急に嫌だった営業部へ異動を命じられた、そこのあなたに読んで欲しい。
辞令
「ぼくが営業・・・ですか?」
大学院で建築学修士課程を修了し新卒で商品企画課へ配属となった坂口あらたは、全く予想もしなかった営業という単語に思わずのけぞる。
二ケ月ほど前に、もう永遠の二十代とは口にできなくなったが、童顔を売りにあと一年は二十九で通そうと企んでいる、その顔に戸惑いが浮かぶ。
まさか而立の三十になったものの、なにひとつ自立できていないところに災いが降ってきた。
時刻は午前九時。社長室の窓を照らす由比ヶ浜に昇った朝陽がやけに眩しい。
右隣に立つ贅肉のない細身で長身の高見亮は、喉が詰まったようなかすれた声で小さく抗議の声をあげる。
「急にそんなこと言われても・・・」
山の神に劣らない根性の走り、と箱根駅伝の結果を伝えるスポーツ新聞一面カラーではなく、二面左下隅にシード権獲得の一文と共に苦虫を?み潰したような彼の顔が載ったことがある。
あの顔が、今、目の前で口を尖らせている。
彼は会社の強化クラブである駅伝部にスポーツ推薦枠で入社し商品管理課にいる。坂口と同期入社の有名人だが、挨拶を交わす程度で二人にほとんど絡みはない。
左隣で軽く足を交差させて立つショートヘアーでスリムな島津ペッサは困った顔、いや怒った顔をしている。
「あの・・・あたしなにかミスしました?それとも辞めろってことですか?」
大きな切れ長の瞳は吊り上がり、頬があっと言う間に赤々と染まる。
イタリアの大学を卒業後に現地採用となった彼女は、この神奈川県鎌倉市の本社輸出入課に属する。明日、三十路の誕生日をひとり北海道産の新鮮野菜料理にビールで祝う予定だ。
築五十五年の年輪を刻んだ本社の大きな窓からは贅沢なくらい四季折々に変化する海と空を堪能できる。社長の明智は、そんな由比ヶ浜に挨拶でもするように深々と一礼をすると、振り返って三人にこう告げる。
「新しい部をつくることになったの。あなたたちにはそこへ異動してもらうわ。期待してるわよ、よろしくね」
社長は食えない人と噂される一風変わった人である。
名刺には「明智園子」とある。一八〇センチは超える長身にピンクのワンピース、小顔にはキラキラした大きな瞳と真っ白な歯に濃赤に彩られた唇。その下に視線を移すと突き出た咽喉仏がやけに目立つ。
業界では「岩手県が生んだ天才デザイナー」と称される。
自らが震災で両親を失った絶望のどん底で、もくもくと桜をイメージした婦人服や子供服を作った。するとこの服を着た被災者の多くが、失っていた笑顔を取り戻し、見違えるほどに元気になって復興に向けて動き始めた。
東北の奇跡、と称され瞬く間に世界で注目を集めた。
国民栄誉賞にとの声が掛かると、「お前ら、そんな暇があるなら岩手の復興に汗を流せよ」と国会議員を怒鳴りつけた動画が、これまた世界で二十億回再生され、自然災害や戦争で苦しむ地域からデザインの依頼が殺到した。
ちなみに、社長は、あの織田信長を討った有名な戦国武将明智光秀の血筋らしい。
但し、自称である。真偽のほどは誰も知らない。
両親は先祖にならって光秀と命名したらしいが、今は園子である。このへんの事情を知る人もいない。
その変人社長からの突然の異動の打診、いや辞令通告である。
「ちょっと待ってください。ぼくも高見くんも島津さんも営業じゃないですよ?あ、営業ではありません。いったいなにを売れって、あ、失礼しました。何を販売しろっておっしゃるんですか?」
文句を言っているつもりの坂口の口調は、おいって突っ込みたくなるほど丁寧である。
すると社長からニッと笑みが返ってくる。さらに左目を閉じてウインクを投げてきた。
「坂口ちゃん、そんな怖い顔をしないでよ。あたし、こう見えてもグラスハートなのよ」
「だれ・・・」が、グラスハートだ、それを言うならぼくの心臓こそひびの入ったグラスハートだ、と坂口は声には出せずもごもご口を動かす。
社長の紫色にネイルされている長い爪を持つ白く細い腕が、机の奥から真新しい茶封筒をひきだした。
「これは・・・」
高見の驚きのかすれた声が途切れる。
「そう、会長の遺書よ」
社長はさらりと言い放つ。
会長とは織田ゆみという謎の人物であり、うちの創業者である。
紳士服デザイナーとしてイタリアで名を馳せると米国や欧州の政治家や映画俳優、ミュージシャンから注文が相次ぎ世界的に有名になった。
同時に恋多き女性として、「彼は素敵だったわ」などと次々に実名を公表するものだからマスコミから取材依頼が絶えなかった。盗み撮りばかりなのにキスをしている写真が本になった。増刷増刷で世界的なベストセラーとなると、ついにはニューヨークで写真展が開催された。額に入ったキスシーンが三百枚、会場にはたった五日間で十万人以上が来場した。
「まるで催眠術にかかっていたみたい。一枚一枚にどんどん心が吸い寄せられて、感動してなんども泣いたわ。でもね・・・会場を出た瞬間に、どんな写真があったか思い出せないのよ、たったの一枚も」
来場者の、この異口同音の感想はSNSで拡散した。
場内の撮影は禁止、パンフレットはない。
つまり展示された写真は、来場者だけが会場内だけで目にするしか方法はなかった。
最終日は、前夜から行列ができ来場者数は三万人を超えた。
「もう二度としないわよ」
会長の、この一言で写真展は一度っきりとなった。
米国大統領の要請さえも跳ね返した。
年齢不詳、私生活を知る者もいない。
ただし、ひとつだけ公にしていたことがある。
ご丁寧に家系図まで持ち出して、正真正銘の織田信長の血筋であると豪語していた。
その会長は十日前にがんで死去した。
「五臓六腑に含まれない臓器だからしょうがないわね」とクイズみたいな言葉を遺して大好きな日本酒に溺れて笑顔で旅立ったらしい。
差し出された遺書を受け取った坂口の手が少し震える。
万年筆のインクが滲んでいる文字からは、指先の痙攣があったのかもしれないと闘病の模様が思い起こされて、坂口の胸にちくっと痛みが走る。
『自宅倉庫に私の宝物があるの
それをあなたたちだけに託すわ
よろしくね
商品企画課 坂口あらたさん
商品管理課 高見亮さん
輸出入課 島津ペッサさん
織田ゆみ』
「蒼穹が広がる素敵な秋空の日にね、大きな虹が掛かって、その下を舞う鳥をジッと目で追った後に、突然、何も語らずに、それだけ書き残したのよ」
その場に居合わせたという社長は、三人に背を向けている。
なにか言い知れぬ寂しさをまとっている。
紹介が遅れたが、当社は株式会社バッジョ。未上場ながら紳士服と婦人服と子供服の各分野で大手が嫌いそうな個性が強すぎるデザインの商品を好んで扱う異色企業として、今や業界ではONLYワンの魅惑を放つ。さらに商社の看板を掲げているもののプライベートブランド製品の売上が八割を超えるなど、世界中のブランドを脅かす存在となっている。
さらに独特のセンスを持ちながらも組織に馴染めない曲者建築家やデザイナーを積極的に採用し店舗のデザインや建築の分野にも進出すると、次々と世界的な賞を受賞した。
その偉大な創業者織田ゆみが、なぜか会社の行事ぐらいでしか顔を合わせたことがない、直接会話を交わしたこともない三人宛で遺書を残した。
「なんで?あたしたちなんですか?」
ペッサは坂口と高見の心の声を代弁する。
「あたしなんか、是非この会社に入社をご検討くださいって連絡があったから、今ここにいるだけで営業がしたいなんて言ったことないですけど」
「俺も駅伝部があるからって誘われただけで・・・」
遠慮がちに高見が口を尖らす。
「ぼくも建築設計やデザインの部門へ是非って案内があったから・・・」
坂口の声は、さらに遠慮がちでほとんど聞き取れない。
「知らないわよ、そんなこと。でも、知ってるかしら、遺言って絶対なのよ。嫌とは言えないの。だって文句を言う相手は、もうあそこだから」
人差し指を上に向けた社長は満面の笑みである。
三人は同時に天井を、いや天上を見上げる。
坂口あらた
「営業は楽しいわよ」
赤門のある大学に現役合格し、世界一の広告ウーマンになると意気込んで大手広告代理店に入社した姉が、好物のストロベリーチョコを口に含み、大きな瞳をキラキラさせている。
「ふーん」
興味のないあらたは愛想の欠片もなく返す。
姉のことは嫌いじゃない。傍からは小さい頃から仲良し姉弟に見えてもいたはずだ。
でも本当は、成長するにつれてどんどん距離が離れていった。
成績は小学生の時からずっと学年一番。県大会の記録を持つ陸上選手でバイオリンの名手。生徒会長に推されてもいつも書記にまわって支える役目を積極的にこなす。母に代わって作る煮物料理は絶品だ。
「あらたの姉ちゃん、いつも全力疾走だな。疲れないのかな。顔は似てるのに美人だし。なんか、どん臭いお前の分まで生きてるって感じだよな」
友達からそう声を掛けられるたびに、ひ弱で子供の頃から入退院を繰り返し運動も音楽もオンチでこれといった取柄のないあらたは劣等感に包まれていた。
「どうせぼくなんか・・・」
誰にも聞こえない声で愚痴をこぼすたびに、自分の存在が小さくなっていくように感じていた。
思春期に入ると、眩しすぎる彼女から逃げるようにすれ違う生活を心がけた。
「あらた、上手ね!」
中学一年夏休み、製図の宿題に夢中になっていると背中から覗き込む姉の感嘆の声に心臓が止まりそうに驚いた。
「なんだよ。見るなよ」
両手を広げて図面を覆い隠す。
「はい、珈琲。お姉ちゃん特製よ。いくつもの豆をブレンドしてるから世界で一つしかない味。美味しいはずよ」
甘みと少しの苦みが混じりあった香りは鼻孔を心地よく刺激する。
「うっま!」
絶対に褒めないって決めていたのに、口に含んで喉を通過する前に感嘆の言葉が漏れた。
「でしょう」
ちょっと自慢顔の姉は、もう一度、あらたの手元に目をやる。
「それにしても、本当に上手よね。だって、それ定規も使わずに描いてるんでしょう。フリーハンドだよね。あらたって天才かもよ。あたしとは右脳の構造が違うのかな?」
「もう、見るなよ」
どうせ左脳の構造には埋めがたい差がありますよ。
ぶつぶつつぶやいたあらたは、蚊を払うように手を振る。
「早く、あっちにいけよ」
小学生の頃にも同じようなことがあった。二階の窓から望む街の風景画を描いているときだ。
「なんで、あらたは、そんなに綺麗な真っ直ぐな線が描けるの?その縦の線も横の線も斜めの線も。それ凄いよ」
「そうかな?」
戸惑い気味に応えるあらたに姉は絶賛の言葉を浴びせる。
「凄い、凄い。あたしには絶対描けないもん」
表情と口調からお世辞ではなく素直な心の声だとわかった。
生まれて初めて姉に勝るものを発見した感動の瞬間だった。
その感動にすがる思いで、中学生になっても高校生になっても白い画用紙にキャンパスに線を描き続けた。
こうして漠然と建築家の道を目指して大学に進んだ。どこまでも透き通る五月晴れの空の下で、緑が眩しいキャンパスの芝に寝転びうたた寝をしているあらたの携帯が震えた。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが・・・救急車で・・」
混乱した母の声は、嗚咽と共に漏れた。
まだ冬の冷たさが残る砂浜を春の陽射しが優しく照らす由比ヶ浜の朝、女性は仰向けに空を見上げていた。初夏を満喫しようとしているかのように両足はさざ波に濡れていた。
朝方の小雨が虹を描き、彼女を包みこんでいた。
早朝の海岸を散歩する誰しもが横たわる女性の姿を一幅の名画のように遠くから眺めていた。初老の女性が連れていた犬が悲しそうに吠えるまでは。
紺のスーツ姿で靴も履いたままの彼女は綺麗に化粧が施され、目をつむったまま薄く笑みを浮かべていた。
そして指先が触れる新品と思われる鞄の中に、三百錠を越える薬の空き瓶が押し込まれていた。まるでその瓶たちは、黄泉の国への途方もない旅路をゆっくりゆっくり一歩一歩踏みしめて彼女が進んでいった証であるかのように不気味な威厳を醸していた。
「苦しかった?痛かった?」
もうなにも答えない姉に母は何度も尋ねた。
なにも考えられないあらたは、綺麗な字で「遺書」と書かれた花模様の封筒を手に取った。
「あらた・・・・・・・・・・・・・・・・お願いね」
あ~あ、よく寝た、と伸びをして笑顔を浮かべ跳び起きそうな姉は、もう目をさますことはなかった。
あらたは目が回り、狂ったように叫んだ。
「ぐおーーー」
激しい嘔吐と痙攣、目から血を流すと白目をむいて倒れた。
次に意識が戻ったのは病室で、天井は白いはずが赤く見えた。
意識をなくしても涙が流れていたらしい。顔中が褐色に濡れていた。
あらたは、それから半年の間、入退院を繰り返した。
「ぼくが殺したんだ、お姉ちゃんを」
呼吸するように、そう繰り返すあらたは病室でも自宅でも悪夢にうなされた。
「七月にお母さんと三人で温泉でも行こう」
十日前に携帯電話に届いたメッセージだった。
姉は会社でも敵なしの無双状態だった。
一年目で最優秀ニューヒロイン賞を受賞し、二年目に入ると大手クライアントを任され仕事量は倍増した。
負けず嫌いな性格と周囲の期待に応えようとする真面目さで成果を出し続けると、社内の評価は益々上昇した。
愚痴一つこぼさず、清潔感に満ちた笑顔で仕事をこなす姿は、いつしか同期や後輩たちからも憧れの存在と成っていった。
でも・・・本当は、あっちこっちが壊れていっていた。
そのことに上司も先輩も同僚も後輩も、そして自分さえも気づかずにいた。
三時間から一時間に睡眠時間が減っていった頃、身体が悲鳴を上げた。
今までみたく頭が回転しなくなって初めて愚痴を口にし始めた。
「もう眠りたい以外の感情を失った」
「明日が来るのが怖い」
「生きているために働いているのか、働くために生きているのかわからない」
同期の友達に綴り漏らしていた苦悩のメールは、一ケ月で二百通を超えていた。
それでも姉は、もがきながら仕事に向きあった。
「逃げちゃダメ、逃げちゃ・・・・」
食事も喉を通らず、自分がどこを歩いているかさえわからなくなっても、とにかく前に進み続けた。
「逃げていいんだ」
そう気がついたのは、自死する前日だった。
過労死認定、と正義ぶって注目だけを集めたいマスゴミどもは、会社を非難するふりをして姉を中傷していた。
「うつ病だろ。迷惑だよな」
「あー嫌だ。会社の評判が下がるわ」
「新人女のくせに表彰なんかされていい気になってたんじゃないの」
