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ウンディーネは暗夜に咽ぶ  作者: 咲佐きさ


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第三話

 山の上の療養所はひどく空気が薄い。病床にある患者らにとっては、その希薄さが身体に合っているのだろう。ルーの見舞いに訪れるたび、物珍しそうな無数の目に迎えられる。

 刺激の少ない生活に飢え、どんなものでもいいから飛びつきたいとでもいうような目だ。ロッジのような形の療養所は各部屋ごとにバルコニーがあり、そこから身を乗り出すようにして階下を見下ろしている。10代の子供や、70近い老婦人まで、年齢は様々だ。職業柄、見られることには慣れているので、何も感じはしないが。女性が多いのは、この療養所の規約のためだろうか。確か、病人同士での性的接触を固く禁ずる、と書かれていた。…感染予防のためだろうが、あまりに露骨な文言に閉口する。療養所に来て、アバンチュールも何もないだろう。…。

「院長がお呼びです、レヴォネさん、こちらへ」

 ルーの部屋に向かう前に白衣の看護師に呼び止められ、病院長の部屋に通される。

 化学実験室のような部屋だ。薬品のにおいがして、棚には何やらわからないホルマリン漬けが並んでいる。…イギリスでルーと見た露悪趣味な諸々を思い出す。病院長のコレは、おそらく研究のためなのだろうが。

「リーヴェ君の検査結果は良好です。この分だと、退院も間近と考えてよいでしょう」

「そうですか。それはよかった…」

 全身の神経が緩んでしまったように脱力する。本当に良かった。これで何の忌憚もなく、ルーをパリに連れて帰れる。

「ええ、ただし、若干、気になることがありまして」

「気になること?」

「はい。体に異常がないということは、リーヴェ君の精神のほうに不調の原因があるのではというのが、主治医の見立てです。何かリーヴェ君のストレスの原因となることに、心当たりなどはありますか?」

「……」

「まあ、わが療養所には残念ながら精神の病の専門家はおりませんのでね。転院するか、ご自宅でゆっくり療養されるか、お選びになるとよろしいでしょう」

「ルーには会えますか」

「もちろん、会えますとも。病室で貴方をお待ちですよ」

「ありがとうございます。お世話になりました」

 院長室を去り、最上階の特別室に向かう。気持ちが急いて、駆け足になる。ルーはもう検査結果を聞いているだろうか。まだなら、早く伝えてやりたい。精神の異常とはどんなことを指すのだろう。あいつはまた何か、ひとりで抱え込んでいるのだろうか。いつまで経っても、私にその重荷を、共に背負わせてはくれないのだろうか。…。

「ルー!」

 特別室の窓辺に、ルーのベッドがある。

 ちらちらと舞う雪を眺めていたルーが、ゆっくり振り返る。

 クレマチスを背景にした青白い頬は人形のようで、瞬間、ぞくりと悪寒が走る。感情のないガラス玉のような、エメラルドグリーンが瞬いて、紅を塗っていないのにほの赤い、唇が開かれる。

