第2話 クトゥルフ教団の呼び声
かくして、時間は1分2秒後に戻る。
少女をかばった轍は……騎行師としての義務である。汝、すべからく民を尊び、かの者たちの守護者たるべし……肉片と木片を顔からぬぐいながら、術具を起こした。
術具のタイプは懐中時計型。瑞燈製。メーカーは〈 鈷 座《 *》〉……の最低クラスの、型落ちの、中古。それでも30万錬もした。家賃半年分だ。
蓋をあけて、中身をすばやくチェックする。
大小の歯車がパズルのように組み合わさった駆動機構が、雨上がりの陽射しを反射して輝く。手のひらサイズの小さな宇宙。機械仕掛けの銀河の渦。所有者の意志に応えて、すでに時を刻み始めている。ベルガモットとマンダリンの最初の香りがむわっと匂いたつ。潤滑油に使用した魯檸檬土《ローレモント*》産の香油の香りだ。砂漠の赤い夕陽の香り。
残弾数をチェックする。
小粒ダイヤモンド0.1カラットが20粒(時価1万×20)。駆動機構の円周上に固定されている。透明度は低いが、無瑕。不発にはならないだろう。
術具のわきの釦を押し、石座(宝石をセットする部分)をスイングアウトさせる。リボルバー拳銃のシリンダーを薄切りにしたような円盤だ。レンコン状の穴が空き、鉛玉のかわりに6発の宝石が装填されている。
オリーブ油の色をした、北極産の橄欖石3カラットが2顆(時価3万×2)。
最高品質のアメシスト10カラットが3顆(時価15万×3)。
低品質だが、れっきとした劉馬《ルマ*》産の紅玉1カラット(時価25万)。
これで合計6発の強力な〈術〉が撃てる。絶対に使いたくない。理由は値段だ。〆《しめ》て76万錬。命よりは安い? 口で言うのは簡単だ。
轍はうめき声をあげて、術具の蓋を閉じ、円盤を叩き戻す。
行かなければ――ここまで馬の首をぶっ飛ばした爆心地へ。間違いなく、ヤツらがいる。
足元を見ると、例の女学生が腰を抜かして、呆けていた。まだ銃で撃たれた顔をしている。
轍の涙腺がゆるむ。思わず顔をそらした。同情、罪悪感、子どもっぽい自分への嫌悪。もしかしたら、サインのひとつでももらえると思ったのかもしれない。ファンが有名人に会えた。それだけの話ではないか? その結果が罵倒と全否定。「何事も挑戦だよ」とか、抹独《マルドック*》風の役に立たないクソなアドバイスをひとつかみ与えておけば、それで満足しただろうに。
傷つける必要はなかった。
轍はしかめ面で涙腺を縛り、女学生を助け起こそうと手を差し出し――やめた。その手は握り拳になり、しかめ面は純粋な嫌悪に歪む。
彼女の袖がめくれて、手首に1個の術具が巻いてあるのが見えたからだ。腕時計型ではなく、2発きりの小型拳銃型。螺逸製。メーカーは黒翼社。少なくとも50万はするハイブランド。いわゆる“冒険者御用達”の一品だ。それに、いま気づいたが、こいつが背負っている長めのバッグも、女学生らしく庭球のラケットか、騎球《ポロ*》のスティックでも入れてあるのかと思いきや、銃刀法許可証の金色のシールが貼ってあるではないか。
近ごろ、学び舎区では、大学の構内で冒険者協会の勧誘が問題になっている。カルトの勧誘よりたちが悪い。あの山師とごろつきと墓荒らしの仲間になりたがるバカが、はたしてこの学生街にいるのかと思っていたが、なるほど、この手のお上りさんならありえる。辺境の弱小国の、田舎町の小金持ちが、五大国の教育を受けさせようと、バカ息子やバカ娘を送り込んでは、騎行師の仕事を増やしているが、こいつも同じタイプだろう。
「冒険なんてくだらない。故郷に戻って結婚しろ」
そう言い捨てると、轍は〈転移〉の術式を発動した。彼が消えて生まれた人型の真空に、空気が流れこむ。パンっと風船が割れるような音が鳴った。
雅蘭製の白磁のデミタスカップが倒れて、馬の目玉が床に転がり落ち、瑠璃色の空を恨めしげに見上げた。
白い花々が咲く中庭に、轍は〈転移〉した。彼の体積ぶんだけ大気が押し出され、平手打ちのような風圧が轍の頬を叩く。旋風が巻き起こり、白百合や白の天竺葵をゆらし、円周状に雨露を飛び散らせた。