ちょっと前まで涙に頬を濡らしていた同僚の多くが、ざっくりと姉を冷たく切り捨てた。SNSには、面白おかしく姉をヒロインに祭りあげる賛辞と、知りもしないくせに性格や人格を否定する社会派エリート気取りの醜評が躍っていた。
「くそ!お前らになにがわかる!」
あらたは携帯を投げ捨てた。バキっと割れる音は、なぜか心地よかった。
急に大切な人を失った悲しみは、大切と感じていた人にしかわからない。
『当たり前だろ、お前の姉ちゃんは俺たちにとっては、どうでもいい他人だ。生きてても死んでても関係ねーし』
そんな投稿が怖くて、言い返すこともできないあらたは、その日以来、ガラ携に替えてSNSの閲覧をやめた。
自死した姉の顔には苦しみも憎しみも怒りもなかった。ただ穏やかに微笑んでいた。
「お姉ちゃん、なんで・・・なんでなんだよ・・・」
夜空のどこかにいるかもしれない姉を探して、あらたはそっと胸に手を当てて訊ねる。
「ぼくは・・生きてていいのかな?」
高見亮
「たまには母さんと一緒に北海道に遊びにこいよ」
父の声は、寂しがり屋な一面を隠すかのように意味もなく明るい。
父は大学ラグビー界で華々しい活躍を見せると、強豪の飲料品メーカーの社会人チームに入社し一年目からレギュラーで出場した。しかし三年目に復帰が不可能となる大怪我をするとあっさり引退し営業に専念した。
花形部署と言われたウイスキー営業部に配属されると、他社との熾烈な販売競争に身を置いた。ほとんど休暇を取ることもなくがむしゃらに働いていた。
昼はウイスキー専門店や昼呑みができるレストランや料理店、夜は居酒屋やスナック、クラブから風俗店まで。ほぼ毎日仕事あがりは夜中の三時を廻っていた。
「このウイスキーに合うのは、このウインナーソーセージです」
「唐揚げの味付けが濃すぎますね。もう少し薄くして頂いた方が」
「水よりこのサイダーの方が渋みが出ます。グラスに七割の目安で」
失敗や批判を恐れない提案と持ち前の体力を活かしたマメな訪問と裏表のない笑顔は、店主やオーナーの心を掴んだ。
周囲を驚かす新規開拓を果たし、トップセールスマンの栄冠を毎年のように獲得した。
「いやいや、まだヒラが合ってますよ」
苦笑いを浮かべ、顔の前に手をかざし拒否する父を無視して社長が告げた。
「異例の昇進だ。札幌支店だ。どうだ、最年少支店長だぞ。よろしく頼むよ」
「いや・・うーん、じゃあ二年後ってことで」
「ダメだ、来月着任だ。支店の社員は、君がくるのを楽しみに待っている」
断りきれず、先生に叱られた子供のように、しょんぼりとした顔で父は帰宅した。
「札幌支店長だとさ。東京でよかったのになー。あーあ、単身赴任だ」
「おめでとう。凄いじゃない。亮と一緒にちょくちょく遊びにいくわよ」
母は心底喜んでいた。
「大丈夫よ。あたし浮気しないから」
大きな口で笑い飛ばす母の姿に、父は苦笑いを浮かべた。
「あのな・・・」
赴任一年目で、札幌支店は東京と大阪を抜いて最下位から全国一位の売上実績を残す優良支店に転じた。
「東京の本社で表彰式だって」
父は、また輝かしい栄冠を手にしたが、特段、嬉しい様子はない。
代わりに臨時のボーナスが支給された支店社員と、ペアのハワイ旅行券を貰った母は大喜びをしていた。
身体つきが母似で細く、足は父似で速かった亮は中学から陸上を始めた。父は自分と同じラグビーをして欲しかったはずだ。
でも陸上を選んだことを予想外に大喜びしてくれた。
仕事の合間を縫って、出張先からでも転勤先からでもたびたび競技会に駆けつけては勝利に涙し敗戦に涙していた。
亮は大学三年になると、やっと箱根駅伝のメンバー入りを果たした。
札幌にいた父は携帯の向こうで号泣していた。
「泣くなよ」
亮の言葉に、父は、また号泣した。
極寒の箱根路を登りきった往路のゴールには、高見亮と印刷されたタオルを持つ父の姿があった。
そして大学四年の最後の箱根駅伝でもメンバー入りを果たした。
「今年は、旗に亮の名前を印刷して持っていくぞ」
そう告げる父の声は、やはり震えていた。
「亮、本当に・・おめ・・でと・・う」
涙声はほとんど言葉にならず、電話口からは、小さく、ただ「う・・・」と聞こえた。
箱根路はみぞれまじりの雪に見舞われた。一歩が百歩に値するぐらい膝に腿に踵に負担が掛かり、もう自分の脚ではなくなっていた。それでも青春の全てをかけてきた陸上の思い出が走馬灯のそうに蘇り何かに背中を押された。
もう意識ももうろうとする中、往路のゴールには雪雲の間から強い光が漏れ、天使の梯子が掛かっていた。まるで完走を祝福してくれているように。
その向こうにはまるで大学名の一部であるかのように一番下に「亮」と印刷された旗が揺れていた。
大学時代の、いや青春時代の全てをかけた最後の箱根駅伝を走りきった。
「父さん」
身体中の力が抜け倒れ込む旗の下には、母の笑顔と、隣に・・・・・
父は、なぜかいなかった。
「行方不明、ですか?」
母の声は震えていた。
「箱根に行くって一昨日の晩に事務所を出てから連絡が取れないんですよ」
部下を名乗る男性が戸惑った声で答える。
「事故か何かでしょうか?」
母はやっとの思いで声を絞り出す。
「いや、てっきりそちらに行っていると思っていたので。これから警察にも届けますね」
「わかりました。ありがとうございます。わたしも明日の便でそちらに伺いますので、よろしくお願いします」
血の気が失せた表情を見せる母は、電話を切ってそのまま銀世界にうずくまった。
亮は、ただ茫然と視線を宙に投げた。
「父さん・・・・」
飛行機から見下ろす広大な大地は、眩しいほどの雪化粧をしていた。
「警察の方でも探してくれているので、すぐに見つかると思います」
「取引先には、支店の社員が当たりますので任せてください。大丈夫ですよ」
空港に迎えにきた父と同じような体格をした部下たちは、明るく母に言葉をかけた。
そして四日が過ぎた。
「今、道内の病院に電話で確認していますので」
余裕をなくした部下の声は暗くなっていた。
一週間後、また北海道全域が大雪に見舞われた。
「母さん、二人で探そう」
当てのない捜索が始まった。
無言のまま、ただ陽が登ると車は動き出し、陽が沈むと最寄りのホテルに到着する日々が続いた。
何日も何日も。
車中は静寂に包まれ、何時間走っても窓外には銀世界が広がっていた。まるで同じ場所をぐるぐる彷徨っているかのような錯覚に陥っていた。
消息が不明なまま三ケ月が過ぎると、父がいない春が到来し桜が開花を始めた。
亮は大学を卒業せずに、疲労から体調を崩した母を東京に戻し、ひとり延々と農地と牧草地と雑木林が広がる大地をひたすら探し続けた。
「父さんも仕事に疲れて逃げたかったのかもね。頑張っていたからね」
父を労う母の優しい言葉は、亮の心をざわつかせた。
生きているのか?死んでいるのか?事故なのか?犯罪に巻き込まれたのか?
それとも、まさか・・・どこかで誰かと楽しく暮らしているのか?
そんなことを考え始めると、時の経過と共に不安や悲しみってやつは諦めの箱に仕舞われて徐々に薄れていくものと思っていたのに、逆に言葉にできない不信と憎悪が倍増し、抑えきれない怒りが亮の身体を蝕んでいった。
記憶に刻まれた父の姿は全部が偽りで、真実なんてどこにもない気がしてきた。
大きく口をあけて声援をおくってくれていた父も、大粒の涙で顔中をびしょびしょにして号泣してくれていた父も、一直線に敵陣を切り裂きトライを決めていたラグビー選手の父も、トップセールスマンとして意気揚々と誰からも愛され楽しそうに仕事をしていた父も、なにもかもが嘘に思えてきた。
「お願いだ。死んでいてくれ。死んで俺の前に姿を現してくれ・・・頼むから・・」
そうやって吐き出さないと、亮の中に住みついている死神が時々、ナイフを手にする。
はっと気づいた時には、刃先は赤く染まり、服には鮮血が飛び散っていた。
「お願いだから、死んでいてくれ・・・そうでないと、俺は・・」
叫んでは嘔吐し、嘔吐しては叫んだ。
いつしか声帯を潰し、かすれた声さえ出なくなりつつあった。
「もう俺は・・・ダメだ」
亮は壊れかかっていた。
この頃、母の腕には無数の傷が見られた。
心を病んでいった母は、父を失った絶望と亮のために自死はできないという責任や愛情が複雑に絡み合い交差し、生きるバランスを失っていた。
一年後、吹雪に視界が遮られた洞爺湖から父が乗っていたと思われる車が発見された。
窓を閉め切った車内からは、深い湖の底で冷凍保存されたように父のコートと鞄、そして新千歳発羽田行きの航空券が見つかった。
でも、父の姿はなかった。
記憶の片隅で蝋人形のように表情をなくした父の唇が動いていた。
「亮、頑張れ」
亮は、何かにとりつかれたみたいに、いつまでも北の大地を当てもなく歩いた。
心のどこかで信じている・・・遺体でも語り掛ける声は届くと。
「父さん、俺は話したいことがあるんだよ。たくさん」
生きている意味を見失いつつある亮は、駅伝で鍛えた脚でいつまでもどこまでも雪道を踏みしめて歩いた。
島津ペッサ
「あたしもパパと一緒にイタリアへ行く」
商社勤務のパパの海外赴任が決まったのは中学二年だった。
「え?ついてきてくれるのか?」
破顔したパパの瞳が薄っすら濡れた。
「私は無理よ。行かないわよ」
戸惑いよりも怒りが滲む。目は吊り上がり、口はへの字にカーブしているその女は、生物学的にいうと母親と呼ばれる人間だ。
「せっかく大きな営業プロジェクトのリーダーに抜擢されたのよ。途中で投げ出せないわ」
怒気を強める女は吐き捨てるように言い放ちリビングを出て行った。
・・・なにが大きなプロジェクトよ。
「あたしは知ってるのよ」
記憶の彼方にしまい込んだあの日を思い出すと反吐が出る。
ちょうど一年前。思春期の入り口に立つと夜の街を歩くことが好きになった。煌びやかなドレスや身体の線を強調する原色のミニスカートで男を誘惑する女たちの姿は、大人の世界を垣間見ているようで興奮を覚えた。
その日は今にも泣きだしそうな厚い雲に覆われた夜だった。
繁華街の外れに建つ品のない光を放つホテルの前にはキスをする男女がいた。女の手は男の首に絡み、男の手は女の尻を揉んでいた。
抱擁を続ける男女にあたしは興奮を覚え釘付けになった。
でも、女が唇を離した瞬間、身体中に電気が走った。
「マ・・・マ?」
妖艶な笑みを浮かべ男に身を預けていたのは、紛れもなくこの十三年間、明るく家族を溺愛する母と妻の仮面を被っていた女だった。
「うそ・・・・」
そう呟くのが精一杯で、倒れ込むようにビルの陰に隠れた。
さっきまでとは違う興奮で、寒くもないのに極寒の地に裸で放り出されたみたいに身を震わせた。
絶叫しそうな口に右手の拳を突っ込み、声にならない叫び声をあげた。
突然、背筋が寒くなり胃にあったはずのハンバーガーが咽あがり地面にあふれ出た。
崩れ落ちて膝をつくと、次の瞬間、錆びついたビルの壁面に自分で顔面を叩きつけていた。
「なにしてるんだよ」
制止する友達の力を感じた時には、視界はどす黒い赤色に覆われていた。
遠くから救急車のサイレンが徐々に近づいてきた。
「傷は深いぞ。過呼吸だ。急いで病院に運ぶぞ」
救急隊員の声が遠くから聴こえた気がした。
しばらくして意識を取り戻すと、目の前に点滴の管が繋がれていた。
目を閉じると、妖艶なあの女の顔が浮かんだ。
その日以来、あの女との会話はない。
「彼、一緒に新規事業をやっている営業パートナー。優秀なのよ」
ホテルの前で絡み合っていたあの男を平然とパパに紹介するあの女の姿に、性善説の嘘と性悪説の真をみた気がした。
「なんか雰囲気かわったよね」
学校では周囲が口を揃えて、そう言ってきた。
「お前、最近目つきがヤバいぞ」
目を細めながら、そう忠告してくる男友達もいた。
大人の階段を登る思春期に甘酸っぱい苦しみと悲しみ、くだらなくて意味もないことにワクワクドキドキと心を震わせて出来あがっていく性格や感性や思考は、母と不倫と憎と汚と女って漢字がガチャして、急にいびつな形で凝り固まってしまった。
すると、懐にはナイフをいつも忍ばせ、弱い自分を隠すために肩で風を切っては屁理屈を人一倍口にする面倒くさい女が、そこにいた。
少年漫画に氾濫するヌードも強姦シーンも、少女漫画で美化されるプラトニックラブも純愛を装う男への服従も、絶対に許せなくなっていった。
同時に女という性を否定したくて男という性癖を許せなくて、男とも女とも関係を持とうとしたが、ここぞってときに決まってあの女の顔が浮かんでは嘔吐した。
「営業会議があるから明日は空港に見送りに行けないわ。ごめんね」
心にもない「ごめんね」を口にして、手を合わせてパパに声をかけるあの女の後ろ姿を見たのも声を聴いたのも、その日が最後だった。
イタリアに渡って二年後にあの女から離婚届が届いた。
「きっとパパが仕事ばっかりしてたからかな・・・・」
うなだれて頭をさげるパパ。
「バカじゃないの。なんでこっちから捨てなかったのよ・・・あんな女!」
パパがみじめに思えた。
親は選べないから、そんな当たり前の決まり文句では片付けられない、まるで生ものが腐ったような匂いが身体から洩れてきた。
ヴェネツィアの大学に進学すると、一人で生活を始めた。
「この服も、この靴も。この鞄は?いいや、これもこれも!」
あの女の面影を少しでも感じるものは全て焼いた。
新しい自分に生まれ変わりたいと、神を信じる心もないまま毎週教会にも通った。
ただ雨にうたれ、風にふかれ、強い陽射しをあびて、自然の流れに身を任せた。
すると、いつしか身体に潜む汚いもの、あの女の遺伝子が汗や尿に混じって掃きだされていくように感じられた。
もうすっかり記憶が刷新されたはずの一年後の三月十九日、イタリアの父の日に、信じ始めていた神から思いもよらない便りが届いた。
『お父さんが車の事故で・・・』
営業先に向かうパパの車は、居眠り運転の大型トラックに跡形もなく粉々にされた。
『残念です。お父さんは営業センスも抜群で本当に優秀な商社マンでした』
葬儀では会社の同僚から、慰めのつもりか言い訳のつもりか、そんな意味のない賞賛の言葉が並んだ。
「神様もバカね。もう少しでファンが一人増えたのに。やっぱりあなたとは縁がなかったみたいね」
瞳からは不思議と涙はでなかった。
葬儀の日、鮮やかな虹がかかった。
あなたは虹に呪われてるのよ!
