【錆びた祈り:第三幕・亡霊の帰還】
新宿の初陣から一週間。事務所に、一通の黒い封筒が届いた。
差出人の名はなく、ただ一枚の古い写真が同封されていた。そこには、20代の頃の九条と、彼によく似た面構えの「もう一人の男」が、血塗れの刀を手に笑っている姿があった。
「……九条さん、この人……」
遥が写真を覗き込む。彼女の腕の「痣」が、写真に触れた瞬間に嫌な熱を帯びた。
「……死んだはずの男だ。俺の兄弟子であり、俺がかつて、この手で『殺めた』はずの男……真壁 弦十郎だ」
九条の声は、かつてないほど低く、苦しげだった。
その時、事務所の古びた電話が鳴り響く。サキが受ける前に、スピーカーから直接、男の野太い声が漏れ出した。
『よぉ、蓮。随分と「可愛いお守り」を連れて歩いてるじゃねぇか。……お前が俺に叩き込んだあの時の痛み、まだ疼くんだよ』
事務所の窓ガラスが、その声の振動だけでピシリと亀裂を走らせる。
「真壁……! 生きていたのか。あの時、お前は異界の闇に飲まれて……」
『ああ、飲まれたさ。だがよ、あっちの連中は案外「物分かり」が良くてな。……俺の復讐心と引き換えに、新しい「肉体」と「力」を貸してくれた。……今夜、あの「約束の場所」で待ってるぜ。……来なきゃ、その女の痣を内側から爆発させてやる』
通信が切れ、静寂が戻る。
遥の左腕の痣が、真壁の言葉に呼応するようにドクドクと脈動し、彼女は苦痛に顔を歪めた。
【因縁の場所:雨の墓地】
夜の静寂を切り裂き、二人は郊外の廃れた墓地へと向かった。
そこは、九条と真壁が修行時代に競い合い、そして九条が、異界の力に魅入られた真壁を斬った場所だ。
霧の向こうから、一人の男が歩み寄ってくる。
トレンチコートに身を包んだその姿は、かつての写真のままのようだが、その顔の半分は「空き缶」を押しつぶしたような金属質の異形に変質し、赤い眼光が闇を射抜いていた。
「……久しぶりだな、蓮。……その女、いい『器』だ。俺たちの新しい母体にするには最高だよ」
真壁の手には、九条の「錆丸」と対をなす魔刀「骸鴉」が握られていた。
「……瀬戸、そこから一歩も動くな。サキ、通信を切れ。……これは俺の、個人的な『精算』だ」
九条の声は、冬の夜風よりも冷たく、そして重かった。彼は震える遥の肩をそっと押し戻し、一人、霧の立ち込める墓地の中心へと歩み出る。
「蓮、まだそんな枯れたプライドを持ってんのか? その娘と繋がってなきゃ、お前の心臓はもう止まりかけてるくせによ」
真壁が歪んだ顔で嘲笑う。彼の手にする魔刀「骸鴉」から、死者の呻きのような黒い霧が溢れ出した。
「ああ、そうだ。俺はもうボロボロだ。……だがな、真壁。あの日、お前を斬った時の『感覚』だけは、この空白だらけの頭でも、指先が覚えてるんだよ」
九条は「錆丸」をゆっくりと抜き放つ。
以前の蒼い光ではない。遥との共鳴で手に入れた純白の輝きを、彼は今、無理やり自分の内側へ押し込み、「どす黒い殺意」へと変質させていた。
「瀬戸、聞け。……俺があの日、こいつを斬ったのは、正義のためなんかじゃない。……こいつが、俺よりも先に『向こう側』の力に魅了されて、強くなっていくのが……怖かったからだ。俺は、自分の弱さが怖くて、兄弟子を後ろから刺したんだよ」
九条の独白に、遥は息を呑む。
彼が失った記憶の中に隠していた、最も醜く、最も人間らしい「罪」の独白。
「そんな男が、誰かを救うなんておこがましい。……だから、瀬戸。あんたを救ったのは、俺の『善意』じゃない。……ただの、自分勝手な罪滅ぼしなんだよ」
九条の全身から、血が噴き出す。
無理やり共鳴を遮断し、自分一人で呪いを引き受けた代償だ。彼の右腕の痣が真っ赤に焼けただれ、錆丸の刃が、主の命を喰らって不気味な咆哮を上げた。
「さあ、来いよ、真壁。……二人で地獄の底まで、錆びつこうぜ」
「ふざけないで、九条さん……! 罪だろうが何だろうが、今の私を繋ぎ止めているのは、その汚れた手なんです!」
拒絶を切り裂き、遥が叫んだ。彼女の左腕の痣が、九条の絶望を喰らって黄金色の雷火へと変貌する。強制的に遮断されたはずの「共鳴」が、空間を越えて九条の右腕へと逆流した。
「がはっ……! 瀬戸、よせ……引きずり込まれるぞ!」
「いいえ、一緒に沈んであげます! あなたが地獄へ行くなら、私もそこまでついていって、光を灯してやる!」
二人の魂が再び混ざり合い、錆丸がこれまでにない白銀の咆哮を上げたその瞬間——。
キィィィィィィン……ッ!
