【錆びた祈り:第一幕・ プロローグ】
退魔師 九条蓮は日々何かを 失いながら怪異と対しする、本当に大切なもの。
この物語は、失いながらも戦う男のお話し。
薄汚れた雑居ビルの屋上。
42歳の九条 蓮は、咥えた煙草から立ち上る紫煙を目で追っていた。背後では、東京のネオンが雨に滲んでいる。
彼は、世間では「霊能者」や「拝み屋」と呼ばれる類の人間だが、その実態は、人知れず跋扈する「異形」を祓う退魔師だ。家業を継いで四半世紀、その手は血と怨念で泥濘んでいた。
『蓮さん、次のターゲット座標です。新宿三丁目、地下のカラオケボックス』
使い古されたトランシーバーから、唯一の相棒である事務員のサキ(声だけの付き合いだ)の声が響く。
彼女もまた、この裏社会に片足を突っ込んでいる。
「また新宿か……最近、あっちの『境界』が緩みすぎてる」
蓮は煙草を灰皿に押し付け、古びたトレンチコートの襟を立てた。
彼の得物は、先祖代々伝わる錆びついた日本刀――「錆丸」。
普段はただの鉄屑に見えるが、異形を前にすると、その刃は微かな蒼い光を放ち、怨念を断ち切る。ただし、その代償として、斬るたびに蓮自身の寿命と精神を削っていく。
これが、彼ら退魔師に課された血の呪いだった。
新宿三丁目の地下。湿気とカビの匂いが充満するカラオケボックスの従業員通路。
蓮は、錆丸の柄に手をかけた。
『蓮さん、対象の気配が強まっています。あれは、人間の欲望が凝り固まった「飢餓体」です。
……注意してください、今回は『餌』を求めて、かなり凶暴化しているようです』
「知ってるさ。今日の『餌』は、ちょうど今、目の前にいる」
蓮の視線の先。
非常階段の踊り場で、一人の若い女性が、顔を覆って蹲っていた。彼女の背中からは、無数の黒い触手が蠢き、壁や天井の配線を貪り食っている。
女性は助けを求めるように蓮を見上げた。その目にはまだ、人間の理性が残っていた。
蓮は錆丸の鯉口をわずかに切ったが、すぐには踏み込まなかった。
代わりに、懐から取り出した安物のライターで、新しい煙草に火を灯す。
紫煙が湿った地下通路に漂い、異形の黒い触手がそれを嫌うようにうねった。
「……おい、そこから見えているんだろ。少しは言葉が通じるはずだ」
蓮の声は低く、枯れている。40年以上の人生で積み上げた諦念と、わずかな慈悲が混じった声だ。
「その娘を食い破ってまで、何がそんなに腹に据えかねる。お前ら『飢餓体』がここまで肥大化するには、相応の『理由』があるはずだ」
女性の背中から生えた黒い影が、ピクリと反応した。
彼女の口が、彼女自身の意思とは無関係に、大きく不自然な角度で開く。
そこから漏れ出たのは、何百人もの声を重ねたような、不快な残響を伴う「声」だった。
『……寒い……暗い……。誰も、見てくれない……。あいつら、笑いながら、私を通り過ぎる……』
それは、この大都会の孤独が産み落とした膿のような言葉だった。
サキの通信が入る。
『蓮さん、バイタルが不安定です! その異形、ただの欲望じゃない。このエリア一帯の「無関心」を吸い上げて、概念的な怪異に変質しようとしています』
「ただの空腹じゃないってことか。……おい、あんた。この娘は、あんたの痛みを一番理解していた唯一の人間じゃないのか?」
蓮の問いかけに、黒い触手が激しくのたうち回った。女性の瞳から、どろりとした黒い涙が溢れ出す。
『だから、一つになるの……。私を捨てた世界を、この子と一緒に、全部食い尽くすために……!』
異形の殺気が膨れ上がり、地下通路のコンクリートに亀裂が入る。錆丸の刀身が、持ち主の命を削る前兆として、どす黒い蒼光を放ち始めた。
「……ちっ、高くつくぜ。サキ、予備の結界を展開しろ。一瞬で終わらせる」
蓮は咥えていた煙草を床に捨て、錆びついた刀身「錆丸」の刃を自らの左掌でなぞった。
鮮血が滴り、蒼い光が毒々しく増幅する。
「おい、化け物。その娘の細い人生を食い潰すより、こっちを喰え。40年分、泥水をすすって生きてきた男の『後悔』と『諦念』だ。お前の空腹を満たすには十分すぎるだろ」
蓮は印を結び、自身の記憶の一部を強制的に外部へ引きずり出した。
それは、かつて守れなかった誰かの顔、孤独に震えた夜、退魔師として汚してきた両手の記憶——。
ドロリとした濃密な精神の澱が、黒い霧となって通路に広がる。
『……美味イ……重イ……。コノ、苦イ記憶……!』
飢餓体は歓喜の叫びを上げ、女性の背中から剥がれ落ちるように蓮の「記憶」へと食らいついた。彼女の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、代わりに蓮の膝がガクリと折れる。
「……ぐっ……!」