虹がそうささやいているような気がした。
以来、苦しいときに限って鮮やかな虹が姿を現した。
孤独感と絶望感に襲われ、閉塞感がじわじわと頭をもたげると、ただ時を忘れてベットに横たわった。
「パパもあの女と同じね。営業、営業って。あたしのことなんか頭の片隅にもなかったでしょ」
腹が鳴った。でもなにも口にしないと空腹感はすぐに消え去った。
それでも喉がからからに渇くと時々水を飲む。すると脳がトイレに行けと指示をだす。
湿ったベット、生温い水、ミントの香りがするトイレ。
その空間にだけ生きていた。
二十四時間が過ぎると日付が変わり、三十回朝を迎えるとカレンダーが一枚めくられた。
翌月は曇り空が多く、時々晴れたり雨だったりしても同じように一ケ月が過ぎた。
「もうすぐ死ぬわね」
そんなことをふと思い心でつぶやくと、また水を飲んではトイレにいった。
寝ているのか起きているのかもわからず、時々、シリアルキラーになって殺人を犯したり、パン工場でフランスパンを焼いている夢をみた。
長くもなく短くもなく時は過ぎ、新しい月が訪れ、新しい朝がきた。
でも・・・でも・・・なぜか?まるで死ぬ気配がない。
そう思った瞬間、着替えをしていない服と身体が放つ異臭が脳を刺激した。
「あと少しこのままいれば黄泉の国から迎えの列車がくる、かな?」
そんな言葉が頭に浮かんで、寝返りをうつと足がやけにスムーズに動いた。
「どうやら天国も地獄も縁がないみたいね」
久しぶりに口をついた自分の声は、聞きなれない他人のものに思えた。
「ペッサがいいわ」
この子には幸せになって欲しいの、とあの女が命名した幸子の名を捨てた。イタリア語で王女を意味するプリンチペッサから拾った。
シャワーを浴びて沁みついた異臭が流されていくと、骨と皮だけに痩せ細った身体に精気がみなぎっていくのを感じた。
引っ越しをしよう。
髪を切ろう。
真っ赤なワンピースを買おう。
ピアノを捨ててバイオリンを始めよう。
好きだった肉はやめてベジタリアンになろう。
煙草とワインはやめよう、大っ嫌いだったビール党になろう。
「はじめまして。島津ペッサさん」
鏡の向こうの彼女も頭をさげた。
視界には見たことのない女性の笑顔と、その後ろに見慣れたはずの見慣れない窓外の風景が飛び込んできた。
「ここはイタリア、島津ペッサが産まれた国よ」
遺品
静寂が舞い降りてきた。
まるで異国の古びた洋館に迷いこんだみたいだ。
吐く息は白く、吸い込む空気が美味しく感じる。
十畳ほどの倉庫には、腰を曲げないと入れない小さな扉がひとつ。外からの光を完全に遮断した真っ暗な室内に、温かな亜麻色とでもいうのか、灰色がかった薄茶色の明かりが灯る。
そこは紛れもなく職人の工房だ。綺麗に整頓された机と椅子と棚。
ガラス扉の棚には、整然と時計が並んでいる。
腕時計、置き時計、掛け時計、振り子時計、からくり時計。
色は、白、黒、茶色、青、緑、赤など。文字盤には、1,2,3とアラビア数字や、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵとローマ数字が並ぶ。中には数字のないものもある。
ぜんまい仕掛けなのか、九時一分、十時三分、十一時五分と時を刻んだまま止まっている。
そして、全部の時計にYU?Iと刻まれている。
島津ペッサ、いや社内ではペッサと呼ばれている彼女が静かにささやく。
「これが会長の宝物?時計だよね?」
「時計って?予想外だな」
坂口は初めて聞く外国語みたいに繰り返して、「この時計って、誰が作ったの?」と独り言みたいに訊く。
高見は確信もなく、流れにまかせるような口ぶりで、いつものかすれた声で答える。
「きっと織田会長だろう」
今度は倉庫中に響く大声でペッサが口を開く。
「えーーーーあの天才デザイナー織田ゆみが作った時計?百個以上はあるわよ」
「でも、いくら天才でも、時計は素人だろ?一人で作れんのか?」
坂口が疑いを口にすると、ペッサはさっきより大声で打ち消してみせる。
「バカね。織田ゆみだよ。世界中で本物の天才って呼ばれた天才中の天才だよ。爆弾だって作れるわよ。それに遺書に宝物ってあったし」
「え?じゃ・・これは本当に、メイドイン織田ゆみ?」
坂口の驚く声に、高見とペッサは大きく目を見開く。
三人の心は揺れた。
「でも・・・なんで会長は誰にも内緒で時計を作ったの?新規事業部を立ち上げればよかったじゃない。会長に反対する人なんていなかったはずよ?」
ペッサの早口は速度を増す。
「二百個はあるわよ。これをあたしたちが売るの?なんであたしたちなの?罰ゲーム?」
高見が落ち着いて受け応える。
「まさか。でも確かにゆみブランドなら十分にビジネスとして成り立つはずだけど」
沈黙が倉庫を覆う。
時計たちに囲まれた倉庫には、流れていないはずの音楽が流れている、ような気がする。
イエスタデイ、ワンスモア・・・・
織田会長は、カーペンターズの大ファンだったと聞いたことがある。
「なんかカレンの歌声が聞こえるのは気のせい?」
ペッサのささやきに、坂口も驚いたように口を開く、
「ぼくにも聞こえる。そう言えば、カレンも若くして死んでるよな」
「イエスタデイ・ワンス・モアって、終わってしまった昨日を、幸せだった昨日を歌った曲だったって」
高見は、まるで自分の思い出に耽っている。
「ここって、織田ゆみの昨日が詰まっているの?」
グルッと時計たちを見回しながらペッサも感慨に浸る。
「ねえ、でも、この時計たちって、社長も見たよな?知ってるよな?なのになんで遺書通りに、なにも言わずにぼくたちに任せたんだろう?」
坂口は、大きな不安に声が震え、口の中が渇いていくのがわかった。
「おかしいだろう。会長の宝物だよ。世界の偉人のひとりに数えられる人物だぞ。なんでぼくたちに?」
坂口の疑問は深まり、背筋に冷たい汗がふきだす。
「ねえ、これ、どうするの??」
ペッサの投げかけに、坂口も高見も答えを持たず、荘厳ささえ醸す時計たちにただ、じっと視線を投げかける。
よろしくね!
相変わらず流れているかのように錯覚するカレンの歌声をBGMに、織田会長の声が聞こえたような気がした。
相談
「遺書の通りよ。託したって書いてあったでしょ。好きにして」
社長は投げやりにではなく、優しく投げやりな内容を携帯の向こうから投げてきた。
「でも・・・え?」
切れた。
思わず携帯を眺める坂口を見てペッサはきょとんとしている。
「切れちゃったの?」
「社長は全て承知の上で俺たちに任せたってことだな」
相変わらず落ち着いたかすれた声で高見はひとり頷く。
「売るんだよね?いくらで?誰に?どうやって?あたし無理だよ、無理無理」
ペッサはまるで上等なオカルト映画でも観たあとみたいに怯えた表情になる。
「だって遊びじゃないんだよ。お菓子を売って歩くわけじゃないし、マッチ売りの少女もできないし。どうするのよ?天才の遺品だよ」
ペッサはしゃべりだしたら止まらない。
腕組みをする高見は熟考しているのか慎重に言葉を選ぶ。
「とにかく先輩たちに相談してみよう。俺たち営業経験もないのに、いきなり販売しろって言われてもなにもできないし。坂口も誰かに相談してみて」
「うん、わかった。そうするよ」
次の一歩が踏み出せない三人にとって、この相談という単語は心を楽にしてくれる・・はずだった。
「あの~~ちょっといいですか?」
坂口は、翌日から誰れ彼となく、とにかく気楽に顔見知りに相談を持ち掛けてみる。
「織田会長が時計を残したんですよ。それでね・・・・・」
要領を得ない三人の相談は、何故かあっと言う間に社内に広まっていった。
すると、今まで感じたことのない視線を背中に感じ、気にしたこともない社内のヒソヒソ話が耳に飛び込んでくるようになった。
そして十日が過ぎる。
「ペッサさん、新しい部署って会長の遺品を販売するんだって?」
輸出販売を通して一度だけ面識があったかもしれない名前も知らない紳士服販売部の男性が突然廊下で声をかけてきた。
「ねえ高見くん。会長が残した遺品ってどんなもの?詳しく聞かせてよ」
婦人服販売部の女性課長が携帯に電話をしてきた。今まで一度も話したこともないのに。
「坂口くん、今夜、一杯どう?ちょっと聴きたいことがあるんだ」
同じ部とはいえ、この課長から酒の誘いなんか受けたことはない。
急に三人の周りが騒がしくなった。
海外支店の見ず知らずの社員からは、こんなメールがペッサに届く。
・・・会長の作った時計を持っているんですか?もしよければうちの支店に少し分けてください。高値で販売します。ご検討ください。・・・
五百人を超える社員がいる会社である。
いつの間にか、電話やメールはひっきりなしに届いた。
「なあ高見、俺とお前の仲じゃないか。たくさんあるんだろ?一つだけでいいから一万円ぐらいで譲ってくれないか」
俺とお前の仲って、どんな仲だ?
高見は無言で電話を切った。
なにも考えず、お気楽な相談を持ち掛けた三人の話は、天才と称された織田ゆみの魔性に惑わされる人たちの心に怪しい火を灯してしまったらしい。
会社から遠く離れた居酒屋の個室で、まるで隠れ家にいるみたいに声を殺して三人は顔を突き合わせる。
ペッサは、運ばれてきた生ジョッキをごくりと飲み干すと、枝豆を二つ、たて続けにかじり大声で叫ぶ。
「すいません、おかわり」
しばらくして二杯目のジョッキに口をつけると、今度は小さくひそひそ話を始める。
「ねえ、これ、どうなってんの?怖いんだけど」
怖いものなんか世の中にないみたいな普段の態度とのギャップに、高見は、つい笑みを浮かべる。
まだ一杯目にも口さえつけてない坂口も、なぜか小声である。
「うん・・・ぼくも仕事終わったら携帯をオフにしてる」
「それで坂口の携帯が繋がらないんだ。心配したよ。あ、すいません、俺、ハイボールもう一杯」
この期に及んでも高見は冷静さを失っていない。さすがは箱根駅伝選手だと坂口は感心した目を向ける。
「でも、確かにヤバいな。みんな、ゆみブランドは高く売れるって思ったんだよ。だって手作りだぜ。宣伝次第では一個数百万円、いや一千万円を超えるかも」
「一千万円?」
坂口が唖然とする。
「まさか、そんな・・・うそ、高見くん、それ本気で言ってる?」
ペッサはバカにしたような苦笑いを浮かべて吐き捨てる。口の周りには泡が残っている。
坂口は、ポカンと口をあけたまま驚愕の表情を崩さない。
高見は深く頷く。
「二百個あるから・・・全部で二十億はくだらないってことだよ」
「二十億?」
ペッサは、そう叫んで、慌てて掌で口に蓋をする。
坂口は、両膝を震わせる。
「どうしよう????」
三人の目の前に、あの倉庫に佇む時計たちの威容が浮かぶ。
「あたしたち億万長者ってこと?だって、遺書に、任せるって書いてあったよね。貰ってもいいってことだよね」
ペッサは、そうささやくと同時に、空いたジョッキをひらひらさせて、声もなく店員におかわりを催促する。
「あのな、そんなわけにいくか」
高見の少し真剣な口調に、ペッサは首をすくめる。
「冗談よ。でも、そう考えたら・・・・これ、ヤバいってことよね」
ペッサは難しい顔をして鞄から倉庫の鍵を取り出す。
鍵は、三人が一つずつ持っている。
高見も鞄から鍵を出すと、ジッと視線を向ける。
「これが二十億円か・・」
ハイボールに舌鼓をうちながら、高見は鍵を掌の上でくるくる回してみせる。
坂口はスーツのポケットから黒猫のキーホルダーに無造作に繋がった倉庫の鍵を手にとると一度大きく身震いをする。
「どうしよう?ぼく無理だよ」
顔がひきつって舌が廻らない坂口は、高見に助けを求めるように視線を投げる。
「取り敢えず、方針を決めよう」
高見は鍵を再び眺める。
「方針って?」
坂口とペッサの言葉がハーモニーのように重なる。
「すいませーん、ハイボールのおかわり」
高見は自分に気合を入れるみたいに店員を呼ぶ。
ペッサは、空のジョッキを、またひらひらさせて四杯目をオーダーする。
顔の筋肉が硬直したままの坂口は、ほとんどジョッキに口をつけていない。
「このレースに完走するためのルールだよ」
高見は身を乗り出して鞄から手帳を取り出しペンを走らせる。
織田ゆみの時計の販売ルール、と一行書く。
「まずは、これかな・・・・」
高見は二行目にペンを置く。
犯罪
倉庫の鍵は、社長の金庫にひとつ、経理部の金庫にひとつ、そして高見の手元にひとつ。
「今日、撮影をしますね」
紹介された世界的なジュエリー写真家は、何台ものカメラに照明、三脚にテーブルを倉庫に運び込んだ。
「そこにいるのは構いませんが、静かにしていてくださいね。気が散るので」
ボーと突っ立っている三人は、その言葉で我に返る。
時計を持ち歩くことはせずアルバムを携帯することにした。
一週間後に届いたアルバムからは、言葉では表現できない高級感と品格が伝わってきた。
「さすがプロですね」
つい感動を口にした坂口に向かってカメラマンはこう返す。
「わたしの腕じゃないです。この時計たちがポーズをとってくれているんです。一流モデルが魅せるあのポーズと同じです。さすがは天才が遺した時計たちだ」
感嘆の表情で、彼は賛辞を惜しまない。
坂口の胸には改めて言い知れぬ緊張感が湧き上がっていった。
「どうして、そんな超一流品を会長はぼくらに?」
謎は深まるばかりだ。
「アルバムを是非見せて欲しい」
ざっと二百社を超える取引先から強い要望の声が相次いだ。
「社長室に通されて、接待の誘いもあったわよ。銀座の料亭だって。あたし、どうしよう」
ペッサは上気した表情で足取り軽く会社に戻ってきた。
坂口と高見は苦笑いを浮かべる。
「もう忘れたのかよ。あんな怖い思いをしたのに」
高見は、いつものかすれた声でペッサの興奮を沈める。
「そうだよ。あれは社内だから鶴の一声で、一瞬でシーンってなったけど」
坂口が、ペッサに社長の言葉を思い出させた。
・・・あたしを怒らせないで。会長の遺品はあの子たちに任せてるのよ。
社員全員が、この一言で震え上がった。
社長の言葉には、邪悪で姑息な野心なんか瞬間で吹き飛ばず力が潜んでいるらしい。
「高見、あの電話はなかったってことで頼むよ。俺とおまえの仲だろう」
・・・おまえと俺の仲なんか最初っからないだろう。
高見は、口にはせずに、今回も無言で電話を切った。
それから三ケ月が経過していた。
「そうだったわね、もう忘れてたわ。でも銀座の料亭よ、寿司かな・・」
ペッサの顔には、惜しいって書いてある。
百冊以上のアルバムは、大手上場企業を中心に三人から手渡された。
そして・・・事件が起こる。
ペッサの部屋から見下ろせる木々が震えている。強風が吹いているわけでもないのに、まるで木々が寒さに震えているように音を立てる。
夜空にはペッサが嫌いな虹らしきものが掛かっているように見えた。
「なに坂口くん、こんなに遅くに。酔ってるなら、すぐ切るわよ」
歯ブラシを突っ込んだままペッサは面倒くさい声で携帯に出る。
「見、見、見たか?」
もう零時を廻ろうかとした時、自宅のパソコンを前にした坂口が携帯越しに叫んでいる。
「なによ?ビビっちゃって。わかった、眠れないからあたしのパジャマ姿の画像でも欲しいって言うんでしょ。だめよ、だめ。非公開よ」
「なにバカなこと言ってるんだよ。オークション、オークション」
「え?パジャマをオークションで売るの?」
「違うって!ペッサの名前で、ゆみブランドって書かれた腕時計と置き時計がインターネットオークションに出展されてるんだよ」
「はあーーーーーーーーーー?」
オークションへの閲覧数はすでに一億人を超え、購入希望価格は、出展後わずか二十分で五百万円を超えている。残り時間はあと三十分。最終的にいくらで売買されるのか想像もつかない競い合いが繰り広げられている。
「なによ、これ?あたし知らないわよ」
なにが起きているのか?ペッサは戸惑いと怒りと、少しだけ恐怖が入り混じった声をあげる。
ここに出展されている時計は、倉庫にある商品番号一番と二番の時計のようにみえる。そして使われている写真は、アルバムにはない画像だ。
ということは、あの倉庫からこの時計たちを誰かが盗みだして、ここに出展したとしか考えられない。
「ちょっと、本当にあたし知らないんだから。信じてよ」
ペッサはしどろもどろになって、声は震えている。
「落ち着けよ。ぼくは疑ったりしてないから。今、高見が倉庫に行ってるから」
「あたしもいく」
「だめだよ。このタイミングで倉庫に近づいたら余計怪しまれるだろ」
「でも・・・・・・・あたしじゃないもん」
「大丈夫だ。高見の連絡を待とう」
中身のない慰めの言葉が坂口の口をついてでる間にも、オークション上では、次々に高値が表示される。
ついに九百万円を超える。
「これは一千万円を超えるぞ。誰が、こんなことを?」
坂口は独り言をつぶやくと、背中に冷たい汗が噴き出す。
・・・ただでは済まされないぞ、これ。
目の前で起きている出来事が夢であってくれれば。
深夜に目が冴える坂口とペッサは、同時にそう思う。
暁の静けさの中、坂口の部屋に高見とペッサが胡坐をかく。
「倉庫には二百個が鎮座してたよ。慌ててる俺の顔を、どうしたのって顔で見返してた。盗まれたりすり替えられたりした気配はないよ」
