マスターと茂さん
チリンチリン
扉につけられた小さな鐘が小さな音を響かせる。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの中にいるマスターらしき人が入店した和栗へと声をかける。
喫茶店の中は思ったよりもこじんまりとしていて、2人掛けのテーブル席と4人掛けのテーブル席がそれぞれ一つずつ。それにカウンターの席が4つと、まるで隠れ家のような小さなお店であった。そして、店内にはコーヒーの香りが漂い(喫茶店なのだから当然であるが)、ショパンだかモーツァルトだかのクラシック音楽の音色が奏でられている。個人店ならではの非常に落ち着いた雰囲気で、チェーン店にはない心休まる温かい空気(チェーン店にもチェーン店の良さがあるとは思うが、この店の場合はお店が小規模であるが故の落ち着いた雰囲気があるということであろう)が店内を満しているようであった。
カウンターにはマスターらしき男の人が、白いカップを布で拭いて磨いている。おそらく年齢は30代前半。この店の雰囲気にあった落ち着いた佇まいの男性である。身長はすらりと高く、短髪の黒髪の中にはところどころ白い髪の毛が混ざっている。いわゆる若白髪というものなのである。若白髪は将来お金持ちになるだの、天才であるだのというジンクスがよく囁かれるが、それは若白髪の原因がストレスだと考えられているからであろう。総じて若白髪の多い人は苦労や努力をしている人が多い。そうした努力や苦労をしている人は将来成功するだろう、いや、そう人こそ報われてほしいという一種の願望のようなものがこのジンクスを支えているといえる。とはいえ、若白髪の原因としては遺伝も考えられるため一概に若白髪を多く持っている人が苦労をしている人だと断定することはできないのである。
マスターの若白髪がマスターの苦労や努力によるストレスからのものなのか、それとも遺伝によるものなのかはわからないが、ところどころに散りばめられたその白髪がマスターをおしゃれに着飾っているということだけは確かである。
和栗がお店の中を見渡すと、お店の中には、60代ぐらいの男性客がカウンターに1人と、2人掛けのテーブル席に、近所の主婦だろうか、2人組のご婦人が座っている。男性客は何かマスターに話しかけながら、ご婦人たちはお互いに会話に花を咲かせながら、コーヒーを啜っている。
1人で4人掛けのテーブル席を占領するわけにはいかないので、カウンターにいる男性客とひとつ離れた席に座ると、すぐにマスターが冷えた水をコップに注ぎ提供する。
長く外を歩き続けて、少し汗をかいていたこともあり、和栗は一息にそれを飲み干す。喉を潤すその水は、大袈裟ではなく和栗にとっては、砂漠の中を歩き回ってやっと見つけたオアシスのようにさえ感じられる。よく考えれば、なぜこんなにも暑いのに飲み物を飲むことを我慢していたのだろうかと自分自身に問いかけ、それはこの水を最も美味しく飲むためだったのだと自分で結論づけて納得する。
「おお、お嬢さん。いい飲みっぷりだねえ。」
カウンターにいた男性客が和栗を見ながら、感嘆の声を上げる。喫茶店で一番最初に出される水をここまで一気に、それも美味しそうに飲み干す客をあまり見たことがないのであろう。和栗も見たことがない。いや、その客は今の自分自身なのであるが。
和栗は少し恥ずかしそうにしながらその男性に向かって会釈する。気さくそうに和栗に話しかけたその男性は、丸い眼鏡をかけマスターよりも白髪の目立つ(と言っても、マスターとの若白髪とは違い、歳を重ねたことによる白髪であるが)初老の穏やかな笑顔を見せる人であった。先ほどまでマスターと何やら話をしていたのだが、和栗がきたことでその会話を一時中断したのである。何やら五月病が何ちゃらという話をしていたように聞こえた。
「お嬢さん、初めて見る顔だね。このお店は初めてかい?」
その男性客は、続けて和栗に話しかける。
(お嬢さんという年齢でもないんだけどな。)
