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錬金術師

大公の花嫁

作者: PK23

大公の花嫁


+++


 七年前。

 大公領キサロを悲劇が襲った。大公の花嫁を魔物が攫ったのだ。花嫁は二十歳、美しく聡明で、巫女候補として預けられていた神殿から帰ってきたばかりだった。

 夫たる大公はすぐさま討伐隊を編成した。かれらは、半分目的を達成したが、半分は失敗という結果に終わった。夫は妻を取り戻したが、大公妃は領民の前に姿を現さなかった。


+++

+++


 そして七年後の春、キサロの城市の玄関口は、行き交う人々、旅の商人や税を納めに来た荷運び、役人や物売りなどででごった返している。

「さあ、シャナ。気をつけて。支えてやるからつかまれ」

 先に移動用の毛竜から降りたジンが、彼の主に振り返った。毛竜は、砂漠を移動するための動物で、極く短い体毛と柔らかい足を持っている。ジンは黒髪の大柄な男で、髪を短く刈って、砂避けに布に包んでいた。砂漠のきつい直射日光を遮るために、長い上着を着けていたが、布の下はかなり鍛えてあると判る、頑丈な体つきをしている。

 主のシャナは、大人しくジンの腕にすがって、毛竜の背から降りた。頑強なジンの肩は、シャナと、彼が抱くリ・ルーの重みを支えて、揺るぎもしない。リ・ルーは長毛の銀目猿の一種で、体長はシャナの肘いっぱいほどしかなく、猿というよりも猫か鼬に似て見えた。毛並みが美しいので愛玩用として高価に売買されるが、シャナはこれを旅の途中、砂漠で死にかけているのを捕まえたのだ。以来、シャナに良く懐いている。


+++


 偉大な錬金術師、シャナ・レーンの噂は広く平原中に聞こえている。

 平原で魔力を用いるものには三種ある。一つが召喚師、一つが呪禁師、最後が錬金術師だ。召喚師は魔物を召喚し、使役する。呪禁師はまじないを能くし、占いや予見、能力によっては、スピリチュアルな手段による病気の治療や、暗殺なども請け負うこともある。錬金術師は、彼らよりもずっと散文的で、科学的、化学的な根拠に基づいて、金属加工や薬品精製を行う。シャナ・レーンは、その知識の広さ、深さ、応用力に置いて、余人の追随を許さなかった。また、放浪の賢人であり、行く先々でその技術により様々な徳行を為すという風聞により、その神秘性がいや増して語られていたのだ。

 しかし、その噂だけを知っている者が、当人を見ればさぞ拍子抜けする事だろう。シャナは小柄な上に華奢な体つき、所作も極く控えめで、威圧的なところは全く見受けられなかった。むしろ、見る人は、その美貌こそ気圧されるかもしれない。白金の髪、極く薄い水色の目、肌も抜けるように白い。しかし冷たくさえ見えるその美貌を裏切って、気温の高さに少し上気した頬が、彼を健康に照り輝いているように見せていた。


+++


「賑やかな街だね、ジン」

「街道が交わっているから。シャナ、足元を見て歩け。ぬかるんでいる」

 言いかけて、ジンは警戒もあらわに目を上げた。

「ジン? 」

「誰かが、今、あなたの名を口にした」

 忠実な従者は主の問いかけに短く答える。シャナは放浪の賢者だ。ここを通ることは誰にも報せてはいない。しかし、驚くべきジンの聴覚は、この雑踏の向こうで何者かがシャナ・レーンの名を口にしたのを聞き取った。

 彼は、しばらく敵意をむき出しにして通りの端を見ていたが、やがて、その角に二人連れの男が現れた。一人は商人風、もう一人は、風体からいくと役人のようだった。商人が、役人を案内しているようだったが、道を折れ、シャナの輝く銀の髪を認めると、慌てたような小走りになった。

「シャナ・レーン様でいらっしゃいますね」

 二人は真直ぐに主従の前まで来ると、躊躇わずにぬかるみに跪き、偉大なる錬金術師に、最大の敬意を表した。ジンは不信げに鼻を鳴らしたが、何も言わず、シャナが彼らを立ち上がらせるのに任せた。彼らに殺気や悪意が無い事を、正確に感じ取ったのだ。