高見は安堵した疲れた顔を浮かべて珈琲をすする。
「俺が取り付けたもう一つの鍵もいじられた形跡はないし、監視カメラにも何も映ってなかった」
高見が言い出した方針の第一には、倉庫のセキュリティ強化を掲げていた。
頑強な新しい鍵を二つ追加し、さらに高性能の監視カメラも複数台設置した。
高見の連絡を受けるまで顔を紅潮させていたペッサの目には、心配の影は消え、代わりに怒りの炎が燃えている。
オークションは一千二百万円で落札された、ことになっている。
しかし商品はないはずだし、もしあったとしても、それは偽物である。
「でも、あの写真の時計、商品番号一番と二番にそっくりだったけど?」
ペッサは出展された画像が映る携帯に視線を落とす。
「ぼくらがアルバムに使用した以外の写真も社内フォルダーに保管してるから、誰かがそこから抜き出したのかもしれない」
考える顔で坂口が口を開くと、ペッサがすぐに返す。
「でも、あのフォルダーを開けられるのって、あたしたち以外はシステム部や経理部ぐらいだよね」
「俺たちのIDやパスワードを知ってる人間なんか腐るほどいるだろ」
高見は、また珈琲を口に運んで冷静に話す。
「そうかーーー。でも、よりによって何であたしなの?坂口くんか高見くんならよかったのに」
「あのな・・・」
坂口は呆れた声をもらす。
二人の漫才みたいな会話に高見は笑みをこぼす。
「でも、ペッサってさ」
坂口は、じーとペッサをみつめる。
「なによ?なんか文句あるわけ?やってないわよ」
ペッサは、坂口を睨み返す。
「そうじゃないよ。こんなに大変なことに巻き込まれてるのに、涙一つみせないし。強いなって思って」
「いけない?涙なんか、とうの昔に枯れ果てたわ」
「ふーん、ペッサもいろいろあったんだ」
「あのね、坂口くん、ひとつ言っておくけど。女は泣くものと思ってない?それ失礼よ」
「いや、そんなつもりじゃ・・」
「いいジャンヌダルクだって新島八重だって、戦場で泣きわめいていた男たちを従えて剣と銃を振り回して戦ったのよ」
「ごめん、そんなつもりじゃ・・・すいません」
「ふん、その、すいませんも失礼!」
二人の間にさっと両手を伸ばす高見は、笑いながら声をかける。
「もう、それぐらいにして。とにかく会社に行こう。きっと大騒ぎになってるはずだから」
高見の言葉に不満顔のペッサはしかたなく首を縦に振ると、吐き捨てるように文句を口にする。
「なんであたしなのよ。もう」
『天才織田ゆみが遺した時計がオークションに』
早朝からSNS上では大騒ぎとなっている。
陽が登る前から会社の前にはマスコミが陣取り、社内は蜂の巣を突っついたように騒然としている。
「どういうことなのよ!これは?」
社長室にいる四人の役員のうち一人だけフランス語訛りの日本語を話す女性役員が、精一杯の怒鳴り声をあげる。声は二階から一階の隅々にまで響き渡る。
「会社の電話はパンク状態だ。まずはアルバムを手渡しして、よくよく打ち合わせの上で販売方針を決めるんじゃなかったのか」
「これじゃ、うちの会社が会長の遺品を闇市場に流して売ってるみたいだろう。どうするんだ。会社の信用にかかわる大事件だぞ。わかってるのか」
「お前らをクビにしたぐらいじゃ済まないんだぞ」
怒りの形相で役員の叱責が順番に飛ぶ。
さらに四人は、同時に「バカ」「あほ」「くず」「イディオ」と輪唱する。
因みに、イディオは、フランス語で「バカ」を意味する。
予想通り、倉庫の時計が無事であっただけでは済まされない事態になっている。
そしてとどめの一発。なんとオークション終了後にはペッサの給与口座に二百万円が入金された。
「本当にあたしは関係ないんです。なにもしてません」
睨みつけて叫ぶペッサの目に炎が燃え上がる。役員相手でも完全に喧嘩腰である。
「でも、現にお前の口座に金が振り込まれてるんだぞ。どう言い訳をするつもりだ」
役員の目はまるで犯罪者に向けられているように厳しい。
「だから、あたしは知りません。それに、さっきからパワハラ発言ばかりですけど。これって大丈夫ですか?録音しますよ」
「ペッサ」
小さく諭す高見の声は、ペッサの耳には届いていないらしい。前傾姿勢で今にも役員に掴みかかろうとしている。
「なんですって!あなた自分がしでかした責任を感じてないの!」
女性役員とペッサは鼻先が触れ合うぐらいの近さで睨み合う。
「だから、あたしは関係ないって言って・・」
「ハッハッハ。島津ちゃん、そのこびないところ好きよ」
社長の爆笑する声が、ピリピリと張りつめた空気を一変させる。
「もういいでしょう」
さっきまで怒声が飛び交った修羅場が嘘のように静まりかえる。
「大切な時計が盗まれたわけじゃないし、詐欺まがいの事件に巻き込まれただけよ」
顔色一つ変えず平然としている社長が語を継ぐ。
「でもね、島津ちゃん、坂口ちゃん、高見ちゃん。あなたたちに任せた仕事は、それだけ重いってことよ。やり方を間違えれば、会長が創業したこの会社を倒産に追い込むのよ。あたしの代で潰したくはないわ。そこだけはよろしくね」
社長は立ち上がると、もう一度口を開いた。
「これで、期せずして織田ゆみの時計の存在が世間に知れたわけね。大変よ。さあ、どうするの?」
その笑みの先には、ぼくら三人の困惑した顔が並んでいる、
数日後、経理システムのメンテナンスを担っているシステム会社の社員が、複数の詐欺事件に関与しているとして警察に逮捕された。
しかしマスゴミは、未だに社内の女性社員が協力者であった、と報道している。
根も葉もない噂が収まるまでには、まだ当分時間が掛かりそうだ。
なんと言っても、天才織田ゆみの遺品である。
『遺品を取材させて欲しい』との依頼は、日に百軒は超える。
「日本にマスゴミって、こんなにあるの?」
対応に追われるペッサは、呆れた表情である。
宣戦布告
「あたし。辞めようって思ってた」
鞄から辞表と書かれた封筒をペッサは、坂口と高見の前に差し出す。
「え?」
坂口の驚いた声に重なるように高見は笑みを浮かべる。
「そうかと思ってたよ」
「え?高見は知ってたの?」
「まさか。でも、もう辞めるのもやめたんだろ」
そう高見がかすれた声で軽く言うと、ペッサは笑顔で辞表を破く。
「あたし、この部に異動してから桜が咲いたことも散ったことも知らないし、楽しみにしていた五月の連休も気がついたら終わってた」
「おれもだよ」
高見も頷く。
「それに、営業って能力のないバカがすることだと思ってた。一生懸命しても意味がないって」
坂口は真剣な眼差しをペッサに向けて、次の言葉を待った。
「でもね、犯罪者にしたてられてわかったの。バカだと思っていた奴らにまんまと騙されるあたしって、どれだけバカなのって」
「それって、つまり、このままじゃ終われないってことだよね」
坂口の言葉にペッサは親指を立てる。
二人の話をまとめるように高見が告げる。
「ここからが本当の戦いってことだよ。見返してやろうぜ」
高見は青春ドラマさながらに掌を下に向けて右手を差し出す。
坂口が掌を重ね合わせると、ペッサは勢いよく掌を振り下ろす。
パシンッ。
三人の心でゴングが鳴った。
二度と、こんなトラブルに書き込まれずリスクヘッジも完璧な企画を考えよう。
絶対に役員たちの度肝を抜いてやる。
約一ケ月間、会議室で缶詰になって本棚に並ぶビジネス書に目を通すと三人は企画書の作成に取り掛かった。
「なんかいいのが書けるね。あたしたち」
ご満悦なペッサの笑顔が、翌日には苦悶の表情に変わる。
気合は空回りするばかりで予想以上の惨敗が続く。
「なによ、これ?」
これ以上ないって呆れ果てた顔で、社長は一つ目の企画書を紙飛行機のようにゴミ箱めがけて投げ捨てる。
「本当に考えたの?少しはここを使いなさいよ」
右手の人差し指で眉間をコンコンすると、二つ目の企画書を左手で握りつぶす。
「頭をかち割って見てみたいわ。猿以下ね。あ、猿に失礼ね」
機嫌も悪かったらしく、手に持つカップの珈琲を三つ目の企画書にぶちまける。
根拠のない自信が崩れ去り心が凍った。
四つ目の企画書も水、いや珈琲。
ガァーーー。
五つ目の企画書はにべもなく、ちらっと表題に目をやってシュレッダー行きとなった。
桜が散った丘から見下ろす由比ガ浜には、いつもと変わらない夕陽が沈んでゆく。
「門前払いばっかり」
ペッサが嘆く。
「門前にも辿り着いてないよ」
坂口は蚊の鳴くような小声である。
「あーあ、なにがダメなのよ。全然わかんなーい!」
投げやりな口調でペッサが海に吠えている。
「ぼくらじゃ無理なのかな?」
坂口も昇る月に助けを求めるようにすがるように弱音を吐く。
認めたくないけど認めざる得ない敗北宣言。
「そうだよ。おれたちにはこんな大役は無理なんだよ」
あっさり高見も敗北を認める。
「え?そんなに簡単に白旗あげていいのか?」
先に敗北宣言をした坂口が高見を問い質す。
「別に負けたとは言ってないよ。素人のおれたちがどんなに頭を悩ましてもいい案はでてこないってことだよ」
高見は不敵な笑みを浮かべる。
「餅屋は餅屋って言葉があるだろう。この案件、時計メーカーに持ち込むってどうだろ」
夢にも思いつかなかった高見の提案に、二人はただ目を丸くした。
「銀座のシンボルの時計台がある日本一のメーカーに」
高見の声は、いつものかすれた声よりイチオクターブほど高い。
「これ、見て」
静かに差し出された企画書。
表紙には、天才デザイナー織田ゆみが描く幻想で妖艶な世界、とある。
「こんなの高見くん、いつの間に作ったの?」
手の砂を払ったペッサは企画書を受け取ると、興味津々に一枚頁をめくる。
「へえーーーー」
「ふーーーーーーん」
「ほォーーーーーー」
頁をめくるごとにペッサの声は大きくなっていく。
坂口も最後の頁の最後の行を読み終えると、思わず唸る。
「これ、いいよ、これ。うん、うん、いいよ」
興奮しているのか、いいよとうんを繰り返す。
「でも、この守秘義務契約書っているの?」
先に落ち着きを取り戻したペッサは口を尖らせる。
「これ大事だろう。ことは極秘で進めないと。二十億だぞ、二十億。今度こそ俺たち犯罪者だぜ」
高見は笑みをこぼす。
「ホントだ。そうよね、怖い怖い」
ペッサは邪気を払うように顔の前で手を振る。
「社長、なんて言うかな?」
すっかり自信をなくしている坂口は不安げにつぶやく。
「へえー、蟻ぐらいの脳みそはあったのね」
鼻から息を抜くような社長の顔。
「いいわよ」
ついに企画書に社長印が押された。
営業
恐る恐る出向いた日本一の時計メーカーでも、株式会社バッジョの看板は揺るぎないものだった。総務部から営業部、そして商品企画部に企画書が廻り、あっという間に担当役員との商談が段取りされた。
「織田会長は時計も作っておられたんですか」
感嘆の声を洩らすのは常務取締役の七瀬昭だった。海外市場の開拓も手掛け、次の社長との呼び声も高い人物らしい。
「今日は、実物も持参頂いたそうで」
「はい、これです」
高見は箱詰めされた腕時計と置き時計をテーブルの上に差し出す。
「ありがとうございます。では拝見します」
七瀬は、丁寧に箱から時計を取りだすと、まず外観を眺める。
「うーーーん」
しばらくすると、今後は時計職人が使用するルーペを使って器用にねじ回しで時計たちを分解していく。
ルーペで覗き込むこと約四十分。
長い沈黙が会議室を覆った。
三人は重圧に押しつぶされそうになりながら息を呑む。
「凄い。なんだこれは・・・・」
七瀬の言葉が途切れる。
ゴクリと大きく唾を呑み込む三人の額には汗が滲む。
「なんていうかスタイリッシュでモダンな美を宿している。気をてらわず流行に踊らされない独特の深みがある上品でシックなデザイン。それにこの色。ブラックであってブラックじゃないし、レッドであってレッドじゃない。どうやったらこの色が出せるんだ?」
賞賛の声がじわっと噴き出す。
「それに時計仕掛けに隠されたこの技術。どうしたらこんな音色を奏でられるのか?」
七瀬は大きく深呼吸をして、静かに目を閉じる。
再び長い沈黙が流れる。
カッと見開かれた目には凄みが宿っている。
「大変に残念です。織田会長には生前に私たちと一緒に時計作りをして欲しかった」
繊維業界に身を置く者には見抜けなかった魅力は、世界の時計を知る人物を魅了している。
「わかりました。企画書にある通り、弊社で織田ゆみブランドを立ち上げ、貴社の紳士婦人服部とコラボした展示会を催しましょう」
「本当ですか?」
どんなときも冷静沈着なはずの高見も、かすれた裏声で興奮を隠せないでいる。
「本当ですよ。それにこの企画書もよくできている。これはあなたがたが?」
「は、はい」
高見は、頬を赤らめのぼせあがっている、まるでサウナ後みたいに。
「では早速、この業務契約と守秘義務契約の手続きに入ります」
七瀬は、そう口にすると同時に右手を差し出した。
「よろしくお願いします」
高見は両手を差し出し握手を交わす。
坂口は掌の汗をズボンの裾で拭いて右手を出す。
最後に順番が廻ってきたペッサは、今にも倒れそうな顔で差し出した両手は緊張で大きく震えている。
ことは、三人が予測もできないほどの勢いで進んだ。
「まずはブランディングから始めます」
一週間後、会議室には七瀬の他に大手広告代理店の社員と名乗る男女が大勢いた。
「商品には絶対的な自信があります。あとはどう魅せるか。これは織田会長の遺品なんかじゃない、芸術です」
力説する七瀬の声には、生涯出会えないかもしれない芸術に出会えた歓びと興奮が滲む。
いやによそよそしく、お高く止まっているように見えた広告代理店の精鋭と紹介された彼ら彼女らの目の色が、七瀬の一声で変わった。
「時計職人はあら捜しをする。反論できる専門的な説明書を準備・・・」
「一目で来場者を虜にするぞ。セッティングが勝負だ。どの位置にどれを置くか・・・」
「光線の色や角度、それにテーマとコンセプト・・・」
遠慮なんて二文字がもたらす緩い空間とはかけ離れた戦場が、急にそこに描き出された。
「物を売るってこんなに大変なんだな」
坂口がボソッと呟くと、ペッサは真剣な眼差しで会議の隅々を見渡す。
いつまでも関係者の間で真剣な瞳が交差し、熱い議論は止まらない。
「違うって。この時計をバカにしてるのか」
「あなたこそ、本当の価値がわかってないわ。これは世に二つとない芸術作品なのよ」
怒気さえ含むその声が緊張感を産みだす。
「真剣勝負って感じだね。なんかいいな」
高見からは笑顔がもれる。
・・・営業は楽しいわよ
窓の隙間から吹き込む風は、坂口の耳の奥にそう語りかける。
すぐそこで議論を戦わせている姉の背中が目に浮かんだ。
「こんな風にしてたのかな・・・」
坂口は右手を左胸に当て、遠くを見つめる。
「では、明日は倉庫で」
七瀬のこの一言で緊張がほぐれると会議室に笑顔が咲いた。
見惚れるほど美しい満月が浮かぶ夜空の下で銀座のシンボルとなっている時計台が十時の鐘を鳴らす。
「ありがとうございます。明日は、高見が鍵を持って現地でお待ちしております」
坂口がそう七瀬たちに伝えると、隣で高見は深々と頭をさげる。
「よろしくお願いします」
「乾杯!」
坂口はシャワーをあびると冷えた缶ビールを一気に飲み干す。
「うーん、この充実感と疲労感。心に沁みるね。もう一本いこ」
冷蔵庫を開けると、空き缶の横で携帯が鳴った。
ちょうど有楽町駅で高見と別れてから約三時間が経過した午前一時だった。
赤い光が眩しく通りを照らし家路を急ぐサラリーマンが溢れる川崎駅に到着した救急車に重症を負った男性が運ばれた。梅雨入りを迎えた六月、湿気を含んだ空気に野次馬のひそひそ声が響く。
・・・三十歳、男性。名前は高見亮。目撃者の話では誰かと争った後に線路に落下した模様。現在警察が捜査中。
「手術は成功したんですが・・・まだ意識が戻らなくて・・・」
顔色をなくした苦悩の表情を浮かべる高見の母親は、これだけ言い残してICUに入って行った。
高見は生死を彷徨っている。
「じゃ、坂口、ペッサ。また明日な」
有楽町駅で聞いた高見の声が、満面の笑みと共に二人の脳裡に蘇る。
「ついててあげなさい。どうせ仕事にならないでしょ」
スエット姿で駆けつけたサングラス姿の大柄な男性?らしい人は、化粧もしていない社長だった。
いつもの落ち着いた口調とは打って変わって苦痛と怒りが滲む声は震えている。
「やっぱりあたしのせいね」
一睡もせず食事を口にしないペッサは廊下で膝を抱える。
「あたしは神様に嫌われてるから。どこかに虹がでてたのかな・・・・」
床に目を落とすペッサの弱弱しい声は、坂口の心を締めつける。
「お姉ちゃん、ぼくのせいかな?」
病院の天井を見上げる坂口は、ただ目を真っ赤にして口を一文字にしている。
暗い夜道なら隣を歩く大切な人の顔は、よく見えなくてもわかる。
でも闇夜の道では自分の手足さえ見えず、まして大切な人の呼吸も感じられない。
「あらた、営業は楽しいわよ」
・・・お姉ちゃん
「坂口、あとは頼んだぞ」
・・・高見、なに言ってんだよ
叫んでも叫んでも坂口の声は高見に届かない。
同じ夢にうなされていると、現実と夢の区別ができなくなっていく。
高見は、もう死後の世界で生きているのか?