頭の中を、鋭いノミで削られるような激痛が走る。大切だったはずの誰かの名前が、温かかった思い出が、異形の顎に噛み砕かれ、消えていく。
『蓮さん! バイタル低下、脳波が危険域です! 早く切り離して!』
サキの悲鳴のような通信が響く。今、この瞬間に仕留めなければ、蓮の心は空っぽの殻になってしまう。
一閃
「……高くついたが、これで満腹だろう?」
蓮の意識の端々から、大切な誰かの笑顔や、修行時代の師匠の小言が砂のようにこぼれ落ちていく。
その喪失感と引き換えに、目の前の「飢餓体」は蓮の重苦しい記憶を貪り、肥大化してその核を露わにした。
「サキ、通信を切るなよ。……俺が俺じゃなくなっちまう前に、終わらせる」
蓮は折れそうな膝を叩き、錆びついた愛刀「錆丸」を正眼に構えた。
刀身が蓮の血と精神を吸い上げ、これまでにないほど禍々しく、そして透徹した蒼い炎を纏う。
『ア……ギ……美味イ、モット、絶望ヲ……!』
「悪いな。デザートは、こいつだ」
蓮の身体が加速する。40代の衰え始めた肉体を、退魔の術式で無理やり駆動させ、空間を置き去りにするような踏み込み。
「——錆びろ。その乾きも、叫びも」
一閃。
蒼い軌跡が地下通路の闇を裂き、実体化した異形の核を真っ向から両断した。
断末魔すら上げさせない。ただ、乾いた風が吹き抜けるように、巨大な怪異は黒い塵となって崩れ去り、湿ったコンクリートへと吸い込まれていった。
静寂が戻った地下通路。
蓮は壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。右手で握った錆丸は、主の命を吸い尽くした満足感からか、元の薄汚れた鉄屑に戻っている。
「……サキ。聞こえるか」
『……蓮さん! 無事ですか!? バイタル、戻ってきています。でも、その……』
サキの声が震えている。蓮は、自分の頭の中にある「空白」をそっと撫でるように確認した。
「ああ……大丈夫だ。ただ、少しだけ思い出せない。……俺が、さっきまで何を一番大切にしてたのか。……誰を、守りたかったのか」
足元には、異形から解放された女性が、微かに寝息を立てて横たわっている。
彼女を救った。その事実は残っているが、それを喜ぶための「感情の拠り所」を、彼は失ってしまった。
蓮は震える手で、ポケットに残っていた最後の煙草に火をつけた。
紫煙が漂う中、彼は自分が何のために戦っているのか、その理由すら霧に包まれていくのを感じていた。
それから数日後。
蓮は記憶の空白を埋められないまま、次の依頼に向けて準備を進めていた。事務所のドアベルが、乾いた音を立てて鳴る。
「サキ、来客だ。俺は手が離せな……」
蓮が振り返った先に立っていたのは、見覚えのある女性だった。新宿の地下で「飢餓体」に憑りつかれていた、あの娘だ。
彼女は救出された後、保護施設で精神的なケアを受けていたはずだが、今は静かな表情で蓮を見つめている。
「……何の用だ。ここは、あんたみたいな一般人が来るところじゃない」
蓮は感情の乗らない声で冷たく突き放す。彼は彼女を助けた「事実」は覚えていても、その時の切迫した感情や、自身の記憶を差し出したという行為の重みを思い出せずにいた。
女性は怯むことなく、蓮の目を見つめ返した。
「あの……私、全部は思い出せないんです。でも……」
彼女は、はっと息を呑むように言葉を詰まらせた。
蓮の腰に下げられた、錆びついた刀「錆丸」を見つめている。
「……あなたから、すごく『懐かしい匂い』がする」
蓮は眉をひそめた。錆丸は血と呪いの匂いしかしないはずだ。
「この間、私が怖がっていた時、あなた……私の手を、握ってくれましたよね?」
蓮は言葉を失った。
あの時、彼は女性に触れていない。触れれば異形に意識を食われる危険があったからだ。彼は冷徹に、ただ記憶を差し出して斬っただけだ。
『蓮さん、彼女の記憶……私たちが介入した影響で、混濁しているのかもしれません』と、シキの声が通信越しに響く。
女性は続けた。
「その手に持ってる刀、本当はとても……優しい匂いがするんです。誰かを守ろうとする人の匂い」
彼女の言葉は、蓮の記憶の空白に、新しい意味を与えようとしていた。
彼は失ったのだ。
自分の最も「人間」らしい部分、誰かを守りたいと願う純粋な感情と記憶を、異形に食わせてしまったのだ。
「……帰れ」
蓮は背を向けた。彼女の言葉を受け止めるのが、今はあまりにも辛かった。
女性は、黙って頭を下げ、事務所を後にした。
ドアが閉まり、再び静寂が戻る。
蓮は、自分の掌を見つめた。
そこにはもう、彼女が言うような「優しい匂い」も、「誰かを守る」という記憶もない。
残っているのは、戦い続けるための業と、錆びついた刀だけ。
蓮は煙草に火をつけ、灰色の煙の中に、失われた記憶の断片を探そうとした。




