ヴァレンティナの看病
「お見舞いに来ただけだから、かしこまらなくていいのよ。飲みたいものとか、食べたいものはあるかしら?」
優美に微笑み、ヴァレンティナはベッド脇に置かれた椅子に腰かけた。彼女がそこにいる、それだけで春の太陽に照らされたように心が温まった。
「勿体ないお言葉です。陛下自らいらしてくれただけで私は……」
「そういうのはいいから。それで、何が欲しいの?」
枕元にある水差しを見つけたヴァレンティナは、手ずから水を注いで、エルンストに差し出した。
(ティナが注いでくれたから、ただの水が俺にとっては砂漠のオアシスの水みたいにおいしい。染み渡る)
「そうしましたら果物、でしょうか」
久しぶりに風邪をひいたエルンストは、幼い頃の記憶がやけに思い出された。愛情溢れる母は、乳母やメイドに任せず、傍につきっきりで果物などを剥いてくれたのである。
「わかったわ」
当然ながら、ヴァレンティナはベルを鳴らす。やって来たメイドに果物を持ってくるように伝えた。すぐに、厨房から美しく皿に盛られた果物が届けられるだろう。女王ヴァレンティナは果物を剥いたことなどはない。
しかし、ヴァレンティナは何の気まぐれか、幼い少女のように小首を傾げて驚くような提案をする。
「たまには私が食べさせてあげましょうか?」
「し、死んでしまいますよ……」
「そんな、初めてだけどうっかりあなたを突き刺すほど下手じゃないと思うわ」
エルンストは嬉しさのあまり死ぬかもと言ったが、ヴァレンティナは手を滑らせるなどして、フォークを喉に突き刺す心配をされているのかとむっとした。
「まさか。そういう心配ではありません」
「え?」
「ただ、陛下がこの身に余るほど優しいので戸惑っております」
「病人に優しくするのは当然でしょう。ねえ、もっとリラックスしていいのよ」
リラックスしろと言われても、寝室に二人きりの状況だ。なぜか徐々に詰め寄ってくるヴァレンティナに対し、エルンストの心臓はドクドクと激しく鳴っていた。
「何だか顔が赤いわ。熱が上がってるのかしら?」
ヴァレンティナは手を伸ばし、エルンストの額に触れようとした。
「いけません、陛下のお手が汚れてしまいます」
「何言ってるの! 私たち、生涯独身の約束を交わした仲間じゃない。苦しいときは助け合うものよ」
「しかし」
「魔法で冷やしてあげるわ」
細い指先が、エルンストの固い額にぴたっと添わされた。冷気を優しいなどと思うのも不思議だが、快い冷たさが広がっていく。
「気持ちいい? エル」
「……気持ちいいです」
言ってしまってから、エルンストは恥を知り表には出さず懊悩した。
(臣下が、女王陛下に気持ちよくしてもらうなんて!)
「なかなか下がらないわねえ。確か医学書には、体温を下げるには、腋窩と鼠径部を冷やすと良いとあったわね。触ってもいいかしら?」
「恐れ多すぎて死んでしまいますから……」
今度は誤解されないよう、やんわりとエルンストは断った。困ったような笑みに、ヴァレンティナがはっとして自らの発言を反省する。脇の下、足の付け根に触れるなど医者でなければ、はしたない行動だ。
「そうよね、いくらなんでも」
そのとき、頼んでいた果物を盛った皿が届けられ、しばし会話が中断する。
ミアラ王国特産の氷の魔石で冷蔵保存されている、様々な果物が美しく飾り切りされていた。リンゴ、葡萄、メロンなどが甘い香りを放っている。やはり氷の魔石を用い、南国から輸入したものまであった。
ヴァレンティナは張り切ってリンゴにフォークを突き刺した。そうしてエルンストの口に近づける。
「はい、あーん」
ワゴンを押して退室途中だったメイドがギョッとして目を剥いたが、慌ててドアの向こうへ消えた。
「あ、ありがとうございます」
一体、どうしてしまったのだろう。嬉しさ半分、怖さ半分だった。ほとんど女王の奇行と言って差し支えない。無事にエルンストの口へと差し込まれたリンゴは、シャクシャクと噛み砕かれ、喉へと落ちる。
「おいしい?」
「もちろんです。甘さ、酸味、瑞々しさのバランスが完璧であり、至高の味わいでした。このリンゴ農家に勲章を差し上げるべきでは?」
味などよくわからなかったが、ひんやり甘酸っぱく、天国の黄金果のようにおいしい気がした。その熱弁ぶりに、くすくすとヴァレンティナが笑う。
「エルってこんなに面白かったかしら? 最近は真面目な顔ばかりしてたから、見過ごしていたわね」
「お褒めにあずかり恐縮です。しかし仕事中とはいえ、陛下の心を和ますジョークのひとつくらい言うべきでした。考えておきます」
「いいのよ、エルが自然体でいてくれるだけで」
夢のようなひととき――というより、ヴァレンティナがひたすら果物を食べさせる時間は続いた。皿に盛られた果物はかなりの量だったが、なくなるまで行為は終わらなかった。二人揃って、真面目な気質なのだ。
「看病というものを初めてしたわ。貴重な経験をさせてくれてありがとう」
満足したヴァレンティナは、外国との重要な協定を締結したときかのように、熱い吐息をこぼす。お大事に、ゆっくり休んでなどと言い残して仕事に戻っていった。満腹になったエルンストは眠気に襲われる。
「何だったのだろう」
呟き、ヴァレンティナがかけてくれた布団を引き上げた。現実とは未だに信じられない体験だった。よもや高尚にして遠大な理由があるのか、と頭を悩ませる。
「もっと単純に、秘書官がいないと不便だから早く治せというメッセージだな。よし、寝よう」
よくわからないが、都合よく考えることにした。副秘書官もいるが、自分が必要とされているようで嬉しくなる。
心と体に栄養補給が十分になされ、エルンストは深い眠りへと落ちた。
◆◆◆
ヴァレンティナは見舞いのあと、終始機嫌よく過ごした。見舞いや看病は単に心配した挙げ句の行動だったが、エルンストの寝姿に心が癒されたのだ。大量の執務を絶好調で片付け、謁見希望者には普段より愛想よく対応した。
「今朝方は具合が悪そうでしたのに、エルをお見舞いになられてからご機嫌うるわしくていらっしゃいますね」
夕方、執務室にやってきた宰相のネリウスは目敏かった。防災行政についての会議をまとめた資料を持っていた。ヴァレンティナは慌てて口の両端を引き締め、女王らしい威厳を作った。
「そんなことはいいから、早くその資料を下さる?」
「エルとは順調なのですか? 私なりに、貴族院の議員をおさえ、誤魔化しておくにも限界があります。しかも、抜けがけして自分の息子を推していますから、後が怖い」
色々と申し訳なく思うが、正確な報告が必要かとヴァレンティナは羽根ペンを置いた。
「いいえ。私たち、どちらも結婚の意思はないの」
バサッと資料が落ち、床に広がった。ネリウスが信じられない、とばかりに目を見開いている。