女王は策を練る
「何をどう話し合ったら、そんな結論になるのですか?」
「私なりに努力したわよ」
「ああ、私は幼き陛下を支え導いてきたつもりでしたが、情操教育をすっかり間違えました! 天国のヘカテー陛下とオレグ殿下に何と申し開きすれば良いのでしょう」
亡くなったヴァレンティナの両親の名を呼び、ネリウスは嘆いた。そしてくずおれて、執務机の陰に見えなくなってしまう。心配してヴァレンティナが覗くと、床に落とした書類を拾い集めていた。俯いたネリウスの顔には苦渋の皺が深く刻まれている。
「手伝うわ」
「私のことは結構ですから、エルに命じて下さい。自分をどう思っているか包み隠さず述べよ、と」
「エルが私をそれなりに大事に思ってくれてるのは、理解しているつもりよ」
ヴァレンティナは照れ隠しに、つと口に手を当てる。見舞いに行ったときに、枕を抱きしめながら眠っているエルンストがかわいらしく、寝癖のついた髪を撫でた。すると愛称で名を呼んでくれたのだ。これだけで、今日一日中幸せだった。明日もあさっても、ずっと満たされるように思える。
「それなりどころじゃありませんよ。陛下、明日にでももう一度よく話し合って下さい」
「難しいわね」
はっきりとした答えを聞くのが怖くもあった。折角幸せな気持ちでいられるものを、なぜわざわざ壊さなくてはならないのか。
「ねえ、エルは本当に私を好きなの? 私はそこまで鈍感ではないと思うけれど、エルからそんな雰囲気を感じたことがないのよ」
エルンストにはとても聞けないが、ネリウス相手にはそこまで難しくもなかった。ヴァレンティナは自分を不思議に思いながら、机の下で指をもじもじさせる。
「もちろんですよ。陛下が即位する際、エルはあなたに懇願して秘書官の座を得ましたね。私はその晩、陛下を愛しているのか、と問い、エルはそうだと答えました」
なぜネリウスの口から聞いているのかは釈然としないが、ヴァレンティナの心に喜びが沸き立った。頬に血が集まる感じがした。ネリウスは続ける。
「ならばと私はエルに、厳しく忠告をしました。私のコネや陛下の友誼を利用して秘書官という誉れを頂いたからには、仕事中に決して私情を見せるな、仕事に徹しろ、と」
「……何ですって?」
ヴァレンティナの知る限り、エルンストは真面目な気質であり、やれと言われたらやり抜く男だ。だから秘書官になってから、どこか他人行儀でクールな言動ばかりになってしまったのかと納得した。
「じゃあ私が今までわからなかったのも無理はないわね。ネリウスの忠告通り、エルはいつでも完璧な秘書官だったもの」
ネリウスは言いづらそうにゴホゴホと咳をした。
「しかし、陛下以外の者はたいていエルンストの恋心に気づいておりますよ」
「な、何ですって?」
衝撃を受け、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「どうしてみんなはわかって、私だけわからないの?」
「他人の指すチェスの試合を横から見ているようなものですよ、当人以外の方がよくわかるものです」
ネリウスは年長者らしい余裕で微笑んだ。チェスについては、そのような経験がいくつもある。第三者目線だと、なぜ罠に気がつかないの、どうしてその駒をそこへ動かしてしまうの、と内心叫びたくて仕方ない。チェスの天才になったかのように数手先まで全てがわかるが、自分が指すとなると途端に視野が狭くなるのだ。
「今までよく口を出さずに耐えてくれたわね」
「結局このように介入してしまって、申し訳ないと思っておりますよ」
ヴァレンティナの照れ隠しの強がりは、さらっと流された。
「しかしわかって頂けたなら、お早めの行動をお願い致します。エルを問い詰めさえして頂ければ進展しますから。何事も、早めの行動が肝要だとご存知でしょう」
「そうね」
もう手遅れな気するが、ヴァレンティナは投げやりに頷いた。慣れないテーマの議論に疲れたのだ。それでも結論を述べるため、両手を机につけ、立ち上がった。
「ではまず、エルの体調が戻り次第、行動に移します。エルが心を開いてくれるような、私的な付き合いの場に誘ってみるわ」
私的な付き合いの場とは、デートのことである。デートと口にするのは憚られた。
「大変良いお考えです。陰ながら応援しておりますよ」
「ありがとう」
そうして、ヴァレンティナは頭を切り替えて仕事に戻った。
◆◆◆
その夜、ベッドの中でヴァレンティナは枕を抱きしめていた。自分と同じように枕を抱いて眠るエルンストを思えば、氷の彫像に見守ってもらう必要もなかった。
「ティナ……ですって!」
声を低くし、エルンストの物真似をして盛り上がる。とても人には見せられないが、ひとりきりの寝室では自由だった。広すぎるベッドでごろごろと身悶えし、息を荒らげた。
「はあ、エルにあんな風に抱きしめられたら……」
腕の中の枕は柔らかく、ヴァレンティナの力でも容易に形を変えた。つい力が入ってしまうのである。
「どうしましょう、恥ずかしくてエルを凍らせてしまうかもしれないわ」
今さら普通の男女のような関係になれそうもなかった。エルンストが秘書官としてへりくだるので、ヴァレンティナも女王然と振る舞ってきた。それがお互いのためだと思っていたのだ。
上の者が毅然としなければ、仕える者はやりづらいというのが、貴族の常識だった。
「ああでも、考えれば考えるほど、エル以外の人を夫になんて無理そう。だからやらなくちゃいけないのよね」
ヴァレンティナはどうやってエルンストを誘導しようかと策を練った。訳は知らないが、エルンストが自分の意思で気持ちを言わないのなら、言えと命令したくない。結婚しろなどとも言いたくない。
ネリウスも知らない理由があるかもしれなかった。
あれこれ悩みながら、ヴァレンティナは静かな眠りに落ちた。
◆◆◆
翌日、エルンストは溌剌として執務室に現れた。顔色は良く、少年のように元気が溢れている。
「昨日はご迷惑をおかけしました、陛下」
「気にしないで。それよりもう治ったの?」
「はい、陛下御自らの看病を賜り、快癒しないなどとあり得ません。私は百年分の英気を養いました」
相変わらずエルンストの口調は固い。そして称え方がオーバーだ。執務室にいる限り、いや王宮にいる限り、進展は無理だと確信した。
「そんなに元気になったのなら、次の公休日は私に付き合ってくれるかしら? 行きたいところがあるの」
「はい。どちらへ参りましょう」
メモ帳を取り出したエルンストは、お忍びの視察か何かと勘違いしているようだった。それがおかしくて吹き出しそうになる。
「私の個人的なお出かけよ。山に行くから、エルはまた風邪をひかないように防寒着を用意してきてちょうだい」
「と仰いますと、タザカン山ですか?」
エルンストの視線がヴァレンティナの背後に向く。ヴァレンティナの背後には窓があり、そこから万年雪を冠するタザカン山が臨めるのであった。ミアラ王国で最も高く、雄大な山だ。
「ええ。もちろん頂上までは行かないけれど、王室ゆかりの場所があるのよ。エルに王室の秘密を教えてあげるわ」