鼓膜を突き刺すような高周波が、墓地一帯を支配した。
真壁の振り下ろそうとした魔刀「骸鴉」が、空中で静止する。いや、真空の刃によって「固定」されたのだ。
「……興ざめだね。復讐劇に『愛』だなんて、不純物が混ざりすぎている」
墓石の上に、一人の少年が座っていた。
白いスーツに身を包み、退屈そうに銀色のスマートフォンを弄っている。その少年の背後には、虚空から這い出した数条の「銀の糸」が、真壁の身体を操り人形のように吊り下げていた。
「な……が、あ……っ!? 貴様、約束が……!」
真壁の顔面の金属質が、少年の指先の動き一つでミシミシとひしゃげていく。
『蓮さん、緊急事態です! その少年……データベースに該当なし。ですが、エネルギー出力が「異界」そのものです。……彼は、真壁を『餌』にして、この世界へ『釣り糸』を垂らしていた「管理者」です!』
サキの通信に、初めて「恐怖」の色が混じる。
少年はスマートフォンをポケットに仕舞うと、無垢な笑顔で九条と遥を見下ろした。
「九条蓮。君が差し出した『記憶』、美味しかったよ。……でも、まだ足りないんだ。その隣にいる女の子の『絶望』も、トッピングに加えさせてくれないかな?」
真壁の身体が、少年の指先一つで巨大な「肉の門」へと作り変えられていく。
墓地全体が、異界へと変質し始めた。
「サキ、全リミッターを解除しろ! 瀬戸、俺の魂を全部持ってけ!」
九条の咆哮に応え、サキが事務所の全演算リソースを二人の精神回路へ注ぎ込む。脳が焼き切れるような熱波の中、九条と遥の境界線が完全に消失した。
「――同調率、120%突破。概念連結、開始!」
サキの叫びと共に、二人の腕に刻まれた痣が黄金の鎖となって絡み合い、錆丸の刀身を白銀の業火へと変貌させる。少年が「肉の門」を完成させ、その片足を現世に踏み出した瞬間——最も脆い、「存在のゆらぎ」が生じた。
「……へぇ、人間にそんな出力が出せるんだ?」
少年が初めて驚きの色を見せた刹那、九条と遥は同時に踏み込んだ。二人の動きは鏡合わせのように完璧に重なり、一振りの刀が二人の意志を乗せて、少年の心臓部へと突き進む。
「これは、俺たちが生きてきた『痛み』の総量だ! 喰らいやがれ!」
「錆びろ! その傲慢も、その支配も!!」
白銀の閃光が「門」を貫き、少年の白いスーツを真っ赤に染め上げた。
異界の王が放つ銀の糸が、二人の絶叫に近い共鳴の前に一本ずつ、ぷつりと断ち切られていく。
「……あはは、痛いなぁ。……でも、これで『刻印』は済んだよ」
少年は崩壊する「門」の中に吸い込まれながら、不気味な笑みを残した。
直後、墓地を包んでいた異界の空間がガラス細工のように砕け散り、元の静寂へと戻る。
雨は上がり、夜明けの光が差し始めていた。
真壁の姿は影も形もなく、ただ折れた「骸鴉」の破片だけが地面に転がっている。
九条と遥は、お互いの肩に頭を預け、泥だらけの地面に座り込んでいた。
二人の腕の痣は消えていない。むしろ、少年の言った「刻印」のように、より複雑な模様を描いて定着していた。
「……九条さん、勝ち、ましたね」
「ああ。……だが、あのガキ、最後に変なことを言っていきやがった」
九条は、震える手で遥の手を握りしめた。
自分たちの戦いは、あの「管理者」にとっては、まだ始まったばかりの余興に過ぎないのかもしれない。
『……蓮さん、遥さん。……お疲れ様。……ひとまず、事務所に帰りましょう。温かいコーヒー、淹れて待ってるから』
サキの声が、朝焼けの中に優しく響いた・・・。
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事務所の隅で、九条はパイプ椅子に深く腰掛け、包帯の巻かれた右腕をさすっていた。机の上には、サキが淹れた安物だが温かいコーヒーから湯気が立ち上っている。
「……サキ、あのガキの『刻印』、解析は進んだか?」
『……蓮さん、今は休んでください。解析は私のサーバーがフル稼働でやってます。あなたの脳波、まだスパイク(過剰反応)が消えてないんですよ』
トランシーバー越しのサキの声は、呆れを含みつつもどこか優しい。
その時、台所の方からガタゴトと賑やかな音が聞こえてきた。エプロン姿の遥が、不格好に切られたリンゴの皿を持って現れる。
「九条さん、ビタミン摂らないとダメですよ! 共鳴の反動で、細胞がスカスカだってサキさんも言ってます!」
「……瀬戸、あんたも病人だろ。左腕、まだ痺れてるはずだ」
九条が苦笑しながら彼女の左腕を見ると、そこにはあの少年が残した「銀色の回路」のような刻印が、皮膚の下で微かに発光していた。
二人の痣は、あの夜を境に「黒」から「銀」へと変質し、まるで精密な基板のように複雑な模様を描いている。
