あくまのこ
むかし、森のそばの小さな村に、ひとりの女の子が住んでいました。
女の子は、森へ行くのが好きでした。
村のまわりには、深い森がありました。村の人たちは、森の奥まで入ってはいけないと言っていました。大きなけものがいるからです。
ある日の昼すぎ、女の子は森の中で木苺を探していました。赤い実のなっている枝を見つけて、もう少しだけ奥へ、もう少しだけ向こうへと歩いていきました。
すると、木々のあいだに、黒いものがありました。
はじめは、大きな岩だと思いました。けれど岩には耳がありません。黒いものには、とがった耳が二つありました。それから、長い鼻がありました。黒い毛におおわれた、大きなけものでした。
けものは、女の子よりずっと大きく、村の荷車よりも大きそうでした。脚は六本ありました。頭からは、古い木の枝のような角が、何本も伸びていました。
けものも女の子を見ていました。
女の子は、そっと手を振りました。
「こんにちは」
けものは答えませんでした。
女の子は、木苺の入ったかごを持ち直しました。
「わたし、もう帰るね」
けものは、やはり答えませんでした。
*
次の日、女の子は、また森へ行きました。
昨日より少しだけ大きなかごを持っていきました。中には、朝のパンを半分と、りんごを一つ入れてありました。
けものは、昨日と同じ場所にいました。
「またいた」
女の子が言うと、けものは片方の耳を動かしました。
女の子は、少し離れたところに座りました。パンをちぎって食べました。
けものが前脚を動かすと、枯れ枝がぱきんと折れました。
女の子の手が一度だけ止まりました。
「りんご、食べる?」
女の子は、かごからりんごを取り出し、けものの前に置きました。
けものは長い鼻先を近づけ、りんごのにおいを嗅ぎました。けれど食べませんでした。鼻先で、そっと女の子のほうへ押し戻しました。
「いらないの?」
女の子は笑いました。
すると、けものの角のいちばん下に、小さな白い花が一輪咲きました。
「花が咲いた!」
女の子は、もっと近くへ行きました。けものは逃げませんでした。女の子は、そっと手を伸ばしました。指が黒い毛にふれました。
毛は、思っていたよりずっと柔らかく、あたたかいものでした。
*
それから女の子は、毎日のように森へ通いました。
晴れの日も、曇りの日も、少しくらい雨が降っている日も、女の子は森へ行きました。
けものは、いつも森のどこかで待っていました。女の子が呼ぶと、とがった耳を立て、木々の向こうから出てきました。
けものは身体を低くして、女の子が乗りやすいようにしました。女の子が背中に乗って毛をつかむと、六本の脚で走り出しました。
川を飛びこえました。丘を登りました。木苺の茂みを見つけると、けものはその前で止まりました。
雨の日には、けものは大きな身体をかがめました。女の子は、その下に入って雨をよけました。黒い毛の屋根から、雨のしずくがぽたぽた落ちました。
「おうちみたい」
女の子が言うと、けものの角に花が咲きました。
疲れた日には、女の子はけものの大きなしっぽに包まれて眠りました。しっぽは女の子の毛布よりずっと大きく、あたたかいものでした。
女の子が眠っているあいだ、けものはずっとそばにいました。
女の子が笑うたび、けものの角には花が増えました。女の子は、角に咲く花を数えるのが好きでした。
ふたりは、とても仲良しになりました。
*
けれど、あるころから、けものの様子が少し変わりました。
女の子が森へ来ると、けものはまず、女の子の髪のにおいを嗅ぐようになりました。次に服を嗅ぎました。手も、腕も、鼻先でたしかめました。
「くすぐったいよ」
女の子は笑いました。
けものは、長い鼻先を女の子の手の甲につけていました。
夕方になると、けものは前より早く、村のほうを見るようになりました。
女の子が帰ろうとすると、細い道の前に立つこともありました。
「どいて。暗くなる前に帰らないと、しかられるよ」
けものは動きませんでした。
「どうしたの?」
けものは、女の子を見ました。それから、村のほうを見ました。
女の子には、何のことだかわかりませんでした。
「また明日ね」
女の子が言うと、けものはようやく道をあけました。
女の子が見えなくなってからも、けものは村へ続く道を見ていました。
*
その夜、月が出ていました。
明るい夜でした。
女の子は、ふと目を覚ましました。窓の外が白く光っていたからです。
床には、倒れた椅子がありました。床の上で、割れた食器が月の光で白く輝いていました。
窓の向こうに、けものが立っていました。
大きな角には、これまででいちばんたくさんの花が咲いていました。
女の子は、急いで外へ出ました。
「どうしたの?」
けものは答えませんでした。
けものが鼻先を女の子の頬につけると、女の子は少しだけ身を引きました。
「そこ、いたいよ」
けものは鼻先を離しました。
けものは女の子の前で背中を向けました。数歩だけ歩き、振り返りました。
女の子は、けものの背中に乗りました。
「朝までに帰れる?」
けものは何も答えませんでした。
六本の脚が、静かに歩きはじめました。庭を出ると、けものは走りました。
月の下を、森へ向かって走りました。
走るたび、角の花がこぼれました。白い花も、黄色い花も、青い花も、夜の道に落ちていきました。
女の子は、後ろへ飛んでいく花を見ていました。
「お花、いっぱい咲いてるね」
けものは、もっと速く走りました。
*
次の朝、村人が狩人を呼びに来ました。