轍は周囲を見渡す。絶対に宝石は使わない。特に劉馬産の紅玉は使わないと誓った轍は、不快に唸って、すぐさま〈術〉を起動した。
鋭い顎に泡を垂らす6頭の軍用犬が、幼なじみの巫女に飛びかかるところだったからだ。
1カラットの紅玉(時価25万)が術具の駆動機構に噛み砕かれ、美が喪われ、エントロピーが生じる。それは古代人が魔力と呼んだエネルギーを虚空から汲み上げる。力はレーザーに変換され、超高温のプラズマを生成し、〈火球の術〉がすぐさま放たれた。
直径1メートルの火球は6頭の軍用犬――品種は狼犬、対人用に調教され、おそらく興奮剤を投与されてから解き放たれた、いわゆる“撃ちっ放し”タイプの動物兵器――を巻き込んだ。血肉が一瞬で蒸発する破裂音と球状の白煙が発生し、火球にくりぬかれた空間から、切断面が炭化した犬の足10本と犬の首3本が、白いチューリップの花壇に、ぼとぼとと零れ落ちた。
この中庭は、白鴉聖統教団《 *》の寺院の霊園だ。植えられた白い花はすべて神聖な墓石のかわりなのだが、いまは冒涜を許してもらうほかない。
「天降石! 何をしているんだ!?」と轍は叫んだ。
「それはこっちのセリフだよ! いったい何が起きてるの?」と天降石は白い靄の煙霧質と化した犬の血肉にむせながら言った。
「九頭龍教団の同時多発テロだ。警戒中だったが……まさか本当にやらかすとは」
「ひえー。商売敵だからって、ここまでする? ワンちゃんのお昼ごはんになるとこだったんだけど」
天降石はいつも通りとぼけた口調で言った。風信子のような巻き毛と淡い白紫の髪、くるくると落ち着きのない蜜弥瑪瑠産の星紅玉のような瞳、質素な鉛白色の小袖に半ズボン、つややかな太ももには装填衣のガーターボーンが食い込んで、膝丈までの仕事用ブーツの中へつづいている。
白鴉聖統教団の巫女、雨夜星・樵積=天降石。その名前は「雨夜の星のもとで薪を集める隕石」ほどの意味である。
「他のところも狙われてるはずだ。今確認をする。君はみんなを連れて食堂へ避難しろ」
「まさに、そうしようとしてたんだけども――」
「……誰がいない?」
「史くん。おぼえてない? 轍が出ていく前は、よく懐いてたでしょ? いまは10歳」
「あいつか。わかった。僕が探す。他に不審者を見ていないか?」
「お腹の空いたワンちゃんしか見ていませんな」
「動物兵器をばらまいただけか。たぶん、わざと狂犬病のキャリアにしてる。絶対に噛まれるな。2階に登って階段にバリケードを――いや、他の動物兵器、例えば狩猟豹あたりを使われたらまずいが……」
「ともかく了解。どう隠れるかはこっちでなんとかする。我が教団の歴史は逃げまわる歴史ですからな。轍も気をつけてね。あの子をお願い――そうだ、これ使って!」
天降石は髪飾りを外そうとして「あれ、外れぬな。ええい、もういいや!」と庭バサミで結び目ごと切り落とし、髪飾りに象嵌されたムーンストーンをえぐって、ヒヤシンスいろの髪の束といっしょに轍に押し付ける。10カラットはある。質の良いムーンストーンのみに見られる、シラーという青白い光を宿している。
25万はする。貧しい白鴉教徒には一財産だ。しかも自分で髪を切ってまで。
「ありがとう。もしものときは使わせてもらう」
轍は石座をスイングアウトさせ、砕けたルビーを排莢し、かわりにムーンストーンを装填した。
「“もしも”のときが来ないよう、神様に祈っておくよ」
天降石は中庭を抜けて、白いペンキが塗られた食堂へ走っていく。すぐにほかの巫女が少女の肩幅ぶんだけ門扉を開けて、無鉄砲な同僚を引きずり込んだ。
「本当に気をつけてね!!」と首だけ門扉から出して天降石が言った。
「いいから早く門を閉じろ!!」
轍は叫びつつ、横から駆けてきた2匹のウルフドッグを〈火線の術〉で射殺した。高温のレーザーが眉間に黒焦げの貫通孔をくり抜き、哀れな狂犬は白い花園に倒れる。