そう思いながら、はいと笑顔で受け応える。和栗は今年で27歳になる女性である。世間的にお嬢さんという言葉が何歳までの女性を指す言葉なのかはわからないが、まあこの男性客の年齢を考えると、和栗はまだお嬢さんという歳に収まるのだろう。それに、和栗は年齢の割に見た目が幼いとよく言われる。身長が小さいということもあるが、顔立ちが童顔なのだろう。上司には、「俺らの仕事は相手に舐められたらおしまいなんだ。もっと気を張った顔をしろ!」と言われるが、生まれついての顔に文句を言われたってしょうがないと和栗は常々思っている。
「ここのコーヒーは美味いよ。マスターが選んだ、とっておきの豆をマスターがブレンドして提供しているんだ。チェーン店なんかのコーヒーとは深みが違うよ。あとはなんて言ってもカレーが絶品だ。これもマスターのこだわりなんだけどね。喫茶店のマスターなのに、スパイスから調合してカレーを作っているんだ。ほら、店内にもほのかなスパイスの香りがしているだろう?どうだい?」
その男性は和栗を見ながら、店のおすすめを語り出す。言われてみると確かに、スパイスの香りがコーヒーの深い香りの奥に見え隠れしている。喫茶店でカレーを出す店は多くあるという。それはカレーとコーヒーという、この二つの組み合わせが絶妙だからである。実際、カレーの隠し味でインスタントのコーヒーを入れるというレシピは世の中にごまんとある。カレーのコクとコーヒーの苦味がうまくマッチしているのだろう。それでも、喫茶店でスパイスカレーを、それもマスターが自分で調合して作っているお店など聞いたことがない。この広い日本中を探せばどこかには存在しているのかもしれないが、それでも珍しいことには変わりないだろう。
「茂さん。あまり困らせないでください。初めてのお客様なんですから。」
カウンターのマスターがその男性客に軽く注意する。すると、笑顔で「ごめんな」、と少し照れたように和栗に謝る。おそらく常連なのだろう。マスターが名前で呼んで気さくに話していることからも2人の付き合いが深いことが窺える。
「すみませんね。いい人なんですけど、おせっかい焼きで。」
マスターが和栗の空いたコップに再び水を注ぎながら話す。銀色のサーバーからは光り輝く水が、再び和栗のコップに注がれる。だが、喫茶店に来て何度も水をおかわりするわけにはいかない。マスターに感謝を述べつつ軽く会釈する。
「メニューはこちらにありますので、決まったらお声がけください。」
マスターは卓上のメニューを指しながら、笑顔で会釈するとカウンターの奥へと戻り、それと同時に茂さんと呼ばれていた男性と会話を再開した。
(そういえば、ずっと聞き込み調査をしていたからお昼をまだ食べていないんだった。茂さん?が言っていたカレーも気になるけど、まずはやっぱりモンブランだよね。店名にもなっているくらいだし、絶対美味しいはず。)
そう心を躍らせながら、和栗はメニューを見る。
語部和栗。その名前にも入っている通り、和栗は栗を使った食べ物には目が無い。先ほどから話題のモンブランはもちろんのこと、栗ご飯や栗きんとん、栗羊羹や栗饅頭まで。和栗、西洋栗に関わらず色々な栗をこよなく愛している。その愛は常人に理解できるところを遥かに超えている。和栗は栗きんとんをおかずにして食べる栗ご飯が大好物である。常人にとっては、ただでさえ甘い栗きんとんに、栗ご飯を合わせて食べるなどどんな拷問だと思うだろう。それに栗ご飯には、しばしばごま塩をふりかけて栗の甘さを引き立てるという食べ方がされることもあるが、和栗はこれを嫌悪している。和栗に言わせれば栗ご飯にごま塩をかけるのは栗への冒涜だという。「ごま塩が栗の甘みを引き立てる?いいや、ごま塩は栗の旨味を邪魔している。」というのが和栗の持論である。ちなみに、完全に余談であるが和栗はスイカを食べるときには必ず塩をかけて食べる。
そんな和栗は、店名に掲げているほどのモンブランがどれほどのものであるのか、店に入る前からワクワクしながら入店していた。ちなみに、和栗がモンブラン山について詳しかったのは、栗が好きな所以でモンブランの名前に由来などを調べたことがあったためである。