狩人は、何日か前から村に滞在していました。村の人たちに、森のけものを倒してほしいと頼まれていたのです。
村人は、女の子がいなくなったと言いました。狩人が連れられて行くと、家の前にはたくさんの花が落ちていました。
狩人は花を一つ拾いました。花は、村の外へ、森のほうへ続いていました。
狩人は弓を持ち、花のあとを追いました。
*
そのころ、女の子はけものの背中に乗っていました。
夜が明けても、けものは走りつづけました。森の深いところへ、深いところへと進みました。
やがて、けものは小川のそばで止まりました。女の子を背中から下ろすと、水のきれいなところへ鼻先を向けました。
女の子が水を飲んでいると、けものはまた、女の子の髪と服のにおいを嗅ぎました。
「心配なの?」
女の子が聞きました。
けものは答えませんでした。ただ、女の子の肩に鼻先をふれました。
女の子が小川のそばで休んでいるうちに、狩人が追いつきました。
けもののそばに、女の子がいました。女の子の腕や顔には、いくつも傷がありました。
狩人が弓を持って木々のあいだから出てくると、けものは女の子の前に立ちました。
「もう大丈夫だ」
狩人は女の子に言いました。
「こっちへ来なさい」
女の子は、けものの毛をつかみました。
「ちがうよ」
狩人には、その言葉の意味がわかりませんでした。
「心配しなくていい。助けに来たんだ」
狩人が一歩近づくと、けものは低く唸りました。女の子は、その後ろにいました。
狩人が弓を構えると、けものは地面を蹴って飛びかかりました。狩人は受け止めようとしましたが、大きな前脚に押し倒されてしまいました。
けものは、それ以上追いませんでした。女の子のところへ戻り、身体を低くしました。女の子は黒い毛をつかんで背中に乗りました。
狩人が起き上がったときには、けものはもう走り出していました。
狩人は片膝をつき、矢をつがえました。女の子の身体から離れた、けもののわき腹をねらいました。
一本の矢が刺さりました。けものの身体が大きく揺れ、女の子は毛にしがみつきました。それでも、六本の脚は止まりませんでした。
狩人も追いかけましたが、けものは木々の向こうへ遠ざかっていきました。
やがて足音も聞こえなくなりました。女の子が振り返っても、狩人の姿はどこにもありませんでした。
「逃げられたね」
けものは川を渡り、もう一つ丘を越えました。
けれど、しばらくすると走る速さが落ちました。
「疲れたの?」
けものは答えませんでした。
矢には、ゆっくりと効く毒が塗られていたのです。
六本の脚が、何度ももつれました。女の子は背中から下り、けものの横を歩きました。
やがて、けものは歩けなくなりました。そして、地面に倒れました。
女の子は、急いで頭のそばへ行きました。
けものの身体には、矢が刺さっていました。
「これ、痛い?」
女の子は矢を抜こうとしました。でも、矢はびくともしませんでした。
女の子は矢から手を離し、黒い毛を何度もなでました。けものの胸は、ゆっくりと上下していました。
角に咲いていた花が、一つ落ちました。
次の花も落ちました。
白い花も、黄色い花も、青い花も、ゆっくりとしおれていきました。
女の子は、けものの大きな頭を抱えました。
「少し寝たら、また行こうね」
けものは、女の子の手に鼻先をふれました。
それから、もう動きませんでした。
女の子は頭を抱えたまま、けものが目を覚ますのを待ちました。黒い毛は、まだあたたかいままでした。
何度なでても、鼻先が手にふれることはありませんでした。
しばらくして、狩人が追いつきました。
死んだけものと、生きている女の子を見つけました。
狩人は、間に合ったのだと思いました。
女の子は、けもののそばを離れませんでした。狩人が手を出すと、女の子はけものの毛に顔をうずめました。
「帰ろう」
狩人は言いました。
「村へ帰れば、もう大丈夫だ」
女の子は返事をしませんでした。
狩人は女の子を背負いました。女の子は狩人の背中で、ずっと森のほうを見ていました。
村へ戻ると、大きな宴が開かれました。
酒が出ました。肉の煮込みが大鍋でつくられ、パンがたくさん並びました。村の人たちは狩人の背を叩き、よくやったと言いました。
「あれだけの毛皮なら、町の商人がいい値をつける」
「角はどうする。祭りの飾りにもなる」
村の人たちは、楽しそうに話しました。
女の子は、宴の端に座っていました。
年を取った女が、女の子の前にパンを置きました。
「怖かっただろう」
女はそう言いましたが、女の子が何も答えないうちに、ほかの女たちの話へ戻りました。
狩人には、女の子が無事に帰ってきたことを、村のみんなが喜んでいるように見えました。
狩人は、出された酒を飲みました。おいしい料理を食べました。
「いいことをした」
狩人は、そう思いました。
その夜、狩人は暖かな寝床で眠りました。
翌朝、狩人が宿を出ると、通りの向こうに人だかりができていました。
何事かと思って近づきました。
村の人たちは女の子の家の前に集まっていました。
人々の脚のあいだから、小さな手が見えました。
昨日、自分が村へ連れて帰った女の子の手でした。
その身体には、自分が連れて帰ったときよりも、たくさんの傷がついていました。
血溜まりは黒く、黒く、大地に染み込んでいきました。
むかし、ある村に、ひとりの女の子が住んでいました。
名前は——
いいえ。名前は、べつに知らなくてもかまいません。
村の人たちは、女の子を名前では呼ばなかったからです。
「あくまのこ」
みんな、そう呼んでいました。




