灯台もと暗し
翌朝、ヴァレンティナはいつもより早い時間に自身の執務室に赴いた。だがすぐに、急ぎ足で宰相のネリウスがやって来る。彼は黒髪の半分ほどが白くなっているが、足腰はしっかりしていた。
「おはようございます、陛下。フォンサール公爵令息ファビアンとの婚約は、無事に終了したようですね」
本来なら毎朝の簡易会議となるが、本日は婚約破棄の話題から始まった。ヴァレンティナは何とも言えず、首をひねって笑ってみせる。ファビアンとの婚約を破棄すると、あらかじめネリウスには相談していた。だが思ったよりファビアンが騒ぎ、王宮中に噂は駆け巡った。
「陛下が気落ちされていないようで何よりです」
ネリウスはヴァレンティナの母が女王だった頃から宰相を務めていて、ヴァレンティナの最も信用する人物のひとりである。また、エルンストの父でもあった。
「ええ、気落ちはしていないわ」
「では次の婚約候補者の選定をしなければなりませんね」
うっと呻き、ヴァレンティナはネリウスの手元の書類を気にした。まさかもう新しい婚約者候補を提示されるのではと憂鬱になる。幸いにもネリウスの持っている書類は、追加港湾工事と表題が付けられていた。
「そんな、次から次へと婚約するなんて良くないわ。冷却期間を設けないと」
「氷の女王らしからぬ発言ですな、陛下ならすぐに冷やせるでしょう」
「訂正するわ、心が冷えきってるの。しばらくは誰ともお付き合いなんてしたくないわ」
自分を温めるように、守るように腕を組み、ヴァレンティナはこの話題を終わらせたがった。
「……陛下」
ごほん、とネリウスは咳をして続ける。宰相と女王の関係であるが、ネリウスは早くに両親を亡くしたヴァレンティナを娘のようにかわいがっていた。
「今回のことは、フォンサール公爵令息を推挙した私の落ち度でもあります。申し訳ございません」
「そうよそうよ、調査不足よ」
我が意を得たり、とヴァレンティナは語気を強くする。ヴァレンティナも、政務外の話題では彼に少し甘えてしまうところがある。
「だって、ファビアンったら半年の間に3人もの女性と関係を持っていたのよ? 気持ち悪いし、最低だわ。エルが調査して教えてくれなかったら、大変なことになってたわよ」
あんな人を生涯の伴侶にするなんて考えられない、とヴァレンティナは想像だけで身震いをした。その事実を知る前から、迫られて、生理的な嫌悪を抱いたのは天啓だったのかもしれない。自主的にファビアンを調べてくれたエルンストがありがたかった。
「そのことですが」
ネリウスは未だに黒く濃い眉毛を片方上げた。
「……私は親馬鹿ではないつもりですし、自らの家門にこれ以上の栄誉を求めるつもりではありませんが」
「前置きが長いわね、何かしら?」
エルンストに褒美でも与えろという話かとヴァレンティナは想像した。
「エルを、貰ってやって下さいますか? あいつは一途な男で絶対に浮気などしません。陛下の配偶者のお役目を、必ずや果たします」
「えっ……」
絶句するヴァレンティナは、驚きに開いてしまう口を手で押さえた。まさかエルンストの実父から、商品のように薦められるなどとは考えてもいなかった。
「長い間、陛下に最も近しい関係でありながら、陛下のご様子に恋愛のれの字も見られないので、好みではないのかと前回は候補から外しました。しかし王族は恋愛のみで婚姻を結ぶものではありません。長くお傍に置けるほどエルに対して嫌悪感がないのならば、問題ないのでは? エルは陛下のご命令ひとつで、喜び勇んで承諾しますよ」
靴にだってキスするだろう、と言いかけたがネリウスは失言を避けるくらいには賢明だった。ネリウスは、息子が女王を偏愛していることは十分に理解している。
「だ、だめよ。大切な人にそんな命令、良くないわ」
「ほう、大切とおっしゃってくれますか」
「人としてよ! エルをそんな風に見たことないもの!」
火照る頬を手で押さえ、ヴァレンティナはネリウスの視線から逃れるように半ば背を向けた。その背に追い打ちをかけるように、ネリウスは確定的な言葉を発する。
「エルンストは陛下を長きに渡り、愛していますよ」
「うそ?」
「いやいや、聡明な陛下がどうしてお気付きにならなかったのですか?」
「まさか。大体あなたがエルの気持ちを言うのはおかしいでしょう」
だが唐突に、昨日のエルンストの発言が脳裏に思い起こされた。
『美しい女王陛下に選ばれる光栄を、誰もが待ち望んでおります。この国の男全て、陛下のご意向のままですよ』
(なんて言っていたわ。遠回しにアピールされていたの?)
いいかもしれない、とエルンストとのめくるめく新婚生活が頭に浮かんでは消える。ヴァレンティナの頭脳は優れていて、春夏秋冬のロマンチックで甘美なシーンが一瞬で想像できた。
「満更でもないようではありませんか。私がもっと早く手を打つべきでしたかな」
痛ましいものを哀れむように、ネリウスの声が優しくなった。それがむしろヴァレンティナの羞恥を加速させる。
「ど、どうしましょう、私……」
そのとき、エルンストが扉を開けて部屋に入ってきた。
「陛下、ご要望の新型の船の資料をお持ちしました」
「きゃあっ!!」
ヴァレンティナの悲鳴に、扉の外の衛兵までもが反応して中を覗いた。ネリウス、エルンスト、衛兵の視線が集中する。
「陛下、どうされました? 何があったのですか?」
何かに照れたように顔を赤くしているヴァレンティナに、エルンストは必死に疑問を投げかける。父とヴァレンティナは親子のようで、何かあるなどあり得ない仲だし、想像もつかなかった。
「何でもないの」
「しかし……」
「ネリウスに、長年の勘違いを正してもらっていただけよ。問題ないわ。あなたたちは下がって」
顔を手で扇ぎながらも、ヴァレンティナは女王らしく毅然と衛兵に命令する。エルンストは納得いかないとばかりに首を傾げた。
「勘違いですか? 王国の叡智たる陛下でも、そのようなことがあるのですね。差し支えなければ内容をお聞きしても?」
「ダメ。いけません。ネリウス、先ほどの件は私自身でどうにかします。息子だからと甘やかし、エルに言わないように」
ネリウスはどうにか笑いを堪えているようだった。
「かしこまりました」
ううっとまともな言葉にならない呻きをヴァレンティナは漏らす。やっと気付きかけた恋心を、よりによって、想い人の父親に一番に知られてしまった。