13 綾音と由乃と母親
由乃さんの母親は、怒りと憎しみが入り混じったような目で、彩咲綾音の事を睨んでいる。
それに対して彩咲綾音は、全く無機質な表情で母親の顔を見つめ返す。
今の彼女は彩咲綾音なのか、それとももう由乃さんに戻っているのか、この状況では分からない。
そんな二人を、俺を含む全員が言葉も無く見守る中、
由乃さんの母親はただ彩咲綾音だけを一点に見据え、
ズカズカと歩み寄って行き、その細くしなやかな腕を乱暴に掴んで言った。
「由乃、私と一緒に帰るのよ。
そしてアイドル活動を休止すると言った事を取り消して、このままアイドルを続けなさい」
「なっ⁉」
由乃さんの母親の言葉にカチンときた俺。
それはつまり、自分の都合の為に由乃さんをアイドルとして利用するという事だ。
そう思った俺は文句を言ってやろうと由乃さんの母親の元へ歩み寄ろうとした。
が、そんな俺の肩を春香さんが掴み、首を横に振った。
なので俺は渋々立ち止まり、二人のやり取りを見守る事にした。
一方彩咲綾音は由乃さんの母親をジッと見つめ返し、静かな口調でこう返す。
「私、彩咲綾音は、由乃の意志でアイドルをしていました。
ですが今、由乃はしばらくの間アイドルを休みたいと願っている。
だから私は由乃がまたそうしたいと思うまで、アイドルはしません。
それが、由乃の意志だから」
それに対し、由乃さんの母親は苛立たしげに声を荒げる。
「何を訳の分からない事を言っているのよ⁉
由乃はあなた自身でしょう⁉変な言い回しをするのはやめなさい!」
どうやら由乃さんの母親は、春香さんの催眠術で、
由乃さんの人格が彩咲綾音に完全に入れ替わっている事を知らないようだ。
まあ、説明したところで通用しないだろうけど。
その由乃さんの母親は、掴んだ彩咲綾音の腕をグイッと引っ張りながらこう続けた。
「とにかく私と一緒に来なさい!あなたは私の娘なんだから、私が面倒見ます!」
が、彩咲綾音はその手と言葉を振り払い、背筋を伸ばしてこう返す。
「由乃は、あなたの元へは戻りません。
これからは新しい家で、沢凪荘で暮らしていきます。
それは私がこれから成長していくために必要な事だし、何より私が望んでいる事だから」
「由乃、あなた・・・・・・」
彩咲綾音(いや、今は由乃さんに戻ったのか?)の言葉を聞いた由乃さんの母親は、
そうつぶやいて後ろによろめく。
そして両手で頭を抱え、うめくような声を漏らした。
「どうして、どうしてあなた達は私の元から逃げて行くの?
あれだけ可愛がって愛情を注いで育てた由穂も、突然私の元から逃げて行った。
そして由乃にしても、最近やっと世間に注目されるようになったから、
これからは大事にしてあげようとしているのに、
それを断って、どこぞの馬の骨が居るかも分からないアパートで暮らそうとしている。
ねぇ由乃、あなたは、そんな苦労を無理にしなくてもいいのよ?
あなたにはちゃんと居場所があるんだから、そこで私が大事に育ててあげる。
だから私の元に戻って来て?ね?」
この人、何か大事な部分が根本的にひん曲がっているな。
そりゃあお姉さんも家出するよ。
とシミジミ思っていると、彩咲綾音、いや、由乃さんは、
キッパリとした口調で由乃さんの母親に言い放った。
「自分の居場所は、自分で作ります。もう、私には構わないでください。お願いします」
そして深くお辞儀をする由乃さん。
それを見た母親は一転して鬼の形相になり、金切り声を上げた。
「そう、いいわよ!あなたのような恩知らずは知らないわ!
これから先、困った事になっても絶対に助けてあげないからね!
その事をよく覚えていなさいよ!」
由乃さんの母親はそう言うと踵を返し、ズカズカと店から出て行った。
由乃さんはその後ろ姿をジッと見守っていたが、
やがて気が抜けたのか、そのまま失神してその場に崩れ落ちそうになり、
その体を春香さんが、優しく後ろから抱きとめた。
そして春香さんは実の母親よりも優しい笑顔で由乃さんに声をかける。
「由乃、本当によく頑張ったわね。大丈夫よ、何があっても、私はあなたの味方だから」
その言葉が届いたのかどうかは分からないが、由乃さんは春香さんの腕の中で、
安心した様子で寝息を立てている。
まあ今の言葉が聞こえていなくても、それはもう由乃さんも分かっている事だろうけど。
とりあえず、これで一件落着という所かな。




