第四話
泣き疲れたルーは私の隣で眠っている。数時間のフライトの間、彼が目を覚ますことはなかった。
パリの屋敷に着くころにはルーは元気を取り戻し、挨拶に出てきたメイドたちにぴょこんと膝を折って、自己紹介している。目を白黒させるメイドに事情を簡単に説明し、ルーを部屋に導く。ルーは目をキラキラさせてあたりを見回し、「すっごおい」「こんなに広いおうちははじめて」などと歓声を上げていた。
「君の部屋はここだ、自由に使うといい」
「ぼくだけのおへや? おじさまはいっしょじゃないの」
「…私は隣の部屋にいる。何かあればすぐ呼んでくれ」
「こんなにひろいおへやにひとりでいるの、さびしいよ。おじさまといっしょにいちゃだめ?」
「…構わないが…」
「やった、ねえ、このおうちにピアノはある? ぼくいっぱいひいてあげるよ、おじさまのリクエストはなに?」
「…君が好きな曲を、」
「すき? ええ、なんだろう。かんがえたことなかったかも…」
「…無理に弾かなくてもいい。長旅で疲れただろう。まずは身体を休めることだ」
「じゃあぼく、おふろにはいりたいな。おじさま、いっしょにはいろ!」
「………」
「だめ、かな…やっぱりいや?」
「嫌じゃない、…待っていろ、準備をするから…」
「わあい、やった!」
準備ができたと呼べば、無邪気に喜ぶ5歳のルーは洗面所で手を上げて、服を脱がされるのを待っている。無垢な瞳に見つめられ、邪気を押し殺してがばりとセーターを脱がせればきゃっきゃと声を上げて笑う。
「おじさま、ぼくのからだあらってえ。かあさんみたいに」
「………」
すらりとした白い肌は完全なる美を体現したかのように、少年と青年のあわいにいるルーの特異性を示しているというのに、私に甘えるその表情は幼い子供のままで、…私は頭の中で円周率を唱えながらルーの身体を隅々まで洗った。
ピアノの前に座ったルーは歓声を上げ、
「すごい! オクターブの和音がひけちゃうよ! ぼくおおきくなったかも!」
などとひどく興奮した様子だ。
洗面所の鏡で自分の姿を映しても無反応だったというのに、彼の頭の中では現実をどのように認識しているのだろう。
ルーはポンセの『エストレリータ』を弾く。「これが君の好きな曲か」と聞けば、「おにいちゃんと弾いた曲だよ」と答える。
「おにいちゃんはヴァイオリンもじょうずなんだ、なんでもできて、かっこいいんだよ」
「…そうか」
「うん、ぼくのてをひいてね、いろんなところにつれてってくれるの。みたことがないようなもの、みせてくれるんだよ…」
「…学校の友達も、いるのだろう。君には」
「うーん、おんなのこはやさしくしてくれるけど、おとこのこはちょっとこわいな。ぼくのパンツぬがせようとしたり、くつをなめさせようとしたりする。ぼくが、おべんきょうもうんどうも、じょうずにできなくて、みんなをいらいらさせるせい、だけど」
「――」
「ぼくね、おにいちゃんがすきなの。とうさんとも、かあさんとも、ねえさんともちがうんだけど…いちばんすきなの。おんなのこたちより、すきなんだ。これってへんかな? おかしいかな? …ひみつにしてね、おじさま」
「…ああ、」
繊細な指使いで、天上からの響きを伝えるような演奏をしながら、夢見るように言う。
愛おしいルーの、純粋な、むき出しの魂を感じる。
ルーは今、幸福なのだろうか。
私の休息の時間も過ぎ去り、新しい仕事が入る。少し家を空けると伝えると、ここ2週間ほどですっかり私に懐いたルーは、口を尖らせて地団駄を踏んだ。
「ぼくもいく! おじさまといっしょにいる!」
「…我儘を言うものじゃない。すぐに戻るから、留守番しておいで」
「やだやだ、ぼくもいっしょにいく!」
「ルーシュミネ様、坊ちゃんを困らせないでくださいまし、わたくしどもが一緒におりますから。今日は何をして遊びましょうか?」
「やだ! やだやだやだ!」
「ルー、君はまだ本調子ではないんだ、外に連れて行くわけには…」
「そんなこといって、おじさまもぼくを棄てる気なんだ! とうさんみたいに、おにいちゃんみたいにっ…」
ルーの大きく見開いた瞳が潤んでみるみる涙が湧いてくる。
「ぼくをおいていかないでよ、いっしょにいてよう、おじさましかもう、ぼくのそばにはいないんだ…」
「ルー、…」
わあわあと泣きだしたルーを抱きしめてその背を撫でる。この子が落ち着くようにしばらくそうして、泣き声が次第にしゃくりあげる小さな音になったところで、その顔を覗き込む。
「――わかった、一緒に連れて行こう」
「坊ちゃん、よろしいのですか?」
「ああ。いい子にできるな? ルー」
「…うん! ぼくいい子にするよ!」
ぱっと顔を輝かせたルーは涙の痕の残る頬で花が咲くように笑って私に飛びついた。




