モス爺の工房で
ぼくはさっそく宿の下働きを辞めることを伝えた。
モス爺の工房で住み込みで働くことにしたから、と。
おかみさんたちにしてみれば、余計な給金を払わずに済むし、部屋も空く。
きっと喜ばれるとおもっていた。
なのに。
「お、おかみさん、泣かないでよ」
おかみさんは丸い背中を丸めてぼくに謝っていた。
「あんたにそんなふうに気を使わせて、あたしは自分が情けないよ」
「ごめんね。私が出戻ったせいで」
ニイナさんもしょんぼりしている。
おやじさんに助けを求める視線を向けたけど、目をつぶって唇を引き結んでいて気づいてもくれない。
「ええと、ぼくは本当に感謝してるんだよ?おかげでよそでも働ける自信がついたんだ」
懸命にとりなすが、余計におかみさんは泣くし、おやじさんまで!
「モス爺の工房は近いし、あえなくなるわけじゃないよ?」
それにここより仕事は少なそう。
「じゃあ!ここから通えばいいじゃない!」
ニイナさんがいいことを思いついたとばかりに手を打ち合わせた。
「無理無理!そんなお金はないよ!」
あっても別のことに使うよ。
「そうだね!あの屋根裏ならただでいいよ!」
おかみさんが顔を輝かせた。
「よくないでしょう!宿屋が部屋をただにしちゃ!」
慌てて口をはさむ。
だってそれじゃあただの居候だ。
結局、格安の銀貨三枚で屋根裏を使わせてもらうことになった。
しかも賄いの夕食付きだ。
*
「というわけで、住み込みはなしでおねがい」
そうモス爺に伝えると、笑われた。
「親の心子知らずじゃな。ローエンは愛されておるよ」
「うん」
「馬鹿な子ほど可愛いともいう」
モス爺の白くなった髪はキチンとなでつけられていて、職人というより執事みたいだ。
見た目は上品なのに口は悪い。
「ちぇっ」
こうして、ぼくはモス爺の工房へ通うようになった。
*
モス爺の修理工房はおもったより繁盛していた。
訪れる客がすくないのは、出張の依頼が多いせいだった。
たとえば宿にもあった冷蔵の魔道具。
壊れたとしても、あれをもってここまでくるのは困難だろう。
基本的にぼくは留守番だ。
持ち込みの品の預かり表をつくり、見積もりをモス爺に見てもらう。
修理の終わった品を渡して、お金を受け取る。
経費や収入を帳簿につける。
「これをモス爺ひとりでやってたのかあ」
ぼくは改めてモス爺を尊敬した。
工房での仕事はぼくに向いていた。
半ば同情で雇ってくれたらしいモス爺がびっくりするほどに。
「ローエンは計算が早くて字がきれいだな。ちゃんと学んできたことがわかる」
「まあ、一応はね」
貴族家出身ですから。
勉強はさせられたよ。
*
緑の小鳩亭から工房へ出勤して、昼は居住区画のキッチンでモス爺と食べる。
以前は食堂に来てたけど、ぼくが簡単なものを作るようになってからは工房で食べるようになった。
「このあいだのりんごの絵は孫に贈ったんじゃ」
「えー、喜んでもらえるかなあ」
謙遜しながらも頬が緩む。
モス爺はちょこちょこ絵を買い取ってくれる。
買わなくても全部見て褒めてくれる。
ぼくの絵を全部みたことがあるのはモス爺とケビンだけだ。
ケビンはもう五歳になった。
休みの日は預かって屋根裏で遊ばせている。
ふだんやんちゃなのに、屋根裏ではケビンはすごくいい子だ。
静かに描き貯めた絵をみたり、ぼくが描いているのをみたり、とにかく静かだ。
絵が好き仲間になれるかもしれない。
ぼくは紙と墨、水彩の絵の具の使い方を教えた。
「ローエン!」
黄色の丸に手足の生えたものが四角くの前でうねっている。
ぼくを描いてくれたのか。
子どものときにしか描けない大胆な絵だ。
「ありがとう!ケビン!宝物にするね!」
*
工房に転職して五年が過ぎた。
「おはよう、ローエン、寝坊?」
なぜかケビンがうれしそうだ。
「おはようケビン!起きてたよ!絵を描いてたんだ!」
顔を洗うのは省略。
「行ってきます」
朝食の準備に忙しい厨房に声をかけて出る。
緑の小鳩亭は三階建てで二階と三階に12の部屋がある。
食堂も流行っている。
七歳になったケビンは立派な労働力だ。
働き始めた十五のぼくよりずっと役に立っている。
ぼくは夏の朝の眩しい日差しを浴びながら、工房へ急いだ。
半袖の白いシャツにベージュの七分丈のコットンパンツ。
いつもの格好だ。
「おはよう、モス爺!」
返事はない。
ぼくは居住部分へ回り込んだ。
「モス爺?」
おかしい。
もう起きて朝のコーヒーを飲んでいる時間だ。
ぼくは一瞬ためらって、窓を割った。
平和な町に似合わないガラスの砕ける大きな音が響いた。
「モス爺!寝坊?」
二階のモス爺の寝室へ向かう。
「モス爺!」
階段を上がってすぐの廊下で、モス爺は倒れていた。