「不思議なんです。……痛くないし、むしろ九条さんの心音が、前よりずっと近くに聞こえる気がして」
遥は自分の胸に手を当て、少しだけ頬を染めた。
二人の精神連結は、戦いが終わっても完全には解けていなかった。九条がコーヒーを「苦い」と感じれば、遥の口内にも微かな苦みが広がる。プライバシーもへったくれもないが、この「地獄のシェアハウス」のような感覚が、今の二人には奇妙な安心感を与えていた。
九条は窓の外、新宿の街を見下ろした。
あの少年が去り、真壁という亡霊を葬った今、街は一見すると平穏を取り戻したように見える。だが、九条の「退魔師の勘」は、地表の下で巨大な何かが脈動し、次の「剥離」を待っているのを敏感に察知していた。
「……瀬戸。一つ、聞いていいか」
「はい?」
「あんた、後悔してないか。……俺の汚れた記憶を共有して、こんな呪いまで背負い込んじまって」
遥はリンゴを一切れ口に放り込み、悪戯っぽく笑った。
「後悔してたら、今頃逃げてますよ。……それに、九条さんの記憶、案外『あったかい』ところもありましたから」
「……そうかよ」
九条は照れ隠しに煙草を咥えようとしたが、遥の鋭い視線に気づき、そっとポケットに戻した。
束の間の休息は、ノックの音と共に唐突に破られた。
「九条蓮さん、いらっしゃいますね」
ドアを開けて入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ、表情の読めない男女二人組でした
。彼らは九条の古びた事務所を見回すこともなく、まっすぐに蓮を見据えた。
『蓮さん、この人たち……只者じゃない。公的な所属を示すIDを持っているけど、それ以上に「管理」されている感じがする』
サキからの通信が、いつもより緊張している。
「九条さん、この人たち……すごく冷たい味がします」
隣に座っていた遥が、繋がった精神を通じて感じ取った情報を蓮に伝える。
男の方が名刺を差し出した。
そこには「内閣審議室別館・特殊事案対策課」という、長々しい役職名が記されていた。
「九条蓮氏。非公式の退魔師でありながら、先日の新宿三丁目及び郊外墓地における『異界事案』の中心人物として観測されています」
女の方が、クリアファイルから一枚の写真を取り出した。それは、あの少年が真壁を「肉の門」へと変えた瞬間の、衛星写真らしきものだった。
「我々は、貴方方が接触した『管理者級異形生命体』の情報と、貴方方の有する『共鳴』の能力について、全面的な協力を要請しに来ました」
彼らの言葉には感情がなく、まるで機械が規則を読み上げているようだった。
九条は、ふっと鼻で笑い、差し出された名刺を受け取らずに言った。
「役所仕事ご苦労さん。だが、俺たちはどこにも所属してない。
あんたらの『管理』は御免だね」
男の表情筋が微かに動き、冷徹な目が九条の腕の「銀の刻印」を捉えた。
「非協力的な場合、貴方方二名を『危険異形特異点』とみなし、保護対象……いえ、排除対象となります。我々は『管理者』の脅威を、これ以上野放しにはできない」
事務所の空気が一気に凍りつく。交渉ではなく、これは脅迫だった。
九条はゆっくりと背もたれに体重を預け、空になったコーヒーカップを見つめた。
張り詰めた空気をあえて弛ませるように、彼は低く、かすれた声で切り出した。
「排除、ね。物騒な脅し文句だ。だが、あんたら役人がわざわざこんな掃き溜めまで足を運んだってことは、自分たちじゃ手に負えない『何か』が起きてるんだろ?」
男の眉が微かに動く。九条はその隙を見逃さず、不敵な笑みを浮かべた。
「協力してやってもいい。だが、タダじゃねえ。……俺たちが接触したあの『白いスーツの少年』。あいつの正体と、あんたらが隠してる『前例』のデータをすべて開示しろ。それが条件だ」
「蓮さん……!?」
隣で遥が驚きに目を見開く。精神連結を通じて、彼女には九条の心臓が激しく、しかし冷静に脈打っているのが伝わっていた。これは本心からの協力ではなく、敵の懐に潜り込むための博打だ。
女の役人が冷徹に問い返す。
「国家機密を要求するのですか。身の程をわきまえなさい」
「身の程なら、地獄の底で見てきたよ。……いいか、あいつは真壁を『門』に変えた。次はもっとデカい門を作る。あんたら自慢の特殊部隊じゃ、物理法則を無視したあいつの『糸』には勝てねえ。……俺と、この娘の『共鳴』がなきゃな」
九条は包帯の巻かれた右腕を突き出し、銀色の刻印を彼らに見せつけた。刻印は呼応するように、鈍い光を放つ。
役人の二人は視線を交わし、数秒の沈黙の後、男が頷いた。
「……了解しました。本部の許可を取り、貴殿らを『特別外部協力者』として登録します。ただし、監視は継続させていただきます。……ついてきてください。我々のベースキャンプで、ある『遺物』を見ていただく必要があります」
第三幕 完