「高見、ぼくとペッサを置いていくなよ」
坂口はびっしょり寝汗をかく。
東雲の微光が病院の廊下を照らす。
「坂口さん、島津さん、亮が・・・亮が・・・」
涙でくちゃくちゃになった高見の母親が、目の覚めきらない坂口の腕を掴む。
「お母さん、まさか・・・・・?」
廊下に響く声が自分の叫び声だとは気づかず、思わず坂口は周囲を見回す。
どす黒い闇が心を覆い視界を塞いだ、と思われた瞬間、ペッサの声にパッと視界が開けた。
「高見くん、死んじゃったんですか?」
「そうか、一週間も寝てたのか・・・」
相変わらずのかすれた声である。点滴だけで命を繋いできたはずなのに顔色がいい。
高見亮が目覚めた。
「ごめんな、心配かけて」
「バカ・・・ばか・・・馬鹿、ばァか!」
人目もはばからず高見の腕にしがみついてペッサは、本気で怒っている。
「ここは普通泣くところだろう」
涙腺が崩壊している坂口が口を尖らす。
「ほら、また失礼なこと言う。高見くん、どうにかして、この時代遅れのバカ!」
高見は、声を出さずに笑う。
「酔っ払いかと思ったんだよ」
前からきた男に急に抱きつかれた。
「大丈夫ですか?」
尋ねても男はなにも答えない。
すると腰に巻きついた腕に力が入る。まるでラグビーのタックルのように身体の動きを封じられた。
今度は後ろからリュックを剥ぎ取ろうとする手が伸びてきた。
「倉庫の鍵だ」
すぐに、そこに意識がいった。
脇を絞めてリュックの紐を掴み、同時に前にいる男を蹴り上げた。
しかし男の動きを封じられず、いつしか電車が入ってきた。
「危ないですよ!」
駅員の怒鳴り声がホームに響くと男の力が一瞬緩んだように感じた。もう一度足を前に蹴り上げた。すると股間に命中したのか前の男は呻き声をあげて座り込む。
でも次の瞬間、今度は後ろから鈍器のようなもので後頭部を殴られ、高見はホームに進入してくる列車の汽笛が響き渡る中、リュックと一緒に線路に落下した。
「あとのことは覚えてないんだ」
事件後、防犯カメラを確認し警察が捜査を進めているが、未だ犯人は捕まっていない。
「ごめんな、鍵を高見に任せたから」
坂口は、苦悩の表情で床につきそうなほどに頭をさげる。
「そんな、坂口のせいじゃないよ」
高見はわざと明るい声で、そう言葉をかける。
「でも・・・その足のケガ・・・・」
坂口は、どうしようもない後悔を口にする。
「駅伝人生は終わりだね・・・でも、もう充分走った。随分前から、いつやめても後悔しないって決めてたんだ。ちょっと、突然だったけどな」
厚い雲が今にも泣きだしそうな窓外をじっと見つめる高見は、堪えきれずに言葉を詰まらせる。
周囲の目撃者の多くが、身体は完全に電車に呑み込まれていたから、もう間違いなくバラバラになって即死しただろう、と証言していた。
しかし右足の膝が車輪に接触し砕け散って大量の出血から危篤状態に陥ったが、他は軽い打撲で一命をとりとめた。
高見は不思議なことを口にする。
「線路に落下した瞬間、ホームの下から手が伸びてきたんだ。その手が俺を抱きかかえて凄い力で身体を避難スペースに引っ張った」
自分の掌をじっと見つめて語を継なぐ。
「あの手、俺のこの手に似ててさ。もう少しごつごつしてて・・・まるで父さんの手みたいだった」
そっと高見が恥ずかしそうに笑う。
「そんなはずないんだけどな」
隣でリンゴの皮をむく母親は肩を揺らす。
二週間後、松葉杖を器用に使う高見が会社に姿を見せた。
「高見くん、聞いた?社長がヤバいって」
ペッサが口を覆うように話す。
「ハハハ、聞いた聞いた。ハチャメチャらしいな」
すっかり元気と落ち着きを取り戻した高見が爆笑する。
「でも当然だよ。高見の黄金の足を奪ったんだから」
坂口は見ないようにしている高見の右足をペッサは凝視している。
「よしよし」と子供の頭でも撫でるように右足をさする。
社長は、かの明智光秀が大暴れした本能寺の変を思わせる鬼神ぶりをみせていた。
長身にお得意のピンクではなく虎柄のワンピースに身を包み、髪を黄色と黒に染め、虎柄のネイルを施し、ハイヒールを鳴らし裾を翻しながら、虎と書かれたバンダナを巻いて犯人探しに奔走している。
「うちのもんをよくもキズものにしてくれたわね。このおとしまえ、どうしてくれるのよ」
もう会社には三週間ほど顔を見せていないそうだ。
怒りの矛先は警察にも及んだ。
「なにしてんの、早く犯人をつかまえなさいよ。そうしないと、この明智がぎったぎたに切り刻んで先に地獄送りにするわよ」
警視総監がわざわざ玄関まできた。
「警視庁のプライドにかけて必ず犯人を・・」
「なに聞いてんのよ。あたしが目ん玉を引きちぎって脳みそをかき混ぜて一刀両断で切り落とした首を、あんたのところに届けるから、邪魔するなって言ってるのよ」
支離滅裂である。
おまけに完全な殺人予告である。早く止めないと間違いなく犠牲者が出る。
しかし総監を真ん中にずらっと整列した警察幹部は、敬礼とお辞儀を同時にしていた。
「高見くん、足の痛みもマシみたいね」
笑みがこぼれるペッサは結構美人だ、と今日初めて坂口は思っている。
「社長の指示で会社にも自宅にもリハビリの先生がきてるって聞いたよ」
坂口の言葉に、高見は舌を出す。
「なんかリハビリが仕事みたいだよ。大学の時でも、こんなに医者に付きっきりで診てもらったことないのに」
「あ、そろそろ時間よ。今日の会議も長いかも。タクシー呼んであるわ。これも高見くんのお陰ね」
ペッサは、いつもベンツのタクシーを手配する。
高見の足代は全て社長のポケットマネー、領収書もいらないときた。
ゆみブランドのお披露目は二週間後に迫っている。
地上三十メートルの屋上にそびえる高さ九メートルの時計台。九十年以上の歴史と威厳を漂わせ、品のあるライトアップに照らされ今も確かな時を刻む。
「いよいよ来週だね」
ここに辿り着くまでの苦労なんか忘れ去ったように、坂口は清々しい顔である。
「なんか夢みたいね」
時計台を見上げるペッサは、少し感極まった声を出すが、瞳に涙はない。
屈み込むように右足の膝に手をやった高見は、ただじっと時計台を眺めている。
このビルの一階が会場になる。入口には天才デザイナー織田ゆみと描かれた垂れ幕がさがる。
真っ白なゆり園で微笑む写真は、きっと三十歳の頃のものかもしれない。
「いいわね、年齢不詳って。会長、ズルい」
ペッサは笑いながら文句を言う。
二百個の時計は、美術館の絵画のように贅沢なスペースに飾られている。
値札も説明文もなく、ただ時計が並んでいる。
「それだけで十分なんだよ」
今回のイベントの全権を任された七瀬昭は、織田ゆみが遺した芸術品に完全に見入られている。
ぼくらには理解し得ない芸術の深みと魅惑が、そうさせるらしい。
七瀬は、他の仕事を置き去りにして、全ての時間をここに注いでいるらしい。
「明日も会議だ。今日は早く帰ろうか」
いつものかすれた声の高見がグータッチを求めて腕を伸ばす。
坂口もペッサも自然と笑顔になると腕が伸びた。
・・・あなたたちだけに託します
「会長は、こんな日がくるって予想してたのかな?」
坂口のつぶやきにペッサが返す。
「あの天才おばさんよ。知ってたわよ!」
「どうせなら俺の右足が犠牲になるって教えておいて欲しかったな」
高見は天に向かって、少し大きな声を投げる。
星々の間からぼくらを眺めている会長は、きっと苦笑いをしているに違いない。
いや大爆笑しているかも。
奇跡
低い空に大きなダブルレインボーがくっきり映し出されている朝、三人に嵐が吹いた。
速報です。
株式会社バッジョが来週にも開催を予定する新商品の時計販売事業に、指定暴力団が資金提供をしているとの情報が入りました。この事業を担当する社員の親族が、指定暴力団と深い繋がりがあって今回のことが判明したようです。イタリアで交通事故死した父親・・・海岸で自殺した姉・・・北海道で行方不明になった父親・・・・・・。
無差別殺人や政治家の汚職事件並みの大事件として、早朝よりテレビやラジオが競って報道している。
SNS上では、出所不明な画像が飛び交う。卒業アルバムや忘年会の写真、家族写真に、「こいつ」と赤丸がされている。
自宅住所からフリガナ入りの名前、ついでに間違った生年月日や学歴が躍る。
「これは今年一番の経済事件ですね」
どこの誰かもわからない評論家と名乗る人物たちが中傷コメントを並べる。
「三人は容疑を認めているようです」
取り調べも取材も受けていないのに、マスゴミは平然と報道している。
もう、まるで完全に犯罪者扱いである。
大々的に、誰かに仕掛けられた罠は巧妙で圧倒的な破壊力を持っている。
「御社との取引を見直させて頂きます」
うちのブランドをぜひ御社で販売してください、と泣きついてきた国内のブランドメーカーから連絡が入る。
「融資は再検討させて頂きます」
いくらでもいいので融資させてください、と、これでもかってぐらいに頭を下げてきていた取引銀行の担当者が手の平を返す。
「CMは打ち切りになりますね」
そっちから懇願されて番組スポンサーになって放映していたはずの?Mを、偉そうにテレビ局から打ち切りたいと言いだしてくる。
「コンプライアンス違反ですよ」
抜け落ちばかりで決算処理を何度もやり直すくせに、平気で高い費用だけは請求してくる会計士事務所が、上から目線で指導してくる。
「第三者調査委員会を立ち上げる必要がありますよ」
上場してください、と何年にもわたりお願いしてきていた証券会社が見下してくる。
そして・・・遂に
「次回の時計の発表会のスポンサーからは降ろさせて頂きます」
株式会社バッジョの信用も信頼も音を立てて崩れ落ちていくように三人の目には映った。
どこかの偉い人が、建設は死闘、破壊は一瞬と言った。
一瞬先は闇とも言っていた。
「ぼくらのせいなのか?」
力なくなげく坂口は、たった一日の間に起こったトラブルに怯える。
「誰だ、この日本が法治社会って言ったのは?個人情報保護法は国民の人権とプライバシーを守ってくれるはずじゃなかったのか」
高見は空を仰ぎ肩を落とす。
「テレビカメラの前で、なんで平然と嘘が言えるの?知る権利ばかりが尊重されるっておかしくない?みんな狂ってるよ」
ペッサは怒りで声が裏返っている。
こんな抗議の声は、どこにも届かないし、誰も聴こうともしない。
『やくざはでていけ!』
『死ね』
坂口のマンションには嫌がらせのビラが所狭しと貼られている。
『反社追放!』
『殺すぞ』
高見の家にはいたずら電話が絶えない。
電話線を抜くと、今度は連日のようにポストに脅迫状が届く。
「お前たちを抹殺する。正義の味方より」
『これがイタリアンマフィアの娘、島津ペッサだ』
あっちこっちでストーカーに盗撮された動画が、SNSにいくつも投稿される。
会社の前、電車の中、コンビニ。
遂には、駅のトイレに入る動画まである。
どれも閲覧数は、すぐに千回を超えている。
当分、会社には出社しないでください。
総務部からの一報で、三人は自宅にこもる。
顔も名前も知れない正体不明のSNSの仮面を被った悪魔の暴走は、勢いを増す。
『坂口あらたの姉は風俗嬢だった。俺は抱いたことがある』
『高見亮の父親は強姦魔だ。被害者はまだ小学生だった。その後、自殺したらしい』
そして、島津ペッサのマンションには殺気立った男たちが集まっている。
『島津ペッサはイタリアンマフィアのスパイだ。排除しないと日本が危ない』
こんな投稿に便乗して、我先にと調子に乗った野獣たちが群がってきてくる。
「おい、スパイ。出てこい!」
「警察に捕まる前に俺たちが可愛がってやるぜ」
「こら、出てこい!」
ガシャン!
拳骨ぐらいの大きさの石が窓ガラスを割った。
この一石が合図のように、一斉に投石が始まる。
「なに、これ?警察はなにをしてるの?誰か助けてよ。坂口くん、高見くん」
ベットで布団をかぶるペッサは、大っ嫌いな神に祈る。
しばらくすると、急に怒号と投石がやみ、嘘みたいに外は静まり返った。
ピンポン!
玄関のチャイムが鳴る。
「誰?いやよ!もう勘弁してよ!」
枕に手を合わせる。
「神よ!南無妙法蓮華経!アラーよ!、えーと、もう誰でもいいから・・・」
ピンポン!
「島津ちゃん、あたしよ、あたし。ここ開けて」
どこかで聞いたことがある、大きな咽喉仏を通過して発せられるこの声。
「え、社長?」
ベットを飛び出したペッサは玄関の鍵穴を覗く。
「ハーイ、元気?」
いつもと違って、ジーンズにトレーナー姿でスニーカーを履いている。それに深く帽子を被って、夜なのに大きなサングラスをかけている。でも爪先は綺麗なひまわりがデコレートされている。
紛れもなく明智社長だ。
「どうして?」
「しー!。折角、変装してるんだから大きな声を出さないの」
「変装って?バレバレですよ」
「あら、そう。なんでもいいわ。すぐそこで十人ぐらいボコってきたから。早く逃げるわよ」
「え?逃げるんですか」
「そうよ。もう自宅は危険だから。三人とも別々に役員の家に身を隠すことにしたの。もう段取りはできているわ」
「え?三人とも?」
「高見ちゃんのところにも坂口ちゃんのところにも迎えが行ってるわ」
「でも役員の家って?」
以前の事件の際に、三人に罵声を浴びせた役員たちの迷惑そうな顔が思い浮かぶ。
「あら嫌なの?」
「いえ、でも・・・」
「まだ根に持ってるの、怒鳴られたこと。島津ちゃんも女のくせに女々しいわね」
正しい日本語の使い方ではないようにペッサには思えたが、自分の女々しい拘りを指摘されたみたいでチクっと心が痛んだ。
「うちの役員は四人。経理でデフォルトした国を立て直した偉人、総務で倒産した鶴マークの航空会社の再建を果たした剛腕」
初めて聞く話にペッサは、口をポカンと開ける。
「営業はどこの企業にも属してないのに、たった一年間で十兆円を稼ぎ出したウオール街の虎と恐れられた天才投資家、製造はフランス一のデザイナーで、悪魔の手を持つ女って呼ばれてパリやミラノやブロードウェイの舞台衣装を手掛けた神職人。みんな会長が一本釣りで連れてきたの」
「そんな凄い人たちなんですか?知りませんでした。だって誰も教えてくれないし」
「当たり前でしょ、そんな自慢話、あいつらはしないわよ。社内で知っているのは一握り」
秘密よと言わんばかりに、社長は長い人差し指を真っ赤な口紅が鮮やかな口の前に置く。
「四人はね、この会社を愛しているの。あなたたちのこともね」
「でも、この前は・・・・」
「怒鳴ったことね。小っちゃい奴らって思ったでしょ。でもね、あれ大変だったのよ。朝三時からあたしが呼び出されて、社長室で誰が??り役をするかって打ち合わせ始めて。あいつら、あんまり叱ったことも怒鳴ったこともないから苦手でさ。叱り方も怒鳴り方も変だったでしょ」
「そう、言えば・・・最後の方は同時にみんなで怒鳴ってて何を言ってるのか、わからなかったかも」
「でしょう。結局は四人で叱って、あたしがさっとさらうことで話しがついてさ。あたしは笑いを堪えるのが大変だったわ」
社長は大きく口をあけて思い出し笑いをする。
「ビジネスの厳しさを知って欲しかっただけなのよ。自分たちと同じ会長に一本釣りされたあなたたちにね」
島津たちを嫌って、辞めさせることしか考えてない嫌な奴らと思っていた役員たちには、別の顔も別な想いも別な願いもあったんだ。
「さあ、行くわよ。貴重品だけ持って。服は売るほどあるから」
そう言って、社長の大きな手がペッサの肩を抱く。
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
張りつめた緊張の糸が切れたみたいにペッサの涙腺が崩壊した。
「お疲れさま!」
もつれる足で車に乗り込むと、怒鳴り合って睨み合った記憶が、今も鮮明に残る女性役員が笑顔で迎えてくれた。
「あれ?あたし・・・ひとりぼっちじゃ、ない、みたい」
パパが勝手に天に昇ってから、ずっと、心には「ひとりぼっち」って六文字が深く刻まれていた。
こんなに温かい気持ちになれたのは、いつ以来だろう?
