ライラックのティーパーティー①
数日後、晴れ渡った空の下、ヴァレンティナは女王としてパーティーの挨拶をしていた。
甘い花の香りと、数々の甘いお菓子。着飾った貴婦人と紳士たちが広い王宮の庭園に集まった。本日はヴァレンティナ女王主宰の、ライラックを眺めるティーパーティーであった。花とその香りを楽しむため、ドレスコードで紫のドレス及び香水は禁止とされている。
初夏のこの時期、庭園のライラックが一斉に咲き誇る。ライラックは冷涼な気候のミアラ王国で、花付き良く咲く花樹として愛されていた。
ヴァレンティナは伝統あるこのティーパーティーに毎年国内外の主要な貴族を招き、親交の場を供している。紫のライラックの花言葉は「愛の芽生え」「初恋」とされ、そのロマンチックな雰囲気から若い令嬢や令息の出会いの場であり、また夫婦の絆を深める場でもあった。
だが今年、最も人気のある話題はヴァレンティナの婚約破棄についてだった。婚約時のように正式に発表した訳ではないが、ファビアンが婚約破棄の際に王宮で晒した醜態、ファビアンの淫らな私生活などに尾ひれがつき、噂は社交界で面白おかしく膨らんだ。
もっとも、ヴァレンティナ女王を揶揄する愚かな貴族はこの場にはいなかった。女王の配偶者になることは貴族にとって名誉であり、また大きな利権の種である。
自身を売り込もうとする着飾った令息に流し目やウインクを大量に受け、令息を持つ夫人にヴァレンティナは囲まれた。
「ファビアン令息ったら、女王陛下と婚約したことで調子に乗ってたのでしょう。まるで国が自分のものになったみたいにふんぞり返ってましたわ」
とある伯爵夫人は、ヴァレンティナを慰めようとしているのか大声で彼の非難を始める。実際問題、ヴァレンティナの夫となっても『王配』という王に対しての王妃のような地位になるだけで、国の君主はヴァレンティナである。
それでも陰口を好まないヴァレンティナが止めようと口を開く前に、黒髪の侯爵夫人が追従した。
「全くですわ。ファビアン令息は二男で、今まで長男の陰に追いやられていましたから、表舞台に立てたことで受かれて、歯止めが効かなくなってしまったのでしょうね。でも、どうかお聞きになって陛下。その点、私の息子ヘルベルトはきちんと教育を受けた長男です。きっと陛下を陰に日向にお支えできますわ、あちらにおりますの……」
彼女の勧める、侯爵令息ヘルベルトの人となりを知っているヴァレンティナは社交用の美しい微笑みを作った。ヘルベルトは、マザコンだと有名な男だ。一言二言話せば、「そう母上が仰っていた」と語尾に付ける。できれば関わりたくない。
「侯爵夫人は、大変素敵な令息を育て上げたと思うわ。けれど私、今は別れたばかりで心に余裕がないの。ずっと政務ばかりしてきて、初めての男女の交際の難しさを知ったのですから。おわかりになって」
ええもちろんですわ、と両夫人の淑女らしい応答を受け取って、ヴァレンティナはそこを離れた。すぐに物言いたげな別の夫人と目が合い、主催者の役目として仕方なく話しかける。女王たるもの、面倒という感情では逃げられなかった。
欠席の知らせがなかったので会場のどこかにファビアンもいるだろうが、巧妙に姿を見せない。
(そのくらいには気を遣ってくれるのね)
やっと挨拶回りを終えたヴァレンティナは、女王専用の奥まった場所にある休憩場所でひとり、息を吐く。柔らかなクッションを敷いた籐の椅子にぐったりもたれた。
「何か、カクテルを持ってきてちょうだい」
「かしこまりました」
すぐに目の前の小さなテーブルに、カクテルと軽食が運ばれてきた。憂さ晴らしに飲みたい気分だったので、ライラックをイメージしたという紫のカクテルを傾ける。
顔を上げたヴァレンティナの瞳に、青空とライラックが映った。憂鬱なことはあっても、昼日中に花を眺めながらグラスを傾けるのはよい気分だった。年に数度、イベントのときのみの楽しみである。
カクテルを3杯飲み、ふわふわとした酩酊感に酔いしれていると、柔らかな芝を踏みしめる音がした。
「お酒はそのくらいにしてください」
