第八話
「今日はおひとりなんですのね、ルーシュミナ様。いつもの騎士様は一体どちらに?」
「騎士様? だれのこと? はやいよ、おねえさん、もっとゆっくりあるいてよ、…」
「あなたのお相手のことですわ。あなたが誘惑したのか、されたのか、それは存じませんけれど」
「おあいて? なんの?」
「本当に、何もかも忘れておしまいなのね。お羨ましいこと。そうやってすべてを棄てて、あなたはどこに向かうのかしら。きっと天国ではございませんわね。あなたは罪を犯しすぎましたもの」
「ぼくの罪、ってなんのこと。何を言ってるの…」
「あなたは親に売られたことがおあり? 腐った匂いの充満する部屋で、男に強姦されたことがありますか? 生きていくために泥水を啜ったことは? 道端で犬のように這いつくばって食べ物を探したことは? 何もないでしょう、私が男を知ったのは9歳でしたわ。あなたが栄光に輝いていた頃ですわね、」
「…」
「あなたなんて大嫌い。悲愴ぶって、深刻ぶって、自分が一番可哀想だとでも思っているのでしょう、あなたが今までどれだけのものをぶち壊してきたのか、振り返って見もせずに、スポットライトを浴びて、お綺麗なつもりでいるのでしょう。虫唾が走りますわ」
劇場の中は暗くて、他に誰もいない。おねえさんに壇上に上げられたぼくは、そのまま舞台に倒される。ごちんと頭の後ろがリノリウムの床にぶつかって痛い。涙が出そうなくらいだ。おねえさんはそのままぼくにのしかかって、ぼくの首に手を掛けて、力を籠めていく。ぼくは息が詰まって、もがく。どうしたらいいのかわからない。お姉さんはとても怒っていて、ぼくの不甲斐なさに怒っていて、それで、たぶん、ぼくを殺したいんだろう。
ちかちかと光が点滅する。誰かがライトをつけたのだろうか。それとも、これは、ぼくの記憶から射す光だろうか。
「かわいいわね、私の狼さん。つぎはこっちを使いましょうか」
ねばついた声が落ちてくる。べたべたに汚れた身体が気持ち悪い。気持ち悪いのに、ぼくは指一本うごかせない。
「泣いているの? 感じているのね、ああなんて美味しそうなんでしょう。あなたもしかして、初めてだったの? そうね、それならたっぷり優しくしてあげましょうねえ」
のしかかってくる体温が気持ち悪い。ぼくのからだから、噴き出す体液が気持ち悪い。
やめて、やめて、さわらないで、ぼくにさわらないで!
叫びたいのに声が出ない。めまいがする。ぐるぐると世界がまわってる。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。だれかたすけて、だれか、だれか――
――おにいちゃん、ぼくをたすけて。
「こんどは3人でシようぜ、いいだろお? リーヴェ」
呂律の回らない声で男が言う。僕は頷く。だってこんなの、なんでもない。
みんなやってることだ。僕だけが特別なんじゃない。好きじゃない人と寝るのも、酒もたばこも、ギャンブルもハッパも。僕は傷ついてなんかいない。汚されてなんかいない。はじめからだ。はじめから、ぼくはろくでなしのクズだったから、こんなの全然へっちゃらなんだ。ずぶずぶと足元が沈んでいく。黒く淀んだ泥沼が、僕をどんどん呑み込んでいく。
「次回の新譜は、全世界同時リリースを予定しているそうだね。君の才能が、全世界を席巻する、素晴らしいことじゃあないか?」
50くらいの、有名な資本家の先生が、僕の肩に手をまわして囁く。汗ばんだ掌が何を意味しているのか僕はしってる。ここはホテルの一室だ。薄暗い間接照明が灯っただけの寝室だ。父さんはここに僕を置いていった。さんざん女の子と遊び歩いてきた僕だ、今更男と寝るのなんて、どうってことないって思われてるんだろう。
べつにいい。僕はろくでなしのクズだから、誰と寝ようがへっちゃらだ。
僕は傷ついてなんていない。汚れてなんていない。こんなのみんなやってることだ。だから一丁前に、逃げ出したくなんて、ならない。このひとに抱かれれば、一晩痛いのを我慢すれば、僕は、もっと、もっと高いところに行ける。きっと、それで、全部うまくいくんだ。父さんも母さんも喜んでくれる。姉さんもきっと。僕は舞台に立って、ピアノを弾いて、それで、それで――
どこかで、おにいちゃんが、みていてくれたら、ぼくはそれだけで――
――ダメだ、おにいちゃんのことを思い出すと、ぼくはぜんぶダメになる。
おじさんを蹴っ飛ばして、脱がされた服を掻き集めて、僕は逃げる。全部から逃げ出したい。僕の栄光ある未来? そんなのくそくらえだ。ぼくは、ぼくは、ぼくがほんとうに、ほしかったものは――
扉を開ける。ぶら下がった父さんの、見開いた目が僕を見てる。
ぎしぎし揺れる父さんから、ぽたぽたと、嫌なにおいの液体が滴っていて、それは、ぜんぶ、ぼくのせいだ。ぼくがバカだったから。父さんの言いつけに従えないダメな子だったから。ぼくががまんすればよかったんだ。逃げ出さなけりゃよかったんだ。そうすれば壊れることはなかったのに。ずっと守っていられたのに。こんなの全然平気だって、ずっと思っていられたのに。僕は傷ついてなんていないんだって、汚れてなんていないんだって、思っていられたのに――
「ああ、ああ、あああああ」
ぱたりと母さんの痩せ萎えた手が落ちる。母さんは恨み言ひとつ言わなかった。ただ、嘆いていただけだ。姉さんもそうだ。僕を軽蔑していただろうに、僕を、憎んでいたろうに。
「よく平気な顔ができるね」と叔母さんが言う。
「かわいそうに、あんなろくでなしがいたせいで」と伯父さんが言う。
「父親を殺して、母親を追い詰めて、のうのうと恥を晒して」「あんな子産まなければよかったんだ、そうすればアンヌは生きていられたろうに」「役立たずの穀潰し」「何もできないろくでなし」「お前が死ねばよかったのに」「どうして生きてるの?」「どうして生きていられるの?」「そんな腐った身体で、腐臭のする魂で、」「――おにいちゃんのそばで、生きていられるの?」
僕は走る。舞台から駆け下りて、何も目に入らないみたいに走る。アンフェリータの高笑いがどこかで聞こえる。けど、僕は足を止めない。
鉄柵の門に向かって開かれたバルコニーが見える。緑の芝生が広大に広がり、青空は澄み切っている。僕はバルコニーに飛び出して、白いテーブルや椅子を掻き分け走って、それで、
バルコニーの柵に足をかけて、そこから一息に飛び降りた。