そう思うと、また涙がこぼれた。
「ほら」
女性役員から冷えた缶ビールがペッサの胸に飛び込んでくる。
受け取ったら、もう一滴、大きな涙がこぼれた。
「ありが・・・・とう・・・ございま、す」
もう言葉にならない。
「大脱走に乾杯よ!」
社長の音頭で、カーンって音に笑顔が重なる。
他に騒ぎ立てるスキャンダルがないのか、連日、マスコミ報道が続いた。
しかし社内には、信じられないぐらいにあちこちに余裕の笑みが溢れている。
「この明智がいる限り、日本の一億二千万人が敵に回っても、世界の八十億人は味方よ。あたしたちが見切りをつけて取引を止めたら潰れるのはあっちよ」
自信に溢れた社長の一言は、社外の人たちには理解できないほどの勇気と希望をくれていた。あの天才中の天才の織田会長が、「あたしに次ぐ天才よ」と称して指名した明智社長である。
都合が悪くなると言葉を濁し、すぐに他人のせいにして逃げ腰になる日本の政治家や、風評被害にびくびくして、株価下落に難しい顔を人前にさらす大手企業の社長なんかとはわけが違う。
「こんなときは海と空よ」
身を隠して二週間、未だに出社できない三人を、社長は人気のない夕刻の由比ヶ浜に呼び出す。
「ひどい顔してるわね」
三人の顔を覗き込む笑顔の社長は、呆れたような口ぶりである。
「すみません・・・」
口裏を合わせたわけでもなく、坂口と高見は同時にそう呟いて首を垂れる。
「なんで、謝るの。あたしに秘密でなにか悪いことでもしたの?」
「そうじゃないですけど・・・」
坂口は、そう答えるのが精一杯だった。
「たいしたことないわよ。こんなこと」
社長は、手をひらひらさせて笑みを見せる。
「あたしと役員の四人だけでも、今の年商の三倍ぐらいすぐ稼げるわ」
大事件のはずなのに、取るに足らない出来事のようにあしらう。
「それより、空は嫌いかしら?」
そう言って社長は視線を上げる。
三人は、つられて社長の後を追うように空を見上げる。
すると、やがて魔法のように空一面が群青色に染まる。
「綺麗!なにこれ?」
ペッサが大きな瞳を大きく見開く。
「ブルーモーメントっていうのよ。綺麗でしょ」
社長は語を継ぐ。
「あたしがデザインしたわけじゃないけどね・・・下ばっかり見てると、こんな奇跡の瞬間を見逃すの。地球が折角あたしたちを元気づけようと色々と工夫をこらしてくれているのに」
三人は、群青色の濃さが増す空一面に目を奪われる。
「いい。通り過ぎて行った昨日も、ここにいる今日も、きっと訪れる明日も、奇跡が繋がっているってことなのよ」
そうつぶやいた社長は、急に重そうな鞄の中をガサガサと探る。
「会長はこれが好きでね。鳳麟っていうの。なかなかの名酒よ。病室で二人でよく飲んだわ。はい」
麒麟の絵が描かれた小さなコップが社長から三人に手渡される。
「献酬といきましょう」
丁寧に注ぐ社長の爪には麒麟のネイルが施されている。どんな時もお洒落を忘れず、ウイットに富んでいる。
乾杯の発声もなく、スッと掲げたコップもまた群青色に染まる。
「もう話してもいい頃ね。あのね、会長があなたたちを選んだのはね・・・・・」
やっぱりこの世界は、三人の周りは、奇跡に満ちていた。
本能寺の縁
外国人旅行者が行き交う銀座の街を、今日もシンボルの時計台が見守っている。
会議室には英国紅茶の香りが漂う。
「明智社長、なにがあっても、ゆみブランドの評価は揺るぎません。だから彼らを担当から外してくれさえすれば、私どもとしては今回のイベントは是非開催したいと思っています」
七瀬は、強い目線で明智に告げる。
「ご安心ください。もう準備は万端です。彼らがいなくても私が責任をもって」
「ダメよ」
いつもと変わらない穏やかな口調で、明智は七瀬の熱弁を平然と遮る。
業界では明智が一度ダメを言ったら、天地がひっくり返っても決断は覆らないと有名である。株式会社バッジョは一発勝負、と企業も銀行も練りに練られた企画とプレゼンテーションで勝負を仕掛ける。同じ案件でリベンジの機会は皆無である。
それを七瀬も聞き及んでいる。
「どうしてです。織田会長の芸術的な遺品を消し去るおつもりですか?」
「この紅茶、いいわね」
香りを楽しむように目の前でカップをゆっくり動かす。
「会長は、あの子たちのために作ったの。二百個の時計を」
「え?今なんて?」
「だから儲けようなんて、これっぽっちも思ってなかったの」
混乱を隠せない七瀬は開いた口が塞がらない。
「会長は、もう返せない恩返しがしたかっただけなのよ」
明智は、ガラス窓に映る銀座のビル街に一度視線を投げたあと、空を見上げる。
「あっちが岩手かしらね」
想いを馳せるように、明智はゆっくりと語り始める。
「母さん、その電柱を離しちゃだめよ。すぐに助けにいくから」
岩手県の海岸線の小さな町、戦国時代に名を馳せたかの本能寺に似ている寺を、今、三十メートルを超える津波が襲ってきた。
「助けて!」「きゃー」
振り返ると、雨で蟻がマンホールの隅に吸い込まれていくみたいに、いくつもの叫び声を残したまま無差別に逃げ惑う人々が海水に沈んでいった。
ほんの数分前まで踵が濡れる程度だったはずが、今は逃げても逃げても海水の高さが増していた。もう腰まで浸かって自由に身動きがとれない。
「光秀、俺たちのことはいいから逃げろ」
「光秀!振り返っちゃだめ。逃げて!」
「大丈夫だ。今いくから!」
電柱に捕まる母さんと、水の勢いに吸い込まれないように母さんの背中を押す父さん。
あと、一歩で母さんに手が届く。
「もう少しだ!!」
指先に母さんの手が触れた瞬間、聞いたこともない轟音がした。
「母さん!父さん!」
叫んだときには二人の姿はもう視界から消え、茶色く濁る水が渦を巻いていた。
もう何回も、瞼の裏に刻み込まれたあの地獄絵図にうなされてきた。
「なぜ、あたしは生き残ったんだろう?」
答えのない問いを、自分に問い続けた。
あれから何日が過ぎただろう。
アケチと書かれた看板は傾き、お洒落な店舗はその面影を残すことなく瓦礫の山となっていた。
母さんがデザイン創作した婦人子供服を父さんが販売していた。
「可愛い」
と評判も高く、幼稚園や私立の小学校では制服にもなっていた。
「光秀は、自由にしたらいいのよ。別にこの店を継がなくても」
一人っ子の光秀が、母のデザインした服に身を包み、密かに憧れを抱いていたことを知っているのに、いつもそう話していた。
「母さん、あたし継げなかった」
瓦礫に座って膝を抱えているとハイヒールは雪に覆われていた。
顔を上げると、視線の向こうには二人を呑み込んでいった静かな青い海がある。
周囲を誰かの叫び声と消防車と救急車とパトカーのサイレンの音が飛び交っていた。
耳を塞いても響くその音も、なぜか絶望感に心が覆われていくと聞こえなくなっていった。
「母さん・・・・父さん・・・・」
ひとり悲しみにむせぶうちに、もう生きようとする気力も失せていった。
「このまま母さんと父さんのところにいくよ」
「あなた、明智さんの息子さん?あ、ごめんなさい。その恰好は娘さん?」
誰かが、瓦礫に倒れて眠り込んでいた光秀の肩をトントンと軽く叩く。
見覚えのない小柄な女性が、身を縮めて覗き込んでいた。
父似の大柄な体格で、母が創作してくれた空色のワンピースに身を包む、大学生の光秀は小さく頷いた。
「あたし、お母さんの友達で織田ゆみっていうの。あなたお名前は?」
「・・・光秀です・・・」
「あら、いい名前ね。あたしの先祖は織田信長なのよ。あなたに討たれた」
笑う元気もなく、ただうなだれる光秀は、再び下を向く。
「あなた確か一人っ子よね。もう帰る場所もないでしょ。とりあえず盛岡のあたしのマンションにきなさい」
「え?」
驚いて言葉のでない光秀にかまうことなく、織田は手を引いて立ち上がらせるとジープの助手席に押し込んだ。
光秀は三日三晩、そのマンションの真っ白いベットの上に死んだように寝た。
織田は声をかけることもなく、時々、様子を見るだけだった。
喧騒がないその部屋では、織田がワインのボトルを傾けコップに注がれる音が、やけに大きく聞こえた。
静まり返るその空間では、まるで大地震はずっと過去の歴史上の出来事で、両親は今でも健在であるかのように感じられた。
「光秀くん、いい。今日からあなたは、ここで東北の人たちのために婦人服と子供服をデザインするの」
「え。でもあたし、まだ大学が」
「そんなのやめちゃいなさい。それどころじゃないでしょ。あなたはブティックアケチの跡取りよ。こんなとき、お母さんならどんな服を創作したか、よーく考えるのよ。で、思いついたら、この白い紙にどんどん描きなさい」
「あたしがですか?」
「そうよ、あなたにしかできないのよ」
「でも、今まで遊びぐらいでしかデザインなんかしたことないし・・」
「上等よ。遊びでしたんでしょ。あたしが認めたデザイナーなのよ、あなたのお母さんは。この天才織田ゆみが」
まっ平な胸を張る。
「期限はないわ。いい、あなたが身に着けてきたお母さんが創作した服を思い浮かべるの。そうすれば無限にアイデアは広がるわ」
「でも・・・自信ないです」
「当たり前よ。自信なんかあったら、ろくなものはできないわ。思いつくままよ」
瞳の奥に強い決意が漲る織田は、有無を言わせない静かな迫力に満ちていた。
「それから、もう一つ。間違ってもあたしの顔色を窺うんじゃないわよ。そんなことしたら殴るからね」
握られた小さな拳は、きっと殴られても痛くないだろうと思われるぐらいか弱い。
「それから」
「まだあるんですか?」
「これが最後よ。あなたワンピースが似合うし、真っ赤な口紅もいいわ。それに、その爪もなかなかいいセンスしてるわ」
小さい顔で大きな笑みを浮かべる。
「だから・・・光秀はやめて園子にしましょ」
これが東北の奇跡の始まりだった。
魔法のキス
織田ゆみは明智園子の首に手を絡ませ唇を重ねる。もう三分が経過している。
「もうこれで大丈夫ね」
濃厚なキスのあとに、そうささやく。
「次の社長は、あなたよ」
いきなりの出来事に明智は茫然とする。
織田ゆみは誰もが認める天才の中の天才だった。
彼女は人間が持つ可能性を服によって最大限に引き出す不思議な力を持っていた。
もう魔法といってもいいだろう。
だから売れないアーティストも俳優も、パッとしない政治家も実業家も、彼女がデザインした服を身にまとうと個性が輝き一転して成功の道を歩んだ。
噂が広まると、世界中のデザイナーが彼女の真似をした。
大手メーカーが作った似たスーツが店頭に並ぶこともあった。
しかし、どんなに似た服を身に着けても、成功に導く奇跡は起こらなかった。
すると、ゆみブランドは益々輝きを増した。
「キスをするとね、その人が見えるの。今と前世がね」
織田は、明智のスーツではなく瑞々しい紺碧色のビックサイズのワンピースをデザインする手を休めて、そうつぶやく。
「背負った宿命や業みたいなものかしらね」
織田のこの告白に、明智は思わず首筋に冷たい汗をかく。
「同時にね、デザインが浮かぶのよ。だからこれを着る人は幸運だけが列をなして訪ねてくるの」
「―ーーーーーーー」
明智は無言で目を丸く丸くする。
・・・これは秘密よ
ウインクする織田は創作を再開した。
「まだ男を知らないからキスも上手じゃないのよね」
男性との噂が絶えずマスコミを騒がせた織田のスキャンダル写真も、思い返せばキスシーンばかりだった。
「だから堂々とキスを・・・」
明智は織田ゆみの謎を知った。
往々にして天才は気まぐれである。危険を察知する感性は乏しい。
「禿でもデブでもいいけど、品のない男はね」
そう言って、あの日、映画俳優にも劣らない長身でイケメンの財閥の御曹司と、ローマの宮殿で熱いキスを交わした。
「あなたの服は作らないわ」
織田ゆみは電話営業でも断るように軽く笑顔で依頼を拒否した。
「どうしてだ?」
「あたし下品な男は嫌いなの」
六百年の歴史ある城を夕陽が染める絶景ともいえるシチュエーションで、生まれながらにして彼に備わっていたはずのエベレストにも負けない高いブライドは一言で粉砕された。
「じゃあね」
驚きと怒りに顔を真っ赤にするその男に背を向けると、彼女は手についたゴミでも払うかのように右手を振って、さっさと門を出ようとする。
大柄なボディーガードの男たちが行く手を阻んだ。
「どいて。あたしを怒らせないほうはいいわよ」
織田に睨まれた男たちは、魔法にでもかかったように一歩二歩と後ずさりした。
「そうそう、いい子たちね」
ボーン!