「お迎えに上がりました。大公殿下がお待ちです」


+++

2

+++


 大公の館は城市の中心にあり、堅牢な石造り、街と城壁に二重に守られた要塞だった。石の廊下を案内され、シャナとジンは奥まった一室に通された。大きく切り抜かれた石の壁には大理石の飾り窓が嵌め込まれ、床にはモザイクタイルが敷き詰めてある。部屋が思いがけず涼しいのに、シャナはほっと溜息をついた。床下から微かに聞こえる水音がその理由だろうと、優秀な錬金術師はわけもなく見抜き、砂漠においては最も贅沢な館の造りに興味を覚える。しかし、実際に究明するのは、少し待たねばならなかった。館の主はすでに待っていたからだ。肌の浅黒い、中年に差し掛かった堂々たる体躯の男だった。豪奢な衣装を身にまとい、宝石で飾られた額飾りで髪を留めている。

 一方、粗末な旅支度のままの錬金術師は、礼に則って恭しく挨拶した。

「初めて御拝眉の栄に浴します、錬金術師シャナ・レーンと申します。これは、従者のジン」

「キサロ大公ハーンと申します。突然の無礼をお許し下さい、レーン殿。近々、放浪の賢者がこの城を通ると聞いて、お通りを見張らせるような真似をしたのには理由があるのです」

「うかがいましょう」

 柔らかな声に促され、大公は語り始めた。

「七年前のことです。私はまだ若く、私の花嫁もまた若かった。彼女は二十歳、美しく、聡明で、巫女候補として預けられていた神殿から帰ってきたばかりでした。神殿が、どんなところかご存知でしょう。各地の才色兼備の良家の子女ばかりが集められて神々に仕える由緒ある聖地、そこに招かれたというのだから、彼女の優秀さ、見目麗しさは推して知るべしですよ」

「さぞお美しい方なのでしょう」

 シャナは如才無く同意する。

 この地方に置いて、『神』とは一種の現人神だ。各地から神託によって集められた男児たちが神殿によって養育され、世界の均衡のために日々祈りを捧げている。巫女とは、彼らの世話や教育を任される女性達の総称だ。一種の霊的な試験を受けて採用され、一生を神殿で終える者もあれば、一定の年季明けに実家に戻されて嫁に行くもの、独立して商売を始めるものなどその進路は様々だ。一般に、この地方では女性に人文的、科学的な教育をする慣習は無く、身分や経済的状況に関係なく識字率は低いのだが、神殿出身の巫女たちだけは別で、あらゆる方面に才能を発揮する場合も多い。最も一般的な職業は教師や代書屋などだが、稀には錬金術師や呪禁師、召喚師として名を上げる者もある。女性がそれほどの教育を受ける機会を得る事は稀であり、また、彼女たちが揃って容色に恵まれていたことから、「神殿にいた」という肩書きは、未婚の女性達にとってこの上無い釣書でもあった。

「彼女は生まれたときから私の妻となることが決まっていた――幼馴染でした。十二で彼女が神殿に仕えてから宿下がりを戴くまでの八年間、どんなに待ち焦がれた事でしょう。それなのに、突然の災禍に見舞われた。魔物が――彼女に横恋慕したのです。麗しい処女であり、また巫女にまで選ばれた霊力故に。おぞましいけだものの分際で。そいつは」

 大公は思い出すだけで、憤激に震えた。

「妻を攫ったのです。花嫁を、結婚式の前夜に。もちろん、すぐに後を追いました。手傷を負わせ、射落としたのですが、奴は彼女を諦めず、彼女を捕まえたまま、城内の一隅で力尽きたのです。そして、自らの命と引き換えに私の妻を虜にし、私からも、領民達からも取り上げたのです、永遠に。可愛そうに、あれでは生きながら死んでいるようなもの。是非とも貴方に救っていただきたいのです」

「一体、どういうことでしょうか」

「――こちらへ」

 大公は先に立ち、手ずから扉を開けて廊下を渡り始める。シャナたち主従も後を追った。

 回廊は暗く、涼しかったが、シャナは次第に強まる嫌な気配に眉を顰めた。ジンなどはあからさまに警戒を強めている。瘴気が濃く、ひんやりとしながら生臭い空気が凝っている。

