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ウンディーネは暗夜に咽ぶ  作者: 咲佐きさ


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第七話

 おじさまが仕事のあいだ、ぼくはバロットとパリの街をお散歩する。サクレクール寺院の広いお庭を歩き回って、空にうかぶ飛行機雲を見上げる。

 おじさまのところに来てから、ピアノはあんまり弾いていない。きっとへたっぴになっちゃってるとは思うんだけど、おじさまがぼくを叱らないので、ついつい、他のたのしいことに目が向いちゃうんだ。ぼくからピアノをとったら何ものこらないってのは、よくわかってるんだけど。

 おじさまと暮らし始めて、いろんなひととであって、ぼくは、おじさまじゃないひととも一緒にいられるようになった。

 みんなぼくにやさしくしてくれるから、不安なことなんて何もないんだっておもってしまうこともある。

 あいかわらず、父さんも母さんも姉さんも、…おにいちゃんも、ぼくを迎えに来てはくれないんだけど。

 

「るーしゅみねさん!」

 サクレクール寺院のお庭で、靴磨きしていた男の子がぼくたちに駆け寄る。はあはあと息を切らして、帽子をとった男の子の、ふわふわの赤毛が猫みたい。

「おひさしぶりです、あの、おぼえて、ますか…」

「おう、イギリスの坊やか。ルーシュミネさん、こいつは俺の知り合いです」

「そうなの? はじめまして、ぼくはルーだよ」

「あ、はじめ、まして、おいらは、チャーリーって言います。…おぼえてないですよね、やっぱり…はは…」

「ルーシュミネさんは今ちょっと記憶があれなんで、あんまり落ち込むな。そんでどうした、ここで働いてるのか?」

「あ、ハイ! 靴磨きとか、新聞配達とか、いろいろやってなんとか暮らしてます! アジャーニはまだちょっと外が怖いみたいで、あんまり外出できないんですけど…」

「そうか、まあ元気でやってるんなら何より」

「はい、お陰様で…あそこを出てから、ずっと、るーしゅみねさんにお礼が言いたくて…」

「…このひとが本調子に戻ったら、いくらでも言ってやってくれや」

「…はい…」

 チャーリーと名乗った男の子はなんだかシュンとしてしまって、ぼくを見つめる。くりくりとずいぶん大きな目玉だ。黒目勝ちで、白目が少なくて、ほんものの、子犬の目みたいに見える。

「アジャーニも会いたがってるんで、機会があったら、うちに来てください。えと、住所、書きますね…」

「おう、もらっとく」

 ごそごそとポケットを探って手帳みたいなものを引っ張り出したチャーリーはそこに何やら書き付けて、破ったページをバロットに渡す。そのまま手を振ってその男の子は行っちゃった。背伸びしてバロットの手元を覗き込むぼくに苦笑して、バロットはその紙片をくれた。

 帰ってからおじさまにその話をしたら、ひどく驚いたカオをしてた。おじさまもチャーリーと、お知り合いだったみたいだ。


 その数日後、ぼくはメモの住所の場所に来ていた。今日はバロットじゃなくて、ヨランダといっしょだ。おじさまも一緒に来たがったけど、今日はだいじなうちあわせがあるとかで、後から来てくれるらしい。

 埃っぽい階段を上がって、天井裏に近い、古びた扉をノックする。

 がちゃりと扉が開いてぼくらを迎えたのは、金色の髪の、天使みたいな女の子だ。

「まあ、ルーシュミネ様、…」

「はじめまして、ぼくはルーだよ。…はじめましてじゃ、ないのかな? よくおぼえてないんだけれど…」

「ええ、ええ、その節はお世話になりました。…どうぞ、お入りになって」

 ぼくとヨランダを部屋に通した女の子はアジャーニと名乗った。ぱたぱたとキッチンからティーポットをもってきて、小さなテーブルの上にぼくとヨランダのためのお茶を淹れてくれる。

「わたし、養老院で働くことにしましたの。まだ外は怖いのですけれど、こんなわたしでも、役に立てることがあるようですので…」

「そうですか。それはようございました。社会に関わるということは、自分自身を見つめなおさせてくれるものですからね」

「はい。…チャーリーから、ルーシュミネ様にお会いしたと聞いて、決心がついたのです。…わたしをあの場所から救い出してくださった方が、ご病気だと伺って…わたしには何もできませんけれど、できることをして、誰かの助けになれるならと…」