やって来たエルンストがすっとカクテルグラスを遠ざけ、アイスティーを差し出した。パーティーのこのときに、秘書官エルンストに仕事は命じていなかった。それどころか、最近社交界デビューしたばかりの親戚の令嬢のエスコートに忙しいはずだった。
「まだ残ってるのに」
「ございませんよ」
言うが早いか、エルンストが飲みかけのグラスに口をつけて飲み干してしまう。ね、と微笑むエルンストに見惚れそうになり、慌てて眉を吊り上げた。
「女王のお酒を取り上げて飲んじゃうなんて、あなたくらいよ」
「今日は気楽に寛いで過ごしてと、開始の挨拶でおっしゃってたじゃないですか」
「じゃあ私の飲み過ぎを止めに来なくてもいいのに」
それでも、酔っている自覚があったヴァレンティナはアイスティーに口をつけた。花のシロップを混ぜてあるのか、複雑な甘い香りがした。
「おいしいわね、これ」
「今年の新作ドリンクだそうです」
同じものをエルンストも飲んでいた。それ以上彼は喋らず、心地よい沈黙が訪れる。
彼を好きなのかもしれない、と気付いてからも、ヴァレンティナは特に行動していなかった。先ほどパーティー会場で散々繰り返したが、男女の付き合い方を良く知らない。ただ漠然といつかは婚約をして、結婚するだけだと思っていた。
風が運ぶ甘い花の香りに誘われ、何となく立ち上がる。
「少し歩きましょうか」
「はい。お供いたします」
腕を差し出され、ヴァレンティナは素直にそこに掴まった。酔いもあり、少しふらつくヴァレンティナだが、エルンストはいつもと変わらずに忠臣の顔をして歩く。
パーティーの喧騒を避け、ヴァレンティナ専用の庭園に到着すると、付いてきた近衛騎士たちを20歩後ろに下げた。
(私、どうして今まで、平然としていられたのかしら)
頭ひとつ分は背が高いエルンストの横顔を見上げた。
(エルは凛々しくてすてきなのよね。エルに想いを寄せる人だってたくさんいておかしくない)
「ねえ、エル」
「はい」
「今日エスコートしていた親戚のアリス令嬢は?」
「リカルド・ホフマン伯爵令息に紹介して、退散してきました。二人はすっかり意気投合したようです」
「そう」
胸に刺さった小さなささくれが抜け落ちた気がした。エルンストから、予め「親戚の子のエスコートをしますが、ほんの橋渡し役です。陛下のおかげで私は顔が広いですから」などと弁明は聞いていた。
ヴァレンティナは、リカルド令息の顔を思い浮かべる。確か18歳の初々しい青年だったが、10代は子どもにしか感じられず、好みではない。幼い頃から周囲が歳上ばかりだったせいか、落ち着き始めた年齢が良いように感じていた。
(やっぱりエルみたいに、人生経験を積んで深みが出てきた頃が魅力的よね。いえ、エルは昔からかっこよかったけれど)
しかし魅力ある人物はまだ青いうちに婚約をしてしまうのが常である。アリス令嬢とリカルド令息のように。よってヴァレンティナの夫候補は、たくさんいるようでそれ程多くはない。
「ねえ、エルはそういう相手というか……どうして今まで誰とも婚約をしなかったの?」
エルンストは宰相ネリウスの遅くに出来た長男であり、コートニー侯爵家の跡継ぎだ。
「簡単なことです」
エルンストは酔っていないはずだが、妙に爽やかで自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「私は陛下と初めて出会った、11歳のときに決心したのです。陛下に身も心も捧げようと」
「初めて聞いたわ」
エルンストは確かに、その身と心の限りを尽くしてくれている。ではネリウスが教えてくれた通りに、ずっと愛されていたのかと、頬が燃えるように熱くなった。エルンストも真摯な眼差しを向ける。
「これからもずっと、命ある限り陛下にお仕え致します」
「え?」
そうはっきり宣言されると、ヴァレンティナは結婚話へどう展開するべきか困ってしまった。自分と結婚しろなどとは命令したくない。
「ありがとう。でも、私はあなたに幸せになって欲しいわ」
「陛下のお傍にこうしていられるだけで、この上ない幸福でございます」
「本当に? 私にそれ以上望まない? あなたになら、どんな褒美でも与えるわ」
エルンストから何かきっかけになる言葉が欲しくて、誘うような物言いになる。ヴァレンティナは彼の服の布地を強く握った。