「ここです」

 重たげな扉の前に出た。回廊の途中に唐突に現れたそれは、鉄鋲が打たれ、いくつもの錠が取り付けられている。

「これは? 」

 明らかに不自然な扉の出現に、シャナはいぶかしむ。

「この奥に大公妃がおります――昔はただの廊下でしたが、このなかほどまで逃げて魔物は息絶えたので、周りに石を積んで部屋を作らせたのです。あれを、好奇の目にさらしたくはなかったので」

 大公は、鍵束を取り出し、てずから一つ一つの鍵を開け始めた。

「どうぞ、ごらんなさい」

 開け放たれた扉の中を覗き込んで、シャナは声を失った。



+++

3

+++


 廊下いっぱいに、醜い石像が横たわっていた。それは鶏のような頭を持ち、角蜥蜴に似た胴体と、蝙蝠のような前肢を持っていた。全身はささくれだった鱗と棘で覆われ、それぞれが歯のように、彼の虜をがっちりと噛み締めていた。

 そう、彼は美しい女性を虜にしていた。亜麻色の髪、乳色の肌をした妖艶な美女だ。殆ど全裸の彼女は、獣のような石像の胴と尻尾に巻き込まれ、鋭い爪のついた後肢に掴み取られ、羽のような前肢がその姿の殆どを隠すようにして覆っていた。そして全身を覆う鱗と棘が、彼女の肌のいたるところを極めて優しく、極めて容赦なく、断固として捕まえてしまっていた。

「彼女が私の花嫁――キサロ大公妃です。追い詰められた魔物は、自らに石化魔法をかけ、自らの身体を檻として妻を虜としたのです」

 酷い臭気の真ん中に立って、大公が紹介する。そう、石像はその無機質な身体から、いまだけだものの臭いと、魔物に特有の冷たい瘴気を発していた。シャナは身震いせずにはおれなかった。知識だけは脳一杯に詰まっているが、霊的能力に関しては普通の人間と変らない。ジンが、庇うようにそっとその身体を支える。

「殿、この方々は」

 珠のような肌を恥じらいもせず、大公妃は訊ねた。居丈高で取り付く間も無い貴婦人の態度だ。

「錬金術師のシャナ・レーン殿だ。そなたも御名を聞いたことはあるだろう。そなたを助けてもらう為にお呼びしたのだ」

 大公が紹介したが、大公妃は軽く頷いただけで、直接は挨拶をする素振りも見せなかった。自分の為に流浪の賢者に頭を下げる、そういう身分の女性では無かった。そういう意味では、先ほどから賢者に対する礼を尽くしている大公の態度こそが奇異であり、また、妻への愛情の、余程の深さを示しているとも言えた。

 シャナはそんな生身の人間達には目もくれず、早速石像の足元にしゃがみ込んで石に触れている。従者のジンが、いかにも無遠慮な様子で一人ごちる。

「呪いで石化した魔物なんて、これは召喚師か、呪禁師の仕事だ。シャナに頼むのはお門違いというものだ」

「しかし、なままかな術師ではかえって歯が立たぬのです。何人もの呪禁師や、召喚師を招いて試みたのですが、石化の呪力は余りに強く、誰にも解くことができなかった。物理的に石を砕こうとしても、これもならない。普通の石ではないのです。下手に衝撃を与えると、それが石を伝わってかえって妻の身体を傷つける。剃刀のような鱗が、隙間無く肌に立っているのですから」

 大公が、従者の独り言に律儀に答えを返したとき、錬金術師が立ち上がった。

「閣下。大丈夫です、てはあります。この石の組成を分析して、液化溶剤を作ります。注意深く扱えば、有機物に――妃殿下のお体には傷を付けず、石だけを取り除く事ができるでしょう」



+++

4

+++


 その晩、主従はキサロ城の一角に居た。大公妃の廊下の程近く、さほど広くも無い部屋には、ぎっしりと様々な術具や呪具が並べられている。今までにここを訪れた術師たちが特に願い出て大公に入手してもらった、稀覯本や貴重な薬品の数々だった。シャナはその片隅に座り、乳鉢で魔物の鱗を磨り潰していた。それは今までに失敗して去って行った術師たちのいずれかが、大公妃の肌の傷と引き換えに砕き取ったものの一部で、本体から離されたとたんに酷く脆く散ったものだったが、シャナにはそれで十分だった。今までにも何度か、この類のものを扱った経験はある。錬金術師は作業を進めながら、必要な薬品や術具を思いつくままに数え上げ、ジンが部屋を探してその有無を確認していた。無いものはいちいち紙に書き込み、大公に取り寄せてもらうよう頼まねばならないからだ。

