空いた席
その夜、酒場はいつもより静かだった。
静か、というより、
一つ足りない感じがする。
理由はすぐに分かった。
カウンターの端の席が、空いている。
いつも、誰かが座っていた場所だ。
「……今日、あいつ来てませんね」
俺が言うと、
店主はグラスを磨きながら答えた。
「今朝、発った」
「どこへ?」
「北だ」
それだけだった。
特別な別れはなかったらしい。
荷物も少なかったそうだ。
「長居しなかったな」
「すると思ったか?」
「ちょっとだけ」
店主は鼻で笑った。
「そういう奴ほど、
急にいなくなる」
俺は、空いた席を見る。
別に、知り合いというほどでもない。
名前も、聞いていない。
だが、
そこにいないのは、妙に目につく。
「……この街、居心地いいですね」
「そうか?」
「静かで、
酒も悪くなくて」
「で?」
「……長居すると、癖になります」
その言葉を口にした瞬間、
どこかで聞いた気がした。
誰の言葉だったか、
すぐに思い出せた。
獣人だ。
「癖になる、か」
店主は、グラスを置いた。
「悪いことじゃねえ」
「ええ」
「だがな」
少し、間があった。
「癖になる前に出るのも、
悪くねえ」
それは、
店主にしては、珍しい言い方だった。
俺は、黙って酒を飲む。
葡萄の涙。
この街で、何度か飲んだ味だ。
最初より、
だいぶ軽く感じる。
「……慣れました」
「それが、癖だ」
店主は、あっさり言った。
空いた席は、
最後まで埋まらなかった。
その夜、
俺は宿に戻って、荷物をまとめた。
大した量じゃない。
酒場で稼いだ分で、
しばらくは困らない。
「次は、どこ行くんですか」
宿の主人に聞かれた。
「さあ」
本心だった。
ただ、
同じ街に、
長くいる理由はなかった。
翌朝、
酒場の前を通る。
まだ、扉は閉まっている。
「世話になりました」
誰に向けてでもなく、
そう言って、
俺は歩き出した。