午前十一時に城の鐘が鳴り響いた五分後、二発の銃弾が彼女の心臓をかすめた。
門の外でスローモーションのようにうつ伏せに倒れる織田は、呻くこともなく身動き一つしなかった。
「ふん、バ・・カ・・・め」
御曹司の男は充血した目で銃を持つ震える身体で車に飛び乗ると、一目散に城をあとにした。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?わたしの声が聞こえますか?」
「どうした島津?」
「銃声がしたから駆けつけてきたらこの女性が。ミンク、生きてると思うか?」
日本人商社マンの島津は、日本から遊びにきた娘を後部座席に乗せ、友人のイタリア人医師ミンクとハイキングに向かう途中だった。
これが島津ペッサと父親が織田ゆみと出会った瞬間だった。
もちろん幼少のペッサは覚えていない。
「大丈夫だ。微かに息はある。病院に運ぼう」
「よし」
島津は血に染まった織田を車に運ぶと時速百キロ以上のスピードで病院に向かった。信号無視を繰り返し、逆走もいとわないドライビングは映画の世界なら賞賛されるだろうが、公道では単なる交通違反である。病院到着時にはパトカーを三台引き連れていた。
ミンクは揺れる車の中で心臓マッサージを繰り返し、ペッサは小さい手で織田の右手を握って祈った。
「空さん、雲さん、鳥さん。このおばさんを助けて」
織田の心臓は、もうほとんど止まっていた。
手術室に運ばれる直前、ペッサは織田の手をもう一度強く握り、大声で叫んだ。
「おばさん、死んじゃ嫌よ!」
止まっていた心臓が、ピクリと動いた。
すると、担架の上の織田が急に左手を振り上げて拳を握った。
ビックリする医師は、ペッサに向かって叫んだ。
「お嬢ちゃん、もう一回」
大きく頷くペッサは、お腹に力を入れて叫んだ。
「世界一綺麗なおねえさん!絶対、絶対、死んじゃだめだよ!」
おねえさんって言葉に気をよくしたのか、彼女は再び左手を振り上げると、さっきよりも強く拳を固め大きく振り回した。
彼女は奇跡的に一命をとりとめた。
島津はと言えば、一時は殺人犯に間違われたが、同乗していた医師のミンクが警察に顔が効いたこともあって罰金もなく牢獄入りも免れた。
犯した違反の数や警察官の警告を再三にわたり無視したことからすれば、こちらも奇跡であっただろう。
因みに、彼女を撃った男は、翌日にイタリアンマフィアの抗争で心臓を粉々にされて絶命した。
織田ゆみは、九死に一生を得たこの苦い経験をしても、行動にも信念にも変化はなかった。
「ボディーガード?いやよ。あたしは行きたいときに行きたいところにいくの。自由を縛られるなんて死ぬよりいや、よ」
周囲の忠告を無視し、彼女は何事もなかったかのようにその後も世界を好きなように好き勝手に飛び廻った。
そんなある日、北海道を盛りあげたいと純粋な瞳で夢を語る若手男性アーティストグループの心意気に感銘を受ける。
「彼らの衣装をデザインするわ」
この織田の申し出にグループの面々は涙を流して感謝のコメントを出した。
マスコミがこの話題を取り上げ、衣装の発表会が行われると、当然のごとく北海道に留まっていた人気は驚く速さで全国区に名を馳せた。
同時に細心の注意を払っていたはずの会議室のキス写真も週刊誌に抜かれた。
そして事件が起きた。
銀世界が彩る真冬の札幌野外コンサートが終了した夜十時三分、会場をあとにした織田を背後から短刀が右肺を突き破った。
口から血を吐き、ゆっくりと両膝をつき、背筋を伸ばして、まるで演技でもしているように綺麗な姿勢で雪道に倒れ込んだ。
「死ぬ一瞬も綺麗でいたいの」
織田が口癖にしていた信念は、無意識の中でも自然体で実践されていた。
白雪に倒れる身体は日の丸の真ん中にいるみたいに周囲が真っ赤に染まっていた。
キャー。
周囲の女性たちの悲鳴が響き渡った。
がたがた震えて短刀を両手に抱え、顔中に鮮血を浴びていたのは、まるで小学生のように幼い顔をした十五歳の中学生だった。
彼らの熱烈なファンでその日は沖縄から駆けつけていた。
「こんな寒い夜でもビールが売れるなんて。それも野外ですよ。高見さんの魔法としか思えませんね」
「はっはっは。魔法ですか。そうかもしれませんね」
高見つまり高見亮の父親は、コンサートスタッフのよいしょに気をよくして笑顔を浮かべ生ビールの機器を運び出していた。
「あれ、なんか、騒がしいな」
ラグビーで鍛え上げたカピバラみたいな太い首をグッと伸ばすと、そこは真っ白なはずの路上が赤い血だまりになっていた。
悲鳴が交錯し逃げ惑う人々であたりは大混乱に陥っている。誰もが何が起こったかを把握できていないように見える。
高見は手に持つ機器を放り投げて、タックルするように周囲を蹴散らして前進すると織田に辿り着いた。
倒れ込む彼女は、もう呼吸をしていなかった。
「誰か救急車を!」
周囲は未だにコンサートの興奮が冷めない狂騒と自分も刺されるかもしれないという恐怖の絶叫が入り乱れ。高見の声はかき消されていた。
目の前には、犯人であろう女の子が血に染まった短刀を大事そうに抱え呻き声をあげている。
「彼はわたしのもの。彼はわたしのもの。いい、彼は・・・・」
一目で正気を失っているさまが見てとれる。
・・・今は、この女性を助けることが先だ。たしか、この裏に救急病院があったはずだ。
高見は織田をラグビーボールのように軽々と抱き上げ、前傾姿勢で抱え込むと全力で走り出した。
「どいてくれ。怪我するぞ。どけ!」
最短距離で進む元ラガーマンは、巧みなステップを踏んで子供だけは避けて通り、大人と判断した何十人もの群衆をなぎ倒し病院を目指した。
ごめんな、ごめんな。
心の底で、もしかするとタックルをかまして蹴散らした群衆の中にも骨折でもして病院送りになった人がいたかも、と罪悪感を抱きつつも、今はこっちが優先だ!と爆走を続けた。
「貴様、なにをしている?ちょっと待て!止まれ!」
警察官らしき男の声が背中を追ってくる。
・・・うるせえ!止まれるか!あった、もうすぐだ。
「頑張れ!」
もう死んでいるかもしれない織田に高見は奇跡を祈るように叫んだ。
「先生!」
玄関の前で煙草をくわえる白衣の男性を呼んだ。もちろん高見は、この男性がどこの誰かも知らない、医師であるかさえも。
「どうした?」
平然と煙を吐くと男性が訊いてきた。
「刺されたみたいなんです。助けてください」
「おまえさんが刺したのか?」
その男性は、まだ落ち着いた口調である。
今度は、横で同じく煙草を口にする看護師と思われる女性が、高見に近づく。
「ごめんなさいね。この冗談を言ってるバカは、一応北海道一のゴットハンドって呼ばれてる外科医だから。とにかくそのまま手術室まで運んで」
髪がボサボサでひげを蓄えたゴッドハンドは、歩きながらその真っ白な長い指で織田の喉元と傷口に触れる。
「先生、助かりますか?」
高見は静かに訊く。
「もう息もしてないし無理かもな」
手術着に手を通すと、もう一言つけ加える。
「俺以外ならな」
口元を緩めて、眼鏡の奥からウインクをする。
生死の境を行ったり来たりした織田は、十二時間の大手術で一命をとりとめた。
「閻魔様が迎えにきたから、どうして天使じゃないのって追い払ったのよ」
目を覚ました第一声は力強かった。
「この刀痕は閻魔様に会った記念に残しておくわ」
形成外科手術を勧められた織田は、笑顔で医師に応えた。
「あと刑事さんに言っておいて。犯人の子、罪は軽くしてねって。きっと辛かったのよ。熱いキスを交わしちゃったからね。そら怒るわよ。可哀そうに」
まるで他人事である。
島津の父親と高見の父親がその事件現場にいたのは、神さえ描けなかった偶然であったはずだ。
しかし織田ゆみの辞書に偶然なんて言葉はなかった。
目の前で起こることはすべて必然であると信じていた。
特別な能力を持っていたから余計にそう確信できたのかもしれない。
織田は命の恩人に、どう恩返しをすればいいのか悩んだ。
「お金は違うわよね」と思いつつ、少しでも早く感謝を伝えたくて大金を包むと、二人は金額を確認することもなく辞退した。
「ありがとうございます。でも、これは受け取れません」
織田は、きっとそう言われると予想していた。そんな二人だと。
けれども他に方法が見つからないと伝えると、九〇〇〇キロも離れたイタリアと北海道で、繰り返されるように織田はこんな話を耳にする。
「わたしの夢は、子どもが立派に逞しく育ってくれることなんです。一人っ子なんで心配で。もし、天才と呼ばれるあなたが、いつか、うちの子が人生に行き詰まっているなと感じた時に少しでいいんで、応援して頂けたら。どんなに心強いか。そんな我がままをきいて頂けますか」
この時、織田は幼稚園の卒園式で初恋の男の子と分かれる悲しみで大粒の涙をとめどなく流して以来、実に数十年ぶりに頬を濡らした。
「わかりました。お約束します」
そんな会話があったことも知らずに、父親が他界したあとに高見亮と島津ペッサは、吸い寄せられるように織田の会社に入社した。これも偶然ではなかったはずだ。
もう一つ、天才が招いた奇跡、いや織田から見れば必然の出来事があった。
魔法使いであるはずの天才にも一度だけ大スランプがあった。
会社のイメージを表す赤い「B」マークをモチーフにしたロゴが、どうしても気に入らなくて描き直しを思いついた。
私が描く、と人の意見は一切聞かず、相談もせずに部屋に閉じこもった。
ロゴを印刷したパンフレットや冊子を部屋に積んだ。
そしてひとつひとつに唇を重ねた。そう今まで通り、世界中の男たちと交わしたときと同じように。恋するみたいに、愛するみたいに、酔いしれるみたいに、抱擁するみたいに、愛撫するみたいにキスを繰り返した。
「おかしいわ。なにも浮かばない。そんなバカな・・・・」
ロゴにキスする日が続く。
「そうだわ」
おもむろにロゴが印刷された紙をくしゃくしゃに丸めて口に入れる。舌で舐め廻しながら奥歯で味わうようにゆっくり噛む。唾液でロゴも消えただろうと思われるタイミングで、ごっくんと喉を通過させる。
一枚・・・二枚・・・・三枚・・・・四枚。そして五枚。
「そんな・・・・あたしは魔法使いよ。違うの??」
これまで襲われたことのない不安で胸がざわざわし始めた。
「まさか?」
いきなり立ち上がると外出時の変装用にかける大きなサングラスを手に、玄関から飛び出した。
向かった先は場末のスナック、いや一応ガールズバー。
VIPルームに入るとガールと呼ぶには、無理がある年増が横に座る。
「お客さん、初めてですか?見ない顔だけど。誰かご指名とかあります?」
誰でもいい、とは口にできない。急いでいるのよ、とも口にしない。
「ボトルを三本入れて。マッカランとスプリングバンクと山崎」
ガールは、目を丸くする。
「お客さん、お金持ってます?高いですよ」
うるさいな急いでるのよ、と言いたいところだが口を閉じることにした。
「はいキャッシュね」
札束をテーブルに積む。
ガールは、さっきよりもっと小さい目になって、大きく口を開く。
「それでね、あなたにお願いがあるの。目をつぶって、あたしとキスをして欲しいの。短いのを一回と長いのを一回」
「はーーーーーーーー?」
豆粒より小さい目は、もうないに等しい。
「ここ風俗店じゃないんですけど」
少し怯えるようにガールがつぶやく。
「キス二回で風俗店に行く方が面倒でしょ。女のあたしが」
ガールは、なるほどっと納得したように頷く。
「すぐに終わるから。じゃあ目をつぶってね」
いつものように男の顔を包み込むように、ガールの顔に優しく手を絡めて唇を重ねる。
一回、そして二回。
唇を離すと、いつもの通り、沈黙を楽しみ、厳格な儀式でもあるように目を伏せて天を仰ぐ。
「そうか」
そう一言残して、VIPルームを出る。
「お客さん、ボトルとお金?」
「全部、飲んでいいわよ。つりはチップよ」
織田は店をあとにした。
織田は動かない、動けない。
うさぎのように赤く瞳全体が腫れ上がったまま天井を睨む。
「子供にキスするわけにはいかないじゃない。そんなことしなくても答えは出たわ。なにが天才よ。単なる男好きの好色婆あじゃない」
信じていた神を憎んだ。
「なんで二物も三物も与えてくれなかったの?紳士服だけじゃなくて、婦人服も子供服もロゴも・・・なんで」
大好きだったはずの自分が大嫌いに感じられた。欠陥人間に思えてきた。
次の行動に移る決心がつくまでに十日間の静寂が必要だった。
ひとり、一言も口にせず、誰とも会わず、携帯を切り、テレビのコンセントを抜いて、食事も口にせず・・・ただ大好きな日本酒だけは欠かさず口にした。
勝駒、金水晶、かたの桜、白老と、日本中の名酒に身を委ねた。
「なにも浮かばないこの頭で、どうにかしろってことね」
こう口にして、再びデザインペンを握った。
ちょうど二百個目のデザインができあがった頃だったか、突然、織田は泣き崩れ、叫び声をあげた。
まるで失恋したあとみたく、悲しい涙にくれた。
そして鬱になった。
長いトンネルに迷い込んだのである。
髪が抜け落ち、肌はガサガサになって、まるで別人みたく?せ細った。
世界中の男たちを魅了した魔性の女は、砂かけばばあに成り下がった。
驚いた会社の役員たちは、織田がデザインしたロゴを大手広告代理店に持ち込んだ。
「どうにか会長が納得するロゴを創作して欲しい」
すると世界でも有名なクリエイターたちが集められた。が、しかし・・
「これ以上の素晴らしいデザインの創作は無理です」
ご丁寧に数千万円のお詫び金まで添えて、広告代理店は辞退を申し入れてきた。
織田は、陽だまりに寝転ぶ猫のように自宅の庭先で横になる日が続いた。
そこに火中の栗を拾うかの如く、社会人一年目のまだあどけなさが残る小娘が、朝方の強い雨がやんで手の届きそうな低い空に大きな虹がかかった朝九時一分に、織田の自宅に押し掛けてきた。
「これ、どうですか」
怖いもの知らずの濁りのない真っ直ぐな瞳を輝かせて、正座をすると綺麗に両手を添えてキャンパスを差し出した。
そこには、紫の「V」を中央に空と海を描き、猫と鮫と蛇が仲良く日向ぼっこをしている。
誰がどう見ても、どう考えても不釣り合いなのにピッタリしっくりくる、まるでピカソの絵画みたいなロゴが描かれていた。
「これ・・・・あなたが・・・・」
やっとの思いで身を起こした織田は小さくつぶやいた。
死人の目をしていた眼光に光が差すと、キャンパスを両手に抱えたまま、もう折れそうに痩せ細った脚で織田は静かに立ち上がった。
長い長い沈黙の後には、言葉もなく大粒の涙をひとつこぼした。
「ありがとう、ありがとう・・・・ほんとうに、ありがとう!」
三途の川を渡り切ってもうすぐ地獄に着く場所からドローンにでも乗って飛んで戻ってきたみたいに顔に精気が宿った。
「ところで、あなたはなにもの?誰なの?」
織田は坂口あらたの姉の両手を握り締めた。
「坂口さん、うちにこない」
織田は、その才能に惚れこみ転職を促した。
「すみません、あたしには今の会社で、まだやり残したことがたくさんあるので」
「そう、残念だわ。じゃあ、このデザインの契約とは別に、あなたにお礼をしたいんだけど、どうさせて貰えばいいかしら」
「そんな、とんでもないです。お礼なんて」
「いいじゃない。あたしの気持ちなんだから、水臭いこと言わないで受け取ってよ」
「でも、うーーーん、じゃあ、もし、もしですけど・・・」
「なによ、もったいぶらないで、なんでも言って」
「では、失礼と無理を承知で。あたしにはあらたという弟がいます。彼は天才的な線を描きます。でも、きっとその才能は誰にでも評価されるものじゃないかもしれません。今は大学に通ってますが、ちょっと人より身体が弱くて。きっと卒業して就職したら、あんまり厳しい会社だと無理だと思うんです。でも本当に凄い才能を持ってて。なので、もし織田先生のところで働かせて頂けたら。甘やかして欲しいって言ってるんじゃないんです。先生にならあらたの才能を認めて頂けるんじゃないかと。どうでしょう?」
織田は深く頷く。
「あなたと同じ逸材がもうひとりいるってわけね。わかったわ。約束しましょう。必ずあたしの会社で仕事ができるようにするわ。坂口あらたさんね」
安心した優しい笑みを浮かべた坂口あらたの姉は、この約束を見届けることなく生涯を閉じた。
「バカ野郎・・・ありがとう!」
織田は、ざっと降った夕立の空で出会った彩雲に、キャンパスを抱えて乗り込んできたときのあの初々しい彼女の顔を思い浮かべて、深々とお辞儀をした。
七瀬は歯を食いしばって、絞り出すように口を開く。
「織田会長は、ご自分の命を刻んでいたんですね。この時計たちに」
「そうね。だからあの三人に任せるの。大丈夫よ。あの子たちは地獄を見てきているの。これぐらいのトラブルで潰れるもんですか」
明智は豪快に笑う。
「冥途の土産になるぐらい、いい話だったでしょ」
明智は、香りを楽しむようにカップの紅茶を飲み干す。
「あなたは、いや、あなたと織田会長は・・・なんて人なんだ」
七瀬は、下を向いて大きく肩を震わせる。
明智は、満足げに口の両端を持ち上げ、そっと七瀬の涙でも確認するように覗き込む。
時計の世界
地下鉄の駅に向かう坂口は興奮を抑えられない。
夜中に降った強い雨で街全体がうっすらとかすんでいる。
「ぼくが営業ですか?」
不安しかなかった始まりは、失敗の裏に隠れていた成功の種がこんな形で芽をふいた。
心のどこかで、いつも絶対不可能だと思っていた。
「きっと、小さな成功が積み重なっても、どこかに大きな失敗が隠れていて、やっぱり最後はダメでしたってことになるんだ。きっと」
坂口は、そんな言葉を何度も自分に言い聞かせていた。
その理由は、はっきりしてる。知識も経験もノウハウも知恵も、ついでに言えば運もないから自分は失敗するのが当然の帰結、そう思っていた方が楽だったし安心できたから。
でも高見亮と島津ペッサって相棒ができたら、少しずつ風向きが変わっていった。
すると、なぜか周りにいる人たちも変わっていった。
坂口あらたが、これまで持っていなかった運って奴が、なぜかこちらに手を振り始めた。
「きっとぼくも変わったんだ」
瞳から一滴、静かに涙がこぼれた。
「こういうのって、奇跡っていうんだろうな。凄いな、本当にあるんだな、こんなこと」
ふと目の前に高見とペッサの顔が思い浮かぶ。
「高見、ペッサ、ありがとう。二人のお陰だよ、こんな奇跡に出会えるなんて」
当人を前に恥ずかしくて、とても口にはできない。
にわか日和の空はやけに明るい。
新着したスーツに腕を通すと、まるで生まれ変わったように吸い込む空気が清新に感じる。
・・・営業は楽しいよ
姉の言葉だけが、胸の奥深くで蘇る。
でも、なぜか、姉の顔を思い出そうとすると、全然似てないペッサの顔が浮かんでくる。
「はっはっは。ごめんな、お姉ちゃん。お姉ちゃんの方が美人・・・・」
口ずさんだ坂口は急に左胸を押さえて、うずくまる。
「うっ!」
そう口にした瞬間には、もう目の前が真っ白になる。記憶を失っていく自分を支え切れず、頭から階段を崩れ落ちる。
ドンドン・・・ドン。
スーツケースが転げ落ちるように、大きな音を立てながら二段飛び三段飛びで、坂口の身体は宙に舞い、二十段下までスピードをあげて落下する。
きゃあー!!