「リ・ルーは」

 突然、思い出したようにシャナが訊ねるが、かの小さな生き物を嫌っているジンの応えは素っ気無かった。

「どこかで女官に餌でも貰っているんだろう。そのうち戻ってくるさ」

 錬金術師はその答えで一応満足したらしかった。室内には沈黙が下りる。

「なんだか――」

 再びシャナが、そっと切り出した。

「可愛そうだよね、壊しちゃうのも…」

「何が? 」

 無愛想なジンの声に怯えたように、可憐な主は慌てて付け足す。

「だって、魔物は――よっぽど彼女を好きだったんだろう。自らを無機物に変えてまで、彼女を放したくなかったんだ、なのに」

「感傷だ。けだものに同情することは無い。彼女を捕まえているのは、要するに暴力なんだ」

「だけど」

 シャナはとまどったような顔をして、黙り込んだ。

「しかし――」

 ジンは疑わしげに一人ごちた。

「どうして、ヤツは、彼女の方に石化の魔法を掛けなかったんだろうな? 彼女を永遠に手に入れていたいだけなら? 」

「え? 」

 シャナが目を上げると、ジンは振り返り、歪んだ笑みを浮かべた。

「オレなら、そうしている」




+++

5

+++


 夜も更け、シャナは寝台に寄りかかり、未練たらたらで本をめくっているが、内容はもう殆ど理解できていない。旅の疲れか、眠たそうなあくびが頻繁になってきた。ジンはうとうとするシャナの足を湯で洗い、寝台へ押し込んだ。盥を持って、廊下へ出る。

「リ・ルー」

 廊下の端に、白い獣の姿を見て、声をかけるが、かの小さき生き物は自らの主人の従僕ごときに敬意を払った事など一度も無く、さっと身を翻して姿を消した。大公妃の部屋の方角へ走っていったように見えて、ジンは後を追った。あのような強烈な瘴気に当てられれば、リ・ルーのような小さくてか弱い生き物は、死にはしないまでも簡単に具合を悪くするだろう。シャナは悲しむだろうし、かかりきりになって看病しかねない。

 廊下を進むが、リ・ルーの姿は見えなかった。見つからないまま、ジンは突き当たり、大公妃の部屋の前に出た。

 獣が中に入ったとは思わなかったが、ジンは良いついでといわんばかりに、迷い無く扉に手をかける。幾重もの鍵は、ジンにとっては無意味なものだ。手を翳すだけで順に自ら床に落ちた。

「あら」

 戸口に現れた男を見て、大公妃は嘲るような笑みを浮かべた。

「半人前の魔物が、何の用」

「オレが半人前なら、あんたを捕まえているソレは子鼠以下の能無しだ」

 正体を見破られた従者は、しかしうろたえた様子も無く軽く答えた。あらかじめ、彼女に知られているのを心得ていたようだった。

「そうね、それは否定しないわ、術師の未熟は否定できない」

「意外と自分の実力を知っている」

「神殿の巫女に欠点はあれども自惚れだけはありえないわ。掃いて捨てるほどの先達がいて、未熟ものには絶えずそれを思い知らせてくれるもの。それに私、もともと召喚師としての能力はあまり高く無かったの。望んでいたのは、呪禁師として道を究めること。自惚れではないわ。私にはその才能があるの」

 つまり、そういうことだった。

 そもそも、石化した魔物を呼び出したのは、大公妃自身だったのだ。彼女もまた、特殊な技術と霊力の持ち主だった。そうでなければ、人の身が、四六時中この瘴気に当てられて、正気で居られる筈も無い。

「つまり、それが理由か? 」

「ええ、神殿に帰りたかったの。あの男の妻になどなりたくなかった。悪い人間だとは思わないけど、所詮、ただの男」

「神殿の巫女たちは大抵、年季が明けても俗界には戻りたがらないらしいな」

「戻らないでは済まないけれど。下界では、女は奴隷も同じよ。一生男の道具で居るしかない。言われるままに嫁がされ、男に仕えて家事をして、子供を生んで、育てて、結局何一つ自分のものにはならないのよ。身分が高くても、低くても。聖地はまさしく天国だったわ。一日中、忙しく働いては祈祷ばかりしていたけど、余暇には学習をしたわ。研究も。本でも剣でも、望むもの、必要なものを自分で選び取れた。誰も女を蔑まないし、誰も女を縛らない」

