蝉の声
ちょっと方言が……
……蝉の声が消えた。
「ばーちゃーん!」
「はーい、はいはい。なんね」
「蝉が消えたー」
そういうと、わざわざ家の中に戻ってきたばあちゃんは、天井を見上げた。
あたしは、夏休みの宿題に追われていた。
漢字がいっぱい詰まったプリントの束。
それをぎゅっと握った鉛筆で、空いた空白を埋めていく。
ばあちゃんちは、おえんがあって、砂利を敷いた小さな庭があって、畳8枚分の座敷がふたつ、ふすまを隔ててある。
夏休みは、仕事で忙しいお母さんとお父さんの代わりに、ばあちゃんと遊んでもらう。
クーラーが一つの部屋にしかついていない古い家だけど、なんとなーく落ち着く雰囲気があたしは大好きだった。
「あー、そうだね、聞こえんね」
「どうしたのかな」
夏空は高く高く伸びるように青いくせに、蝉の声が聞こえないのは変な感じがした。
ばあちゃんちは、小さな庭に渋柿の木を植えているし、小さいながらも花壇がある。
裏の道を少し歩けば、立派なイチョウやクスノキが立つおんぼろのお宮がある。
ばあちゃんちはいつもいつもいろんな蝉の声が、あっちからこっちから聞こえてくるのに、蝉の声が消えた今、音だけが冬の世界で凍りついてしまったように静かだ。
風はずっと前に凪いでしまってる。
「ばあちゃん……」
不安になって、ばあちゃんが着ている大柄の花のエプロンの端を握った。
「大丈夫。夕暮れが近いんだよ。もうすぐ蝉も鳴き始める」
汗がうっすらと滲んで、髪が張り付いてしまっている額をばあちゃんが撫でた。
「夕暮れって。夕方になると蝉は鳴きやむの?」
「蝉は日の終わりを知ってるんだよ」
「なんで?」
「外に出たら、後は死ぬばっかしだけんね。ほら鳴き始めた」
「あ、ほんとだ」
じんじん、みぃみぃ、じじじじじ……。
握っていたエプロンを放すと、皺になっていた。
それに気付かないふりをして、おえんに出て庭の青く茂っている渋柿の木を見た。
小さな庭に収まりきれない蝉の声が、家の中まで侵入してくる。
いつもの音に、ほっと胸を撫で下ろした。
「蝉が日の終わりがわかるように、ばあちゃんもなんとなぁく、日の終わりがわかるようになったんだよ」
「ばあちゃんが?」
「そう。あとちょっとしか生きられんからかも知れんね。家の中で寝てても夕方になる前に必ず起きるようになったけん」
もう、年だけんね。
そう言うばあちゃんを見上げても、頬と目尻の皺のせいで瞳を見ることができなかった。
ばあちゃんは去年、じいちゃんを亡くした。
悲しいんだろうか、寂しいんだろうか。
そう聞いたことはないけど、じいちゃんが死んだ時、ばあちゃんは泣いてなかった。
「さ、宿題が終わったらスイカば食べようか。氷水につけとったけん、よう冷えとるよ」
「うん!」
ばあちゃんが死んだのは、夏の終わり。
蝉も死ぬ季節の事だった。
突然の訃報。
蝉の命は七年と七日。
ばあちゃんは、土から出た蝉みたいにあっけなく死んだ。
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