くそ、と轍は舌打ちする。冷静に考えれば、なにも〈火球〉を使う必要はなかった。いまみたいに〈火線〉で充分だった。そうすれば、小粒ダイヤモンド1粒に罅が入るくらいですんだのに。
いらだちを抑え、支部へ遠話をかける。
「こちら山道、白鴉教団の学び舎区寺院がクトゥルフ教団の襲撃を受けています」
『敵戦力は?』
「教団員はいません。おそらく――」みれば、中庭からエントランスへつづく拱門を荷馬車の残骸がふさいでいた。「――暴走させた馬車をつっこませて出入り口をふさいだのち、動物兵器を解き放ったものと思われます。典型的な使い捨ての“撃ちっ放し”型。無差別に人を噛むタイプ。民間人は食堂に避難しています。ただし1名の児童が行方不明です。僕が捜索します。どうぞ」
『すまんが、応援を送れるのは4分後だ』
「つまり送れないということですね? いったい他の場所で何が?」
『瑞燈医科歯科大が襲撃を受けた。しかも動物兵器と侵略的外来種の合わせ技だ。狂犬病キャリアの軍用犬に南那咤のゴキブリスズメバチの巣だよ。1匹でも逃がせば大変なことになる。主な騎行師はそっちに行ってる』
なるほど、夷教徒《いきょうと*》の孤児にくらべれば、善良な瑞燈人と内つ国の生態系のほうがはるかに重要ですものね、と言いかけたが、轍は控えた。それではただの言いがかりだ。医科歯科大には500人以上の患者がいる。
「2分後にまた報告します。とにかく行方不明の子を探さないと」
『頼んだぞ。武勲を祈る。いざとなれば、俺が出る。無茶はするなよ』
「交信終了」
と、遠話を切りつつ、かかってきた猟犬を〈火線〉で射殺した。哀れな生き物だ。何の罪もないのに、と一瞬だけ同情したが、ご丁寧に犬用の防弾ベストを着ていた。轍が羽織っているカジュアルな群青色の陣羽織より性能が良い。生意気な畜生が。
荷馬車の残骸から3頭の狂犬が泡をふきながら躍り出る。軽く手首にスナップをきかせ、熱線の横一文字を描き、駄犬の首を輪切りにした。射線上の微粒子が焼却され、扇形の赤い光が瞬いて消えた。焦げた埃の香りが犬の焼肉の臭いに混じる。
物音に振り向く。割れたステンドグラスのすきまを子供と大人の走る影が横切った。轍は騎馬民族風の新月刀を引き抜く。
視線を背後に配ると、犬とは違うシルエットをもつ生き物がのっそりと荷馬車から降り立つところだった。3頭の鬣犬、棘付きの首輪にセラミックの犬鎧。クトゥルフ教団は動物園でも開く気か?
ハイエナは人のような笑い声をあげ、轍に駆け寄ってくる。その瞬間、轍は〈転移〉した。割れたステンドグラスの向こう側へ。
訳註
*〈 鈷 座〉……高位術具専門の職人集団。その歴史は爬市条約締結に遡る。
*錬……〈内つ国〉地方の通貨。この箇所の錬は正確には瑞燈・錬と思われる。
*魯檸檬土……魯檸檬土聯盟。〈内つ国〉最南部の都市国家や自治領、軍閥などが博愛主義にもとづき、ゆるやかに結びついた地域同盟。
*劉馬……劉馬諸侯国連合。〈中つ国〉地方の資源大国。
*抹独……抹独帝国連邦。極東の島大陸・奈落亜に位置する共和制国家。『成功は善』という利己的な思想で知られる。
*騎球……馬に乗って行う球技。地球にも実在する馬球とほぼ同じ競技だが、社会的な認知や普及率が全く異なるため、漢字は別字を用いた。
*白鴉聖統教団……宗教団体。〈白き見えざる神〉という唯一神を信仰しているが、それ他に天使、天人、聖人、聖女、妖精、妖怪なども信じているため、事実上の多神教に分類される。生命の価値を最重要視し、〈拝命教徒〉とも呼ばれる。
*南那咤……中央大陸の〈中西〉地方最南部に位置する自然保護区。人類発祥の地とされるが、三度の世界統一により世界中の侵略的外来種が流入したため、現在は人類の生存に適さない、疫病と害虫の巣窟と化している。
*ゴキブリスズメバチ……ゴキブリの繁殖力と生命力、スズメバチの毒性と社会性を持つ昆虫。コレクターの人気が高く、冒険者による密輸が盛ん。
*夷教徒……〈鐵の王国〉末期に無神論が主流となり、あらゆる宗教の信仰者は夷狄視された。18世紀の現代でもその偏見は残っている。