周囲に悲鳴がこだまする。
左胸を押さえたまま、仰向けに倒れた坂口の頭からは、ドクンドクンと音を立てて血が流れている。
「誰か、早く救急車、救急車! 凄い血よ! 死んじゃうわよ、この人」
辺りは血の海に変わり、階段を上段から下段に真っ赤な血が滝のように流れ落ちる。
「坂口が病院に運ばれた?」
展示会場にいる高見が携帯に叫ぶ。
なにが起こったか状況が把握できないペッサの瞳は大きく見開かれ、苦悶の表情のまま茫然と立ち尽くす。
携帯を切った高見は、大きく深呼吸をして一度目を閉じる。
「ねえ、坂口くん、どうしたの?」
ペッサは震える声で訊く。
高見は、かッと目を見開くと、いつものかすれた声で答える。
「駅で倒れた。呼吸をしてないらしい。原因は不明だ」
ペッサは顔面蒼白になって目が左右に大きく泳ぐ。
「息をして、いない?」
口を抑える手が震える。
「いいか、俺は病院に行く。坂口は司会の予定だった。代わりができるのはお前だけだ」
高見からも坂口からも、これまで「お前」と言われたことはない。頭の上から降ってくる言葉が自分に向けられていると気づくまでに、一瞬の間があった。
「え?司会?あ、た、し?なに言ってんのよ?こんなときに」
高見の顔を見上げるペッサは、目をぱちくりさせる。
「お前、もしもの時のために練習したんだろ」
「もしもの時って、もしもの時だよ。ちゃんと練習なんかしてないわよ。それに坂口くんになにかあったんでしょ?展示会どころじゃないじゃない」
「バカ、しっかりしろ。ここまできて中止になんかできるか」
「でも・・・」
「俺たちの夢が、会長の夢が叶うんだ。頼む!坂口も、それを望んでいるはずだ」
「だって、坂口くん・・息がないって・・・・」
目が泳ぐペッサは、しばらく首を垂れる。
「大丈夫だ。坂口は死んだりしない。もし死んでたら三途の川まで行って俺が連れ戻す。約束する」
できもしない約束に、高見は力を込める。
「だから、頼む!坂口のためにも!ペッサしかいないんだ!」
顔を上げるペッサは、半分泣きそうになりながら涙は見せず、いつもの通り、怒っている。
「わかったわ、もうどうなっても知らないからね」
ペッサの瞳に強い光が差す。
高見は安心したようにペッサの肩をポッンと叩く。
「ペッサなら大丈夫。それになにかあったら俺が責任取って辞表でも出すよ」
「冗談じゃないわ。あたしは、いつだって辞める覚悟はできてるのよ。それに・・」
ペッサに笑顔が戻る。
「あたし失敗しないので」
そう言えばペッサはあの女優にも似てるな。
くだらないことが頭に浮かんだ高見は、右足を引きずりながら専用のベンツタクシーで会場をあとにする。
坂口の運び込まれた病院には何台もの救急車が停車し、赤いランプがそこここで点灯している。
「すいません、坂口あらたを知りませんか?さっき、ここに運ばれたらしいんです」
走りながら目の前を通り過ぎようとする看護師と思われる女性を呼び止めた。
「あ、坂口さんですか。ご家族の方ですか?」
「いえ、会社の同僚です」
「そうですか。今、危険な状態なのでICUに運び込まれています。当分の間、待合室でお待ちください」
「危険な状態って?坂口は大丈夫なんですよね?」
「心臓のことなのでなんとも言えません。とにかく待合室で」
「心臓のこと・・・・・?」
あいつ、心臓が悪いなんて、これまで一言も・・・・・。
言葉にならず、心配とこれまで俺たちに隠していたことへの恨みや怒りが心の中をぐるぐる廻る。
「・・・・坂口、目を覚ましてくれ!」
ふと腕時計に目をやると、まだ午前九時を廻ったばかりである。
展示会の開会は十三時だ。
「薬を投入するよ」
「脈が落ちてるから監視を怠らないで」
「輸血が必要かもしれない。慎重にいこう」
坂口の治療にあたる医師や看護師の会話が飛び交う。
「坂口、頼む!生きてくれ!」
ICUの前の廊下の椅子に腰かけ、両手を合わせる高見は、生きてくれ生きてくれ、と目を閉じて呪文のように繰り返す。
ボーン、ボーン、ボーン・・・・・・・
掛け時計が、十二時の鐘を鳴らす。
ICUの中から坂口の母親が、疲れ切った表情で高見の前に姿を現す。
「高見さんですね」
その落ち着いた口調に嫌な予感がして、高見は身震いをする。
「はい、そうです。あの・・・坂口は・・・・・坂口は・・・?」
彼女は目を閉じる。
高見は、静かに立ち上がると、もう一度口を開く。
「坂口は・・・・・・?」
「目を覚ましました、やっと」
彼女は、疲れ果て、やつれた声でそう応える。
「会ってあげてください」
静かに高見を促す。
「・・・・坂口」
高見は、恐る恐る震える声で静かに名前を呼ぶ。
まだ寝ボケ眼の坂口は、酸素マスクをつけたまま、話しずらそうに口を動かず。
「高見・・・・来て、くれたのか。心配、かけて・・ごめん、な」
一単語一単語の間に、風が吹き抜けるようなヒューヒューって音がする。
息苦しさが伝わってくる。
「坂口・・・・・」
そっと手を握ると、高見はたまらず号泣して座り込む。
「展示会は・・・大丈夫、かい?」
坂口が訊くと、高見は、今日初めて笑顔を見せる、
「ペッサ様がいるんだぜ。いかようにでもしてくれるよ。俺たちの出番なんてないよ」
「ほんとう、だ」
坂口も今日一番の笑顔になる。
陽が高くなると病室に注ぐ光が明るさを増し優しさを増す。
「ここがね、時々、痛むんだ」
一時間ほどして酸素マスクが外れた坂口は、左胸に静かに手を添えながら話す。
「そんなことなにも言ってなかったじゃないか」
まだ高見は涙目をしている。
「子供の頃は三十歳までは生きられないって言われてたんだ。でもお姉ちゃんがね・・」
病室から窓外に目を向けると、静かに語り始める。
姉は水色の便箋に万年筆で記した遺書を一通だけ残した。
大切そうにハンドバックの一番奥に。
弟のあらた宛に一通だけ。
あらた、ごめんね。
あたしは思ってたより弱い人間みたい。
あらたの心臓がいつ止まるかわからないと知った時から、健康なあたしが頑張らなくちゃって努力してきたつもりだけど。
ダメだった。
あたしは、今の世界には向いてないみたい。
フィットしないっていうか、居場所が見つからないっていうか。
誰と一緒でも、相手が笑ってくれても、楽しそうにしてくれていても、
やっぱり、いつも、あたしはひとりだった。
孤独だとか絶望だとかじゃなくて、ひとりだけ別の星の住人みたいに思えたの。
でもね、でも、あらたといるときだけは、あたしも同じ星の住人なのかなって感じることがたくさんあったの。
あらたの絵、大好きだった。あらたが描いた街に住みたいなって、いつも思ってた。
あらたが描いた線の上には、あたしが歩いていい空間が広がっているように感じた。
もしかするとあらたと一緒になれば、まだあたしは生きられるかもしれないって、そう思ったの。
ね、あたしの心臓を移植して。
そして、もう一度、あたしをあらたの世界の中で蘇らせて。
そうしたら、きっと笑顔になれる。きっとあたしらしく楽しめる。
わがまま言ってごめん、でも力を貸して。
お願いね
遺書は、あまりに唐突で衝撃的で、生死の選択を迫る神や仏に委ねる世界のものであった。
「まだ動いてます。今なら間に合います」
急かす医師の言葉は、悪魔の言葉に思えた。
せめて事務的な口調なら聞き流せたし、自分を責めることもなかったかもしれない。
「弱虫の坂口あらたのためにお姉ちゃんは命を差し出したんだ。お前が殺したんだ」
そう認めろ、と耳もとで、もうひとりのあらたがささやいた。
両手で耳を塞いでも、何度も何度も繰り返し繰り返し、繰り返された。
「お姉ちゃんの心臓をお前が奪い取ったんだ。お前は殺人鬼だ、悪魔だ」
気が狂ったみたいに泣き叫ぶあらたの肩を、姉の腕かと間違えるほどによく似た母の細い長い腕が抱いた。
そして蚊の鳴くような小さな声で、ただはっきりと口調で言葉を発した。
「先生、お願いします」
遺書を握りしめていた母の掌は、爪が食い込み真っ赤に染まり、床は血だまりになっていた。
「お姉ちゃんがヤンちゃでさ。よく暴れるんだ」
苦笑する高見の瞳は、まだ充血している。
「坂口、お前、そんな大切なこと、なんで隠してたんだよ」
高見は、少し口を尖らす。
「心配かけちゃダメだと思ってさ。なかなか言い出せなくてさ」
ゆっくり状態を起こした坂口は、頭を下げる。
「本当に、ごめん」
・・・許してあげるわ。
ペッサの声が、窓から吹き込むそよ風に乗って二人には聞こえたような気がした。
「そう言えば・・・社長に電話したとき、なんか全然焦ってなくてさ。『彼女の心臓は強いから大丈夫』って言ってた。社長は移植のこと知ってたのか?」
高見が、不思議そうに訊いてくる。
「え、ぼくは会社の人に話したことないよ。高見が初めてだよ」
坂口も首を捻る。
「ねえ、林檎、食べる?これ美味しいらしいわよ」
坂口の母親が、横から明るく声を掛ける。
「まさか、母さん・・・・・?」
坂口と高見が視線を投げると、母親はふっとかわして笑みを浮かべつつ器用に包丁を滑らせる。
一瞬、手を休めると天を仰ぐように視線を上げる。
「あの方のお陰ね」
「坂口さんになにかあったんですか?」
七瀬は、メイン会場内をゆっくり歩く明智に慌てて声をかけてくる。
「ちょっと体調を崩したみたいね。疲れが出たのかもしれないわ」
ひょうひょうとしているその落ち着きに七瀬は少しイライラする。
「明智社長、今日は発表会ですよ。メインの司会がいないなんて」
「大丈夫よ。島津ペッサが代わりをするわ。彼女、テレビ局から誘いがあったくらい司会が上手なの。プロ並みよ」
「本当ですか?それは安心だ」
安堵する七瀬に背を向けると明智は首をすくめ、舌を出す。
「知らないわよ、そんなこと。学芸会程度にはするでしょ」
明智は会場入り口に視線を投げると、少し真剣な眼差しに変わり、軽く首肯する。
すると素早く踵を返し、来客と懇談する七瀬に近づく。
「七瀬さん、ちょっと大事な話しがあるの」
「え?こんなときにですか?もうすぐ開会ですよ?」
こいつはなにを言い出すんだ、と口にしたい気持ちを抑え、顔に不満という文字を描いて軽蔑の目で明智を見る。
「すぐ終わるわよ。そんなに怒らないで、大切な話なの、よ。ほーら」
そう促すと明智は、七瀬の掌に指を絡ませて、静かに、しかし強引に会場入口から外に出る。外は、世間でも注目を集めるイベントなだけにマスコミ各社の車が列をなしている。
「そこまで行きましょう」
と言って、明智は七瀬の腕を引っ張って、玄関から百メートルほど離れた路地に入る。
「明智さん、もういいでしょう。この手を放してくださいよ。痛いですよ」
不快感を隠さない七瀬は手を振って?がそうとする。
「離さないわよ、七瀬さん」
「え?なんなんですか?明智さん、随分失礼な態度ですね」
七瀬は、もう一度手を剥がす仕草をするが、力を込めて握る明智の手は剥がせない。
すると、いつの間にか黒いスーツに身を包み、綺麗に角刈りされた男たちが、二人を取り囲んでいることに七瀬が気づく。
どう見ても暴力団構成員にしか見えない。
「七瀬昭さんですね」
ひとりの男が問い掛ける。
「え?はい、そうですが。あなたたちは?」
「警視庁の刑事さんよ。あたしの知り合いなの」
明智は口の両端を上げる。
「もう逃がさないわよ。広告代理店の実行犯の男たちが吐いたわ。高見を襲ったのも、ネット上で三人の家族を犯罪者に仕立て上げたのも、七瀬さんの指示だって」
明智は薄笑いを浮かべる。
「よかったわね、刑事さんが来るって言わなかったら、あの時計台から吊るそうと思ってたのよ。残念だったわ」
明智は大きく顎を一度振り上げ、戻すと、また薄笑いを浮かべる。
少しワインを口にしたのか赤みを帯びていた七瀬の顔は、一瞬で蒼白に変わる。
「私は・・・なにも・・・・」
「もう遅いわよ。検察も警察も安心するぐらい、そうね弁護士が辞退するぐらい証拠は揃っているの」
もう一度、薄笑いを浮かべたあとに、突然、鬼の形相に変わる。
「高見亮の黄金の足を奪った恨みは一生忘れないわよ。あたし根に持つタイプなの。もう、あんたに今世の幸せな時間はこないから。劫火と針山の上を歩く残りの人生、せいぜい苦しんでね。牢屋の中で!」
ゆっくり静かな口調とは裏腹に、明智の目には怒りがあふれている。
殺される、と震えあがる七瀬は腰から砕け落ちる。
「あ、安心して。死刑になんかしないから。楽してあの世に行こうなんて思っても無駄よ。絶対、長生きさせてやるわ。一生臭い飯を食って、いつまでもいつまでも、後悔するのよ」
そう告げる明智の頭上を数十羽のカラスが舞い踊り、真っ黒な影が全身を覆った。
「冥途の土産にいい話を聞かせてあげたでしょ。どうせ覚えてないわねェ。泣いた振りもしてたけど下手だったわ。涙ぐらい流しなさいよ!」
時計メーカーの役員として世界中を飛び回りながら広告代理店の社員と共謀して、芸術品コレクターとして、殺人もいとわず凶悪な手段で窃盗を繰り返していた。国際手配犯でもあったのに、その存在は謎に包まれていた。
しかし彼は見誤っていた明智園子の力と執念を、いや織田ゆみが創り育てた株式会社バッジョの団結力と人財力を。
高見が線路に落とされてた翌日、明智は管理職を集めて緊急会議を開いた。
「いい、高見を襲った実行犯と指示した黒幕をあたしたちの手で捕まえるのよ。警察なんかに先を越されちゃダメよ。これは社長命令よ。いいわね、絶対よ」
「こんな社長の顔、見たことないぞ」
出席者は震えあがった。
今まで、どんな大きなトラブルに直面しても、大災害で業績が大きく落ち込むことがあっても微動だにせず、社長は笑みを浮かべウイットに富んだ会話と余裕の振る舞いで見事に事態を収束させてきた。
しかし、ここにいる社長の目には、まるで犯罪者のような狂気の光と尋常じゃない怒りの炎が見える。
「これはオフレコよ。坂口にも島津にも」
三人の知らないところで、株式会社バッジョの管理職は完全に探偵業務に舵を切っていた。
情報収集活動は、民間の大手商社や証券、金融機関などは勿論、警察や暴力団をも凌いだ。
正確に言えば、明智個人の豊富な資金を惜しみなく投入し、必要とあらば金も握らせて情報を集めた。人海戦術を取って尾行や張り込みもした。
「復讐こそ、最も人間の力を限界まで絞り出せるのよ」
明智は率先垂範で動き回り、皆に号令をかけ鞭を入れ続けた。
展示会場は、外で起こった逮捕劇も知らずに熱気に包まれ、来場者が次から次に入場してきている。
ペッサは、誰にも悟られないように小さく深呼吸をする。
司会マイクの前に立つと・・・
「頼むよ、ペッサ!」
「柄にもなく緊張するなよ」
高見と坂口の声がどこからともなく聞こえた気がする。
・・・あたしは一人じゃない。
胸に手を当てると、イタリアの地で一度死んだはずの自分が、信じられる人たちに囲まれてスポットライトが当たるステージに立つことが信じられずにいる。
「もしかすると、これは夢かもしれない」
そう独りつぶやくと、社長の大きな声が飛んできた。
「島津ちゃん、大観衆がお待ちよ。さあ、始めましょ」
社長は、今日もお似合い?の濃いピンクのワンピースに、特製の十センチ以上はあるだろうハイヒール姿で、器用に足を組んでいる。
「この人は、いつもこうしてこっちにいてくれる・・・なんて人なの、あなたは」
ペッサは、二メートルにも届きそうな長身の社長を見つめて、心で信頼の言葉をもらした。
「ふーーー」
深呼吸をすると、背筋が伸びた。
「本日は御来場いただきまして誠にありがとうございます。只今より天才織田ゆみが遺した時計たちが紡ぎだす幻想的な世界に皆様をご招待させて頂きます。それでは、ゆみブランド発表会の開会です」
会場が一瞬、真っ暗になる。
バイオリンの音色が響き、フルートとピアノが音を重ね合わせる。
織田ゆみが大好きだったカーペンターズのメドレーが、ロック調に編曲されて会場を包み込む。
観衆の心に音色が染みわたると、次の瞬間、大波が引くように静寂が訪れる。
パッと色とりどりの照明に光が入ると、時計たちがまるで生きているかのように姿を現す。
この日を待っていた世界中の織田ゆみファンから地響きのような拍手と歓声があがる。
了
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