【錆びた祈り:第二幕・共鳴する欠落】
助けるために大切な記憶を失った九条、そのために助ける理由を失った・・・。
しかし、助けたはずの女性がまだ怪異の残り香に苦しんでいる。
悩んだ末に蓮が下した結論は。
事務所の窓の外、東京の空はどんよりとした鉛色だ。
蓮は、馴染みの整形外科でもらった強い鎮痛剤を流し込み、愛刀「錆丸」の手入れをしていた。刀身を拭う打粉が、まるで雪のように舞う。
『蓮さん、バイタルがまた乱れています。その……「忘却の副作用」が、神経系にまで波及しているようです』
事務員サキの声に、いつもの快活さはない。
蓮は記憶を異形に喰わせた代償として、感情の輪郭を失いつつあった。喜びも、怒りも、遠い海の底で鳴っている音のようにしか感じられない。
「構うな。動けるうちは、仕事をするだけだ」
そんな彼の前に、再び「彼女」が現れた。
三ヶ月前、蓮が記憶と引き換えに救った女性、瀬戸 遥だ。
彼女は、以前よりもやつれ、何かに怯えた瞳で事務所のドアを叩いた。
「九条さん……お願いです、助けてください。……あれから、私、変なんです」
遥が差し出した両手を見て、蓮は息を呑んだ。
彼女の指先から肘にかけて、墨を流したような「黒い痣」が浮かび上がっている。それは、あの日斬り伏せたはずの「飢餓体」の残滓であり、同時に――。
「……共鳴しているのか。俺が喰わせた『記憶』と」
蓮が差し出した記憶は、異形の中で消化されず、遥という依り代を通じて、再びこの世に這い出そうとしていた。皮肉なことに、蓮が失った「大切な誰か」の面影が、いまや呪いとなって彼女を蝕んでいるのだ。
「……サキ、例の『双縁の儀』の準備をしろ。責任は俺が持つ」
蓮の声は低く、どこか投げやりで、それでいてひどく静かだった。
『蓮さん、本気ですか!? 精神を繋げば、彼女の受ける怪異の侵食も、あなたの削られた命も、すべてが二人で半分こになるんですよ。退魔師が一般人と感覚を共有するなんて……!』
「半分で済むなら安いもんだ。俺一人の魂じゃ、もう錆丸を振るうガソリンが足りねえんだよ」
蓮は、震える遥の前に膝をついた。彼女の細い手首を、節くれだった自分の手で包み込む。42歳の男の熱と、20代の娘の冷え切った肌が触れ合う。
「いいか、瀬戸。これからあんたと俺は、一蓮托生だ。あんたが怖がれば俺の剣が鈍る。俺が傷つけば、あんたも痛む。……それでも、死ぬよりはマシか?」
遥は涙を溜めた瞳で、蓮の澱んだ、けれど嘘のない目を見つめ返した。
「……一人で消えていくよりは、ずっといいです」
儀式は、古びた事務所の床に描かれた血の陣の中で行われた。
蓮が呪文を唱え、錆丸を二人の間に突き立てると、遥の腕の「黒い痣」が生き物のように蠢き、蓮の腕へと伝っていく。
「ぐっ……、あ……あああ!!」
激痛。
それは肉体的な痛みではない。蓮が失ったはずの「大切な誰かの記憶」が、遥の恐怖というフィルターを通して、濁流のように脳内に逆流してきたのだ。
見えたのは、幼い頃に死に別れた母親の笑顔。
そして、かつて自分の身代わりになって死んだ、修行時代の兄弟子の背中。
「……思い出した。……ああ、そうか。俺は、こいつらを守りたかったんだな」
蓮の目から、一筋の涙がこぼれた。感情を失っていたはずの男の頬を、熱いものが伝う。
同時に、遥の表情から恐怖が消え、代わりに蓮の持つ「戦う覚悟」が彼女の心に流れ込んでいく。
『……共鳴完了。……バイタル、安定。マスター、おめでとうございます。あなたは自分を取り戻し、そして……呪いを共有する「伴走者」を手に入れました』
サキの声が、安堵に震えている。
立ち上がった蓮の腕には、遥と同じ「黒い痣」が刻まれていた。
だが、今の蓮の目には、以前のような虚無はない。
「行くぞ、瀬戸。……新宿の『境界』がまた騒がしい。
俺たちの記憶を狙う奴らが、行列を作って待ってる」
「はい、九条さん。……私、あなたの背中、支えてますから」
40代の退魔師と、その命を半分背負った女性。
歪で、残酷で、けれど一人よりはずっと温かいサバイバルが、再び幕を開ける。
新宿の喧騒を背に、二人は封鎖された地下鉄の廃線跡を歩いていた。
