第二話
「ふふ、性生活についてはもういいでしょう。君はレヴォネ氏と同棲されている、ということでよいのかな?」
「…はい」
「その生活に対する不満などは」
「ありません。使用人のみなさんはすごく優しいし、家は広いし、食事はおいしいし、とても快適です」
「レヴォネ氏の帰りが遅いとか、共演した女優さんと飲み歩いていたりといったようなことは?」
「セデュは仕事が終わるとすぐに帰ってきてくれます。パーティーも、必要最低限しか出ていないみたいだし…」
「ふむふむ。では逆に束縛が激しくて嫌気が差すと言ったようなことは」
「ない、です。セデュが僕に執着してくれるのは嬉しいし…」
「浮気の心配はないと言い切れますか?」
「…なんで先生、浮気の話ばっかりするんですか…ないって言ってるのに…」
「これは失礼。君のストレスが一体どこから来ているものなのか、ますますわからくなってね…」
「それは僕も知りたいです…今の生活に不満なんて何もないはずなのに…」
きつく組み合わせたまだらの手に視線を落とす。血液検査で腕に血管が見つからなくて、何度も刺された注射の跡が手の甲にも残っている。鬱血して痣になっているせいでひどくみっともない。セデュはこんな僕の醜い手も、愛おしそうに撫でてくれていたっけ。
「君は今が一番幸福だと胸を張って言えますか?」
「…それは、そうだと思います。セデュが傍にいてくれるし、いつでも抱きしめてくれるし…」
「レヴォネ氏がいなければ君の幸福は成立しないのかな? 君自身の、自立した、幸福というものはないの?」
「…」
僕はぼんやりと先生を見返す。僕自身の幸福か。考えたこともなかった。…何が僕にとっての幸福なんだろう。ピアノが弾けること? 作曲ができること? 安全な家で安らかに眠れること? 飢えないこと? 苦手な、嫌なことをやらされないこと? …なんだかどれもぴんとこない。自分が薄っぺらな一枚の紙になったみたいだ。セデュのため以外で、僕が生きる理由って何かあったっけ?
「…わかり、ません、考えたこともなかったから…」
「レヴォネ氏と出会う前は、どうしていたんだい。そんなふうで…」
「覚えてません。セデュとは、5歳のときからの付き合いで…幼馴染なんです」
「レヴォネ氏とは幾つ離れていたっけ?」
「6歳だから、セデュが11歳のときに知り合いました。ピアノのコンクールで…」
「競い合ったライバルってことか。どんなふうな付き合いだったの?」
「普通ですよ。一緒に遊んだりとか…バカンスに連れて行ってもらったこともあります。イタリアまで…」
「そのときから君らはそういう関係だったのかい?」
「え?」
「男色関係だったのかい? 最後まではしないにしても…」
「いや、えっと、5歳のときのことだって言いましたよね?」
「レヴォネ氏がペドフィリアならそういうこともあり得るよ。むしろそれが原因なのかもしれない。幼いころに君はレヴォネ氏に凌辱されて、それ以来君たちの歪んだ関係が始まったのかも…」
「いや、えと、あり得ないです。絶対にないです、そんなこと…」
「君は5歳の頃のことを正確に覚えているの?」
「…おぼえては、ないけど…」
「では可能性としてはあるわけだよね。君の抑圧された無意識が、レヴォネ氏を拒んでいるのかもしれないよ」
「…セデュはそんなことしない。ぜったいに」
この先生はセデュのことを何もわかっていない。だからこんな酷いことが言えるんだ。
でも、知らないってことは、仕方がない。この先生がセデュのことを、見た目で判断して――あのとびきりの美貌から、遊び人だと判断するのも、仕方のないことかもしれない。
めちゃくちゃ腹が立つけど、胸倉掴んで詰め寄りたいけど!
僕がどんなに懇々とセデュの素晴らしさ(生真面目さ、堅物さ、純情さ、その他諸々)を語ったところで、この先生は「あー洗脳されてんなー」って思うだけだろう。
だからそんな無駄なことはしないでおく。
めちゃくちゃムカついたから、ふんぞり返って腕と足を組んでやったけどね!
「君がレヴォネ氏を恋慕う気持ちはよくわかるよ。この療養所の女の子たちも、連日現れる彼に夢中で、列をなしているくらいだ。なにしろ相手は類稀なる美青年だからね。たとえ同性だろうと、参ってしまってもおかしくない」
「じゃあもうセデュを侮辱するようなこと、言わないでください」
「わかった、わかった。可能性の一つに留めておくよ」
聞き分けない子供に対するように先生は鷹揚に笑ってまたカルテに何か書きつける。
イヤだなあ、ペドフィリアだの何だのって、濡れ衣もいいとこだ。セデュのことをそんなふうに記録してたらどうしよう。あのノート、隙を見て暖炉に投げ込めないかな…。
「では他の質問にしよう。君の家族のことだ」
「…え、」
「ご両親は他界、ご兄弟は行方知れず、だったかな?」
「…はい」
「ご両親が亡くなったときのことを覚えている?」
「……」
「詳細じゃなくてもいい、覚えている限りのことを、説明できるかな?」
「……」
「……」
「……」
「…難しいようだね。お姉さんのことも話すのは難しい?」
「…はい」
「ふむ。…」
コツコツと、テーブルにぶつかったペンが音を立てる。神経質な音だ。秒針みたいに、メトロノームみたいに、正確な間隔で音が鳴る。コツコツコツコツ…。
「君はご家族とはどのような関係だった?」
「…良好だったと、思います」
「具体的には?」
「父は、厳しいところもあったけど、僕をピアニストとして、大成させてくれました。母は、優しいひとでした。姉さんは真面目で、無口だけど、誠実なひとで…僕たちは、いつも一緒でした。僕がおかしくなるまで…」
「おかしく?」
「…えーと、…ちょっと、僕が、非行に走った時期が、ありまして…」
「ふむ」
「そのせいで、僕は一回全部失って。…家族も、ばらばらになりました」
「…」
「それで、作曲もできない時期があって…セデュに救われたんです、ぼくは」
「…君はそれを恩に感じている?」
「はい」
「今が一番幸せだと君は言ったね」
「はい」
「本当にそうなの? 家族と一緒だった日々はどうだった? 今よりも幸福じゃあなかった?」
「…」
「君は戻りたいと思うことはないのかな。その、昔の、家族がいた過去にさ…」
「…それは、もう、どうしようもないこと、ですから…」
「ふむ」
先生はカルテから目を上げ、黒縁眼鏡の向こうから僕を観察する。蝶の羽を捥ぐ少年みたいな委細さで。
「戻れると言ったら、戻りたいのかな。君の病巣は、どうもそのあたりにあるような気がしてならない」
「…え、」
「思い出してごらん、目を閉じて、ご両親がいた日々のことを、もっと話してくれないか…」
なんだか頭がくらくらする。また眩暈だ。ぐるぐると地面がさかさまになるようで、僕は座っていられない。
「先生、気分がわるいです、もう終わりに…」
「君は5歳? 25歳? どっちかな、20年前の君は、どんなふうだった。どんなふうに笑って、どんなふうに泣いていた? ご家族は、君の父親は、どんなふうに君を叱責し、導いていたのかな。思い出してごらん、怖がることはない、君がまた平穏な生活に戻りたいなら、切開する必要があるんだ。君の病巣を取り除かなくては――」
頭が痛くて、気持ちが悪い。僕はくたりとソファに寄りかかって、目を閉じて――そのまま意識を失った。




