立ち上がる。隣だけど。
「……あと、美作がなんか言って来たら、三島から説明しといて」
靴を履きながら峯岸が言う。
「店に閉店のお知らせが出てるのは事実だから、美作もそのうち気づくだろうし。あいつ、絶対あたしには聞かないで、三島に先に聞くでしょう?」
気の使い方にうんざりするけど、とこっちを振り返る。
「ああ、そうなりそうね」
よくわかっているのね? と皮肉りたくなる気持ちを抑える。どんなときだって、私は意地が悪い。
「三島が説明してもいいな、って思うとこだけ説明しといてくれればいいから」
ドアを開けて、廊下にでる。
「それでいいの?」
鞄から鍵を出して、隣の部屋のドアをあけている峯岸に尋ねると、
「うん、三島のことは信頼している」
いつかの、美作さんを住まわせるかどうか確認とったときのようなことを言われる。
ああ、最初あったとき、どこかの珍獣みたいな警戒心の持ち主だった子が、信頼しているなんて、言ってくれるなんて。
ちょっと感慨に浸っていると、
「だってね」
ドアノブに手をかけ、少しドアを開けながら、ちょっと考えるような間を置いて、峯岸は続けた。妙に早口で。
「友達だから」
言ってから、また急に真っ赤になって、
「じゃあ、おやすみ!」
ばんっと勢い良くドアをしめて、姿を消した。
唐突な展開に驚いている間に、峯岸の姿は消えた。
事態を理解すると、笑いがこみあげてきた。ああもう、仕方のない子。
最初会ったときは、どうしようかと思ったけど、そういう峯岸の不器用なところ、嫌いじゃない。
「うん、おやすみ、峯岸」
笑い混じりにそう、隣の部屋に声をかけると、私もドアを閉めた。