 ヨランダとアジャーニは何かむずかしいお話をしてる。チャーリーは靴磨きでまだ外出中らしい。こじんまりとしたお部屋は家具もかざりも少なくて殺風景だったけれど、たぶんお手製の花柄刺繍のテーブルクロスとか、丈の足りないカーテンとか、可愛らしい隠れ家みたいだ。骨董品屋さんからもってきたみたいな汚れたランプが黄色い光を灯している。

「――申し訳ありません、せっかく来ていただいたのに、これから仕事に行かなくてはなりませんの、…」

「あら、お忙しいところを、こちらこそ申し訳ありませんでしたわ。ルーシュミネ様、そろそろ…」

「ねえ、そのお仕事の場所に、ぼくもいっちゃだめかなあ?」

「ルーシュミネ様!?」

「ぼく、知らないことがたくさんなんだ。だから、いろいろ知りたいんだよ。それで、はやくおとなになって、おじさまに頼りになるなあって、ほめてもらいたいんだ!」

「――」

 ヨランダとアジャーニはしばらく顔を見合わせていたけど、さいごにはいいよって言ってくれて、ヨランダが養老院からおじさまに連絡してくれることになった。

 ぼくはふたりの女の人に囲まれて歩きながら、養老院にピアノがあったら、みんなを喜ばせてあげられるのになあって、思ってた。



 アジャーニの働く養老院は、メトロで数十分走ったところにあった。

 まあたらしい白い建物はホテルみたいに広くて、敷地には芝生が植えてある。

 鉄柵の門を開いてぼくらは中に入り、アジャーニはなにか受付のお姉さんと話をしている。

 ぼくとヨランダはそこでアジャーニと一旦別れ、別のお姉さんが養老院の中を案内してくれる。真っ白のエプロンがまぶしい、笑顔がひまわりみたいな、小柄なお姉さんだ。

 養老院に入居しているお年寄りのための一人用のシンプルなお部屋や、数人用の、ちょっと豪華なお部屋、食堂などの共有スペース、音楽隊を招いたりする劇場まで、ここにはあるらしい。

「坊ちゃんに連絡をして参りますね、待っていてください、ルーシュミネ様」

 ヨランダは電話のコーナーに行ってしまって、ぼくは案内のお姉さんと二人きりになる。

「劇場に行ってみましょうか、ルーシュミナ様」

「ぼくのなまえは、ルーシュミネ、だよ、おねえさん」

「あらそうですか。ごめんあそばせ。でも名前なんて、ただの記号ですわ。そうじゃありませんこと?」

 黒髪に黒い目のお姉さんはそう言って微笑む。ぼくはきょとんとしてしまって、よくわからないことを言うお姉さんを見返す。

「お忘れになったのですか? 私のことを。なんて酷い方」

「…ごめんなさい、会ったことがある、のかな? ぼく、あんまり、おぼえてないみたいで…」

「まあそうでしょうね、あなたはそうやって、何もかも忘れておしまいになるのね。誰を傷つけても、裏切っても、知らん顔で。…悪いことなんてなにも知らないような顔をして。いつでも誰かに守られて」

「おねえさん、なんのはなしをしているの? …」

「あなたの話ですわ。ルーシュミナ様。あなたの犯してきた、罪の話です」

「ぼくがなにをしたっていうの。あなたに何か、してしまったの? おぼえていないんだ、ぼくはなんにも…」

「覚えていないんじゃない、あなたが見ようとしないだけですわ。目を逸らして、逃げているだけなのですわ。あなたがどれだけ罪深いのか、あなたがどれだけ汚れているのか、私が教えて差し上げましょうか?」

「やめてよ、やめて、こわいよ、おねえさん…」

「ルーシュミネ様!」

 アジャーニがぼくを見つけて、駆けてくる。けれど、くるりと振り向いたお姉さんと目が合って、アジャーニはぴたりと立ち止まってしまって、はっ、はっ、と、肩を揺らして息をする。顔色がひどく悪い。土気色って感じだ。

「行きましょう、ルーシュミナ様、私があなたに、罰を与えて差し上げます」

 ぐいと手を引かれぼくはアジャーニから引き離される。

 その場で頽れるアジャーニに、駆け寄る看護師さんたちの姿が、閉まっていく扉の向こうに見えた。





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