「女しかいないからな」

「”神様”たちならばいたけれど。可愛らしい子供達! 小さな子供も、育った子供も、みんな子供だったわ、愛しい子供。”男”なんて一人もいない。あなたに判る? 」

 神殿に居た頃を思い出すように語る彼女の頬に、初めて生気の火がともったように見えた。ジンは全く感銘を受けた様子も無い。

「その石化も、あんたの仕業か? 」

「まさか。だったらとっくに解いて逃げ出しているわ。あまり上等な脳を持っているとは思わなかったけど、こうまで私の命を曲解するとはね。『大公の手から私を逃せ』。あの男の手が私に触れないのはありがたいけれど、最近は顔を見るだけでぞっとする。あなたの主人が本当にこのくびきを外してくれるのなら、こんなありがたい事は無いわ」

 嫣然と微笑む大公妃に、ジンが念を押す。

「シャナなら、心配ない。必ずあんたを自由にするだろう。その後、大公があんたを取り戻せなかったとしても、それはあんたら夫婦の問題だ。しかしその時――」

「判ったわ」

 みなまで言わせず、大公妃は遮った。

「その場に居合わせた全員を薙ぎ倒さなければならなくなったとしても、あなたの主人に手出しはしない。彼の名に傷つけるようなこともしない。それを牽制しに来たのでしょう」

「判っていれば、いい」

 大公妃は再び、嘲笑に似た表情を浮かべた。

「それにしても、こんなに気を回して、主人の心配をして、一体この魔物はどんな契約に縛られているというの? 」

「契約のことなど思い出させて、オレを怒らせようとしているのならば、愚かな振る舞いという他無いな」

 ジンが顔をゆがめると、瘴気の塊が大公妃の顔を打った。

 優れた霊力を持つ彼女は、氷の飛礫をぶつけられた様な物理的な痛みさえ感じ、その質量にぞっとした。絶えず石の魔物の瘴気にさらされている彼女さえを、身体の芯から凍らせ、命を吹き消すのではというような、圧倒的な力だった。

 彼女は、侮っていた目の前の魔物が、ただの使役される低級魔性ではないと悟った。微量に漏れ出す魔物らしい瘴気に、変化魔法もろくに使えない未熟な半人前であろうと、彼女さえその気になれば簡単に圧倒できる程度の霊力しかもたないけだものの類だと侮っていた。しかしそれは誤りだった。術が未熟であることは変わらないが、ジンは大変な努力を払って自らの瘴気を押さえ込んでいたのだ。その気になれば、彼女など相手にはならない、この城どころか街一つ、跡形も無く消してしまえる魔力を持っているだろうことを彼女は思い知ったのだ。

 わざわざ変化魔法の一部を解いて、瘴気を正面からぶつけるなど、馬鹿げたこけおどしだったが効果は抜群だった。彼女はこの魔物を出し抜く事など不可能だと納得し、彼の主人――主人? たかが錬金術師がこのような強大な力を持つ魔物を召喚し、縛ることなど出来るものなのだろうか? ――には決して危害を与えないことを、改めて真摯に誓わずをえなかった。





+++

6

+++


 大公は、力の及ぶ限りの迅速さで、賢者の求める術具や薬品、金属、貴金属を集めたので、液化溶剤は数日のうちに完成した。

 石化した魔物の身体が一杯に横たわっている狭い部屋で、シャナは大公だけを立会いに作業を始めた。大公が、哀れな妻の姿を他の大勢の他人の目に晒すことを望まなかったからだ。ただし、ジンだけはシャナの手伝いとして同席を許されていた。

 シャナは扱いの難しい揮発性の溶剤を、まず丁寧に石像の一部、大公妃から離れた部分に振り掛けてみる。石は固く泡立ったメレンゲのようにゆっくりと形を崩し、ざらついた砂とべたべたした液体に分離した。