「…あなたはだあれ? 父さんは、どこにいるの?」

 詩を朗読するひとのような、現実感のないテノールが、ぽつんとそう呟いた。



「治療の一環、だったのですがね。思いの外効きすぎてしまいましてなあーハッハッハッ」

「……」

 まったく悪びれていない様子でルーの主治医は哄笑する。

 でっぷりと太った腹が笑うたびに上下し、黒縁眼鏡の向こうの目玉は分厚いレンズに歪んで見えない。

 一時的な記憶障害、と主治医は言った。

 いずれ時が来れば、元に戻る、とも。

「いずれというのは、いつですか」

「さあ、それは私にも分かりかねますな。明日かもしれない。一週間後かも、1年後かもしれない」

「それでは困ります、患者に対して、あまりに無責任ではないですか」

「そう言われましても。これはリーヴェ君の防衛本能の結果、ともいえるわけで…」

「防衛本能?」

「何かから逃げたいと思っていたのでしょう。私は手助けをしただけ。リーヴェ君の閉ざされた心の傷を癒すのは、貴方が適任なのではないですかな?」

「……」

 ルーの悩み、心の傷。私に具体的に話してくれたことはないが、今のあいつの姿が、それらから逃げるためのものだとしたら。

 私はあいつを、ありのまま受け入れ、その心の傷が癒えるように、尽力するしかないだろう。

「ルーはすぐに退院させます。これ以上ここにいても得るものはなさそうだ」

「そうですか。私はもっとリーヴェ君の興味深い症状を観察したかったですが…いや失礼、不謹慎でしたな」

 爬虫類のような目をぎょろつかせて主治医はそう言い、また性懲りもなくにやにや笑った。



「ぼく、おじさまと一緒にかえるの? 父さんはどこ?」

「…君の父君は、旅に出たんだ。遠いところに」

「母さんは、姉さんは?」

「みんな一緒だ。しばらく帰れないからと、君を私に託していった」

「ぼくだけ置いて、行っちゃったの? ぼくが、ピアノのれんしゅうをさぼったから? 父さんは怒ってるの? だってへやにピアノがないんだもの、どうしようもないのに」

「怒っているわけではないよ。事情があるんだ。君は気にしなくていい、」

「ねえ、ピアノはどこにあるの? まいにちれんしゅうしないと、すぐへたっぴになっちゃうんだ。ピアノをひかせてよ。そうしたら父さんも、もどってくるかも」

「…ピアノなら、広間にあったが…」

「じゃあそこに連れて行って! ぼく、ピアノがじょうずなんだよ。おじさまにもきかせてあげる! ピアノがないとだめなんだ、たべるときと、ねるときと、ごほんをよむときいがいは、ずっとさわってないと。すぐへったぴになっちゃう。父さんにしかられるんだ…」

「…ここに君の父君はいない。誰も君を叱らないよ」

「でも、でも…ぼく、父さんによろこんでほしいんだ。ピアノをひくと、いつも父さんはよろこんでくれるんだよ。じょうずにひけたら、ぼくをほめてくれるんだ。おじさまも、きっときにいるとおもうな。…」

 たどたどしい言葉で懸命に並べるルーは5歳の子供の顔をしている。幼児退行、というのだそうだ。精神だけが、子供の頃に戻ってしまっている。精神疾患の一種で、トラウマが原因だと言うが…私は苦々しい思いで、ルーを見つめる。

「君が弾きたいというのなら、広間に連れていくが…君自身は、どうなんだ。誰かに強制されずとも、弾きたいと思っているのか?」

「きょうせい? なんのこと? ぼくはピアノがないとダメな子だから、それしかないんだよ。父さんも母さんも言ってたよ。ぼくからピアノをとったら、なんにものこらないんだ」

「――」

「どうしたの、おじさま? …わあ」

 ルーはなんでもないことのように言って、そのガラス玉のような澄んだ目で、私を見上げる。

「おじさまの目の色、とってもきれいだね。おにいちゃんの色に似てる。…おにいちゃんは、どこにいるのかな。どこかにいっちゃったのかな。…おにいちゃんも、ぼくがいやになった、のかな、…」

「ルー、」

「ピアノをひかなきゃ、ピアノをひいたら、おにいちゃんももどってきてくれるかも。おにいちゃんもね、ぼくのピアノがすきなんだ! ぼくと連弾してくれたりするんだよ、おにいちゃんもね、ぼくのつぎくらいにピアノがじょうずで、だから…」

 海のように淡く澄んだ碧の瞳に膜が張り、ぶわりと大粒の涙が溢れ零れる。

「おじさま、おにいちゃんはどこなの。父さんはどこなの。みんなみんな、どこに行っちゃったの。ぼくを置いて、ぼくだけ棄てて…」

「ルー、ルー、大丈夫だ、何も心配ない。すぐに戻るさ、みんなお前が好きなんだ、お前が大切なんだよ、」

 ルーはふるふると首を横に振って、涙を散らしながら、私の手に縋りつく。

 それしか縋るもののない子供が、見知らぬおとなにしがみ付いて泣く。

「かえってきてよう、ひとりはいやだよ、いい子にするから、ピアノをひくから、おねがいします、ごめんなさい、ごめんなさい…」

 ――私は今まで、ルーの一体何を見てきたのだろう。

 彼の歪んだ子供時代にも、間近にいたはずだったのに、私は何も気づいていなかった。気づいてやれなかった。

 わあわあと泣く5歳の子供を腕に抱え、彼の瑕を感じて、それとひとつになれるようきつく抱きしめる。それでお前を癒せるのなら、いくらでも抱きしめていたい。

 ――ここにルーの求める11歳の私はいない。それがひどく、口惜しかった。



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