九条の右腕と遥の左腕に刻まれた「黒い痣」が、暗闇の中で脈動するように熱を帯びる。
「……九条さん、来ます。右、三時の方向……すごく『悲しい』塊が」
遥の声が震える。精神を繋いだことで、彼女は九条の持つ退魔師としての「霊視」の能力を、剥き出しの感情として受け取っていた。
「ああ、見えてる。……瀬戸、怖がるな。俺の背中に意識を集中しろ。あんたが踏ん張れば、俺の刃は折れない」
闇の奥から、数多の顔が溶け合ったような巨大な異形――「衆合体」が這い出してきた。かつて孤独に死んだ者たちの残留思念が、一つの巨大な肉塊となった成れの果てだ。
『オ……置イテ……イカナイデ……』
異形が放つ精神汚染の波動が、二人の脳を直接揺さぶる。
以前の九条なら、自分の心を殺して斬り伏せていた。だが今は違う。隣に立つ遥の、生々しい「生への執着」が、九条の冷え切った魂に火を灯していた。
「サキ、結界の維持を頼む! 瀬戸、いくぞ……同調しろ!」
九条が錆丸を抜き放つ。
刹那、遥の視界が九条の視覚と重なった。彼女は自分の体が動いているかのような錯覚に陥り、九条は遥の心臓の鼓動を自分のものとして感じ、肉体の限界を超えた反応速度を手に入れる。
「——一閃!」
蒼い炎が闇を切り裂く。
だが、異形は斬られた端から再生し、無数の触手を遥に向けて放った。
「危ない!」
九条が遥を庇うように抱き寄せた瞬間、二人の痣が激しく発火した。
九条の「守りたい」という記憶と、遥の「助けたい」という願いが、錆丸の刃を純白の輝きへと変質させたのだ。
「これなら……いける! 瀬戸、力を貸せ!」
二人は同時に、見えない敵の「核」を見抜いた。
かつて九条が捨てた、あの「母親の笑顔」に似た、純粋な悲しみの中心点を。
異能の発現
「……九条さん、そこじゃない。その『悲しみ』の奥、もっと深いところに……冷たい塊がある!」
遥が叫んだ瞬間、九条の右腕と繋がった彼女の左腕から、どす黒い痣を焼き切るような純白の燐光が溢れ出した。
それは退魔師の家系に伝わる術式ではない。絶望の淵で九条に命を救われ、彼の「守りたい」という記憶の断片をその身に宿した遥だからこそ発現した、異形を「無」に帰す浄化の波動だった。
「これは……瀬戸、あんたの力か!?」
九条の驚愕をよそに、遥が空間に手をかざすと、襲い来る衆合体の触手が一瞬で凍りついたように動きを止めた。いや、動きを止めたのではない。
異形を構成する怨念そのものが、彼女の放つ光に触れて「安らぎ」を得て、霧散していくのだ。
『蓮さん! チャンスです! 彼女が異形の本質を剥き出しにしました!』
サキの鋭い声が響く。
九条は迷わなかった。
遥が作り出した「光の道」を駆け抜け、錆丸を正眼に構える。
「——よくやった、瀬戸。あとは俺が引き受ける!」
九条の剣筋に、遥の純白の光が纏わりつく。
錆びついた刀身は今や、闇を払う聖剣のような輝きを放っていた。
九条が一閃を繰り出すと、衆合体の核であった「冷たい塊」は抵抗することなく、光の中に溶けるように消滅した。
地下通路を埋め尽くしていたおぞましい肉塊が、最後には柔らかな光の粉となって、雨の新宿に吸い込まれていく・・・。
静寂が戻った廃線跡。
九条は激しい呼吸を整えながら、膝をついた遥の肩を支えた。
「……九条さん、私……今、あの子たちの『ありがとう』が聞こえた気がします」
遥の顔は青白く、異能を使った反動で意識が混濁している。だが、その瞳には九条が失いかけていた「希望」という名の光が宿っていた。
「……ああ。俺には聞こえなかったが、あんたがそう言うなら、そうなんでしょうよ」
九条は不器用な手つきで、彼女の乱れた髪を払った。
二人の腕に刻まれた痣は消えていない。
むしろ、より深く、二人の魂を縛り付けている。
だが、一人で錆びていくのを待つだけだった42歳の退魔師にとって、この「痛み」と「光」を共有する相棒の存在は、何物にも代えがたい救いとなっていた。
「帰るぞ、瀬戸。サキに温かいもんでも用意させよう。……明日からも、忙しくなりそうだからな」
二人は肩を貸し合い、地上へと続く階段を登り始めた。
雨上がりの新宿。ネオンの光が、二人の重なり合う影を長く、強く照らし出していた。