「成功だ! 」

 幼い歓声を上げ、シャナは子供のように得意そうだ。

「すぐに、お助けしますからね。この煙をなるだけすわないように、顔を背けていて下さい」

 大公妃は手渡された布で顔を抑え、残りの者たちも予め用意しておいた布で顔を覆った。ジンが溶剤を満たした大甕を持ち上げて傾け、シャナが柄杓で溶剤を微量ずつ塗布していく。薬品そのものは、大公妃の膚を焼くような心配は無かったが、あまりいいものでないのは確かだし、ぐずぐずと溶け出した液体については毒性が強いので、丁寧に拭い取りながら作業を進めばならなかった。手間のかかる仕事だったが、主従は手際よくそれを済ませて行った。

 大公妃は目を見開いてそれを見守った。実のところ、彼女は殆ど期待してはいなかったのだが、今やその頬は喜びと期待に染まり始めていた。

 魔物の体は足から崩されて、空洞をいくつも抱え始めていた。大公妃の体の周りもすでにある部分は崩れ落ち、他の部分は流れ出し始めていた。彼女は鋭い目でそれらを細かく観察していたが、やがて自分でも十分だと感じるほど拘束が緩んだのを知り、時機が訪れたのを悟った。

「さあお別れです、大公閣下! 」

 大公妃が叫んだ。

 最初に瘴気が、次に風が固まりとなってシャナを打った。錬金術師がよろめいて、従者に抱きとめられる。ジンは、その元凶となった彼女を射殺しそうな目つきで睨みつけたが、大公妃は気にも留めていないようだった。

 大公の花嫁は、魔物の残骸の上、魔物そのもののようにして立っていた。背中から、蝙蝠のような羽が生えていた。先ほどの風は、その羽ばたきが巻き起こしたものだったのだ。

「囚われの7年のうちに、親族も死に絶えました。これで堂々と出て行ける――私は自由よ! 」

 勝ち誇って宣言した彼女の胸に、太い矢が突き立った。

 彼女は一瞬、痙攣に似た動作で矢を引き抜こうとし、引きつった声を上げたが、それだけで、あとはゆっくりと石像の残骸と毒液の上に倒れこんだ。

「貴様! 」

 ジンは、シャナを腕に引き寄せ、己が殺気のかけらも感じ得なかったことに戦慄しながら、大公を振り返った。彼の腕の中でシャナも血の気の失せた顔でジンの視線を追う。

 妻を撃った夫は、依然弓を構えたまま、部屋の隅に佇んでいた。どこに隠し持っていたのか、弓は極く小型で、にも関わらず、強力だった。大公妃の胸から入った鏃は背中へ抜けている。余分な矢は見当たらないが、ジンは警戒してシャナを背中へ隠し、体で庇った。シャナはジンを押しのけようと無駄な努力を繰り返しながら、悲壮な声で問いかけた。

「閣下! なんてことを――なんてことを! どうして」

「――契約だからだ」

 空ろな声で大公は答えた。

 ジンが顔を歪める。大公からは、紛れも無い、魔物の瘴気が漏れ始めていた。

「貴様、誰だ? 」

 ジンの声は低く、獣のうなり声に似て、ごろごろとして聞き取りにくかった。

「そう殺気立つな、年若き同胞よ」

 大公は優しく呼びかけたが、その声もやはり、ごろごろとして聞き取りにくかった。人の喉ではなく、もっと別のところで出しているような声だったが、新たな声がそれを遮った。

「なんてことを! 誰が殺せと」

 その声も、驚くべき事に大公の喉から発せられた。そしてその声は、ここ数日シャナが聞きなれた、大公その人の常の声だった。

「私の妻が! なんてことを、なんてことを! どうして」

 自らの手で花嫁を撃って置きながら、大公は身悶えして叫び、先ほどのシャナと同じことを訴えた。

「何故、妻を殺した、あの美しい人を」

「契約だからだ」

 弓を放り出し、顔を覆った手の下から、またあの声が答えた。瘴気はますます濃い。大公は憑依魔法を使ったのだ、とシャナは悟った。自らの肉体に魔物の一部を召喚し、使役する高位魔術。先ほどの大公妃の翼と同種のものだ。しかし、これを使いこなすには相当の熟練が要る。下手をすると術者の肉体が乗っ取られてしまう。大公のような身分と立場の人間が、その片鱗を知る由も無い秘術だった。

