世界は変わらず美しく、恐れるものはなにもない
「ベーコンエッグ」
どんと大きな
ベーコンの油がぱちぱち、はみ出たところはカリッと卵と接するところは柔らかい。
半透明の白身のベールをかぶった黄身が透けている。
ぼくは何度か見返して、筆をおいた。
「おいしく描けた!よかったらたべて」
当然返事はない。
もう店を開ける時間だ。
筆を洗って工房に行かないと。
「あ」
ぼくは目を疑った。
さっき描いたばかりの絵がじわじわと消えていくところだった。
「ヴィゴ!ヴィゴ!モス爺!はやくきて!大変だ!」
叫び声を聞きつけてヴィゴが飛び込んできた。
ハムエッグはすでに半分ぐらいが白地に戻っている。
「なにかみえる?!」
「ああ!」
ヴィゴは手を伸ばしてなにかを掴もうとしているようだ。
ぼくにはただ手を握ったり開いたりしているようにしかみえない。
モス爺が庭からゆっくりと入ってきた。
ぼくたちが見守るなか、ベーコンエッグは消えた。
「虫もいなくなった」
どこか残念そうに、ヴィゴがぽつりとつぶやいた。
「食べられちゃったね、ほんとに」
不思議すぎてなんだか可笑しくて、ぼくは笑った。
「ローエンのおかげで面白いものが見えたのぉ」
モス爺も嬉しそうだ。
「どんな形だった?虫だった?」
「赤色の毛糸が絡まったみたいな玉に尖った鼻と小さい口、目があった」
「いいなあ。ぼくもみたかった」
なにそれ、かわいい。
ぼくの想像通りだ。
想像?
ぼくはスケッチブックを探した。
「ヴィゴ!これみて!」
以前にクレヨンで描いた謎の生き物の想像図を、ヴィゴの鼻先に突きつける。
ヴィゴは青い目をまるくした。
*
ぼくとヴィゴは工房で仕事を始めたものの、急ぎの仕事がないのをいいことに、さっきの出来事を話していた。
モス爺はアトリエで魔道具の設計図を描いている。
魔道具を作るのに必要な魔力のなかったモス爺は修理専門でやってきた。
だけど今はヴィゴがいる。
モス爺の設計した魔道具をヴィゴが作ってくれるのだ。
<一定の時間ごとに圧の変わるマットレス>はすでに試作されてモス爺が使っている。
寝返りをうつのが大変になったモス爺ならではの発明だ。
「もともと、形は決まっていないのかもな」
「ぼくが考えた姿を気に入ってくれたんだね!」
「そうだな。あるいはローエンが信じたからその姿になったか」
ぼくは見えないのに?
ヴィゴの話は難しい。
だけど、芋虫より毛玉のほうがずっとかわいい。
「このこと、魔術学校に報告するか?」
ヴィゴがためらいがちに尋ねた。
「料理の絵もそうだが、虫、じゃなくて毛玉に形を与えられたと知れば飛んでくるだろうな」
「また金貨がもらえる?」
「ああ。それにもっといい条件で招聘されるだろうな」
招聘。
仕事に呼ばれるってことか。
「内緒にしておいてもいいのかな。できればまだここに居たいんだけど」
前の時はヴィゴがすぐに連絡したっけ。
「もちろんだ。一度は報告して義務は果たした。これからもよろしく」
どこかほっとしたようにヴィゴは答えて、ちょっと微笑んだ。
微笑んだ?!
ぼくは驚いてぽかんとみつめた。
一緒に働きだして半年、ぼくは初めてヴィゴが笑うのをみた。
笑顔を作り慣れていない少年みたいなぎこちなさが、なんだかすごくヴィゴらしい。
「ええと、よろしく。謎の毛玉がみえたら、また教えてよ」
*
ぼくは久しぶりに生家に手紙を書いた。
今は魔道具の工房で住み込みで働いていること。
楽しく絵を描いていること。
毛玉ちゃんという可愛いペットがいること。
手紙の〆はいつもと同じだ。
楽しくやってるから安心してほしい。
ヴィゴは出張修理にでている。
ぼくはモス爺に神殿に手紙を預けに行くこと、ついでに市場に寄ることを伝えた。
今日の晩御飯はミートボールのトマト煮だ。
宿のおやじさんが教えてくれたおいしいやつだ。
「ケビンにお菓子を買って、宿に顔をだそうかな」
おかみさんにつかまるとまた絵ばっかり描いてと怒られそうだけど。
責任ある仕事や、ちゃんとした家庭。
そういったことより、気楽に働いて絵を描きたい。
だから、きっとずっとはいられない。
仲良くはなっても、ぼくと違って地に足の着いた人たちだ。
「ここを出ることになっても、魔術学校があるというのは心強いなあ」
ミートボールを描いたら毛玉ちゃんは食べるだろうか。
「雑貨屋にも行こうかな」
ぼくは足取り軽く歩き出した。
急に秋めいてきた風に雲が流れていく。
世界は変わらず美しく、恐れるものはなにもなかった。