「契約? 」

 ジンが訊きかえす。

「”大公の手から妃を逃がすな。”」

 大公はごろごろした声で嘲笑うように答えた。

「大公との契約だ。花嫁が逃げ出したがっていると気付いてすぐに、哀れな花婿が慣れぬ魔方陣を引いてね。婚礼前夜だ。術は未熟だったが、哀れに思い。それで、私は私の仕事をした」

 ジンは悟った。

「では、この哀れなけだものに、石化魔法を掛けたのはあなただったのだな。大公妃を、逃がさぬために」

「この哀れなお転婆は、一度失敗したところでまた、別の方法を見つけるだけだったろうからなあ。逃がさぬためには檻に捕らえておくほか無かったよ」

 含み笑いを漏らす。

「黙れ! 」

 大公その人の声が遮る。激昂した大公の声は激しく罵り声を上げていたが、やがて一段と大声を張り上げ、こう叫んだ。

「契約は、破棄だ! 契約は果たされなかった、そこから――私の中から出て行け! 」

「そうはいかない。契約は果たされた。これで大公妃は、永遠にお前のもの」

 ごろごろした声が、大公の苦悩をあざ笑った。

「今度は、私の番だ」

 滑稽で恐ろしい一人芝居を、目を見張って見守っていたシャナの前で、大公は突然苦しみ始めた。頭をかきむしり、唸り声を上げ、ついには鈍い音を立てて床に倒れた。

「閣下! 」

 驚いて側へ駆け寄ろうとするシャナを、再びジンが押しとどめる。

「駄目だ、シャナ、側にいろ! 」

 大公の体から、瘴気の塊がどっと噴出した。彼の体の中で何かが鳴動している。彼は床をはいずり、自らを掻き毟り、衣服を引き裂き、七転八倒して苦しんでいた。シャナは気が遠くなるように感じた。瘴気が強すぎる。いまだ経験したことのない、巨大な邪悪だった。

 やがて、呻く大公の解けた黒髪から、赤黒い血が噴き出した。粘質の水音と、若木を裂くような音がして、全身の痙攣が激しくなった。不規則に蠕動を繰り返す大公の皮膚に、次々と小さな亀裂が走り、鮮血が溢れ出た。

 シャナが見守っていられたのはそこまでだった。耐え切れず、気の優しい錬金術師は失神した。


 ジンは、彼の主を守るように抱きしめたまま、大公の脱皮を見守っていた。それはまさしく脱皮だった。ヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、「彼」は大公の胎内から這い出てきた。大公は辺りを鮮血に染めながら一人の男を産み出したが、血と粘液に塗れた「彼」の顔も、また大公そのものだった。

 しかし、もちろん人ではなかったし、それに似たところも無かった。本質的な意味では。

「――驚いたな」

 ジンは嘆息する。一体、この魔物は何をしたいんだろう?

 魔物は、わざわざ受肉していた。人間の器官を盗んで体を形作っていたのだ。手間と時間がかかり、集中力と魔力の要る術だし、殆ど廃れている秘術でもあった。それほどの精力を傾け、条件を整える利点が無いからだ。

 目が合うと、男はにっと笑った。そして、たちまち辺りは静まり返った。あれほど周囲を汚染していた瘴気の気配があっというまに引っ込んでしまったのだ。鮮やかな手際だった。ジンは、目の前の魔物が、自分ほどの魔力を持っていないにせよ、自分とは比べ物にならないほど老獪であると知った。自らの本質を偽る術にかけては恐しく習熟している。その彼が、大公の姿など盗んで一体何をしようというのだろう? わざわざ人間と「契約」を結んでまで?

 しかし、今はこの小柄な錬金術師を守ることを考えねばならなかった。この程度の瘴気に当てられて、すぐに気を失ってしまうような弱弱しい主を抱えて、目の前の魔物と渡り合わねばならない。ジンは余計な口はきかずに相手の出方を待っていた。

「さて」

 男は――今や大公となった「彼」は言った。

「これで私は望んでいたものを手にいれたわけだが――目の前の、部外者二人の口も同時にふさいで置くべきだろうな? 」

 その言葉に、たちまちジンが殺気立つのを、むしろ楽しむように、彼は鷹揚に下手に出た。

「しかし、止めておこう。私も命は惜しい」

 そして、裸のままでありながら、大公に相応しい威厳でもって無造作に手を振った。まるで、ジンの一撫ででその柔らかい人間の体が、簡単に潰されてしまうだろうことなど気にも留めていないように。

「さあ、その錬金術師を抱えて部屋に戻ってくれ。私はこの後始末をせねばならん」



+++

7

+++



 翌朝、シャナは、自分が昨夜のできごとを思い出せないのに不安がったが、大公妃は助かったとジンに告げられ、素直に納得した。時折、記憶が混濁するのは彼の持病で、そのための薬も定期的にのんでいる。そう言い聞かせるのもジンで、その薬を用意しているのもジンだが。

 長居すべきではないというジンの助言を素直に聞き入れ、主従は朝食後、早速出立することとなった。

 もともと多くは無い荷物を手早くまとめ、廊下へ出たところで、ジンは、軽装でうろついているシャナを見つけ、眉を顰める。

「出発間際になって何をしている、この忙しいのに。サンダル覆いをどこへ脱いだ? 」

「ジン。リ・ルーを探して。リ・ルーが見当たらない」

 錬金術師は涙目で訴えた。

「リ・ルーだ? あんなケダモノ放っておけ…」

 ジンは言いかけたが、廊下の端に二つの人影を認めて口をつぐんだ。大公夫妻だった。

「何を探しておいでなのですか? 」

「大公妃さま」

 柔らかい声で問いかけた貴婦人に、シャナは嬉しそうに礼を取った。自分が救ったと思うと誇らしいのだろう。

「もう、およろしいのですか」

「ええ、すっかり。おかげさまで」

 大公妃は穏やかに答える。髪をすっきりと結い上げ、清潔な衣装に身を包んだ姿は見違えるようだったが、その顔は確かに大公の花嫁のものだった。

「あの、ケダモノ――! 」

 主と何事かにこやかに話し始める大公妃を低い声で罵ったジンを、大公が穏やかに咎めた。

「口を慎んでいただけるかな。私の妃を、ケダモノだなどと、聞こえの悪い」

「ケダモノで十分だ! あれはリ・ルーじゃないか。シャナのペットを勝手にあんな女に変えてしまいやがって」

 ジンは向き直って噛み付く。

「彼女は新しい自分の地位に満足しているようだよ」

「ヤツは猿だぞ」

「十分さ。女が美しければ、猿なみの知能しか持っていなくとも、誰も驚きはしないよ」

 大公はぬけぬけとそう言い放った。ジンは反論を諦め、話し合う錬金術師と、人間の女に変えられた猿を見る。狡猾な猿は如才無く、シャナの探している小さな生き物が見つかったら、自分が責任を持って預かろうと説得している。砂漠に連れて行くより、そのほうがその小さな生き物にとっても幸いだろうと。シャナは簡単に説得されてしまい、今は見当たらないがどこかにはいるはずである、その高価な愛玩動物を、彼女に譲る事に同意している。確かに、大公妃の急死と、それに伴う真相を伏せておくためには、これが一番良い解決法には違いなかった。しかし、たかが猿を人間の姿に変え、さらにこのように操るなどと、大変な技術に違いなかった。それも一晩のうちに。魔力の問題ではない、ジンなどには逆立ちしたって真似できそうにない高等魔術だった。

「あんたほどの者が、人間の真似などしてどうなるっていうんだ? そんな姿を保つのに、随分な魔力と、積み上げてきた時間ををふいにした筈だ。猿を妻にしてまで手に入れたいほど、魅力ある生活とはとても思えない」

「猿はさしあたっての応急処置だ、おいおい考えるさ。今は、城下の領民を喜ばせておくに越した事は無いからな」

 納得がいかないと、態度で表しているジンを見て、大公は微笑んだ。

「あなたもあと何千年かを孤独のうちにすごせば、私の気まぐれの意味もわかるようになるだろう――我らは、不死者と呼ばれ、単独ではただそこにあるだけの存在だ。たまには必要とされ、義務を負い、責任を果たすということを経験するのも悪くはない」

「義務と責任だと? 自分が大公や大公妃に何をしたのかもう忘れたのか。矛盾だな」

 ジンが鼻で笑うと、大公も苦笑を洩らした。

「たしかにね。しかし、人間として暮らすならばそれも一つの遣り方だ。妻をを自ら閉じ込め、解放するために錬金術師を招き、解放されたとたんに撃ち殺した、大公その人のように。矛盾を抱えるという事、それが人間であるということなのだろう? 」
















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