9 由乃と綾音
「こんにちはーっ!疲れた心に元気を注入!
皆の天使、彩咲綾音です!
・・・・・・って、あれ?春香さん、ここは、どこですか?」
そういってキョロキョロ辺りを見回す由乃さん。
というか、今は彩咲綾音と表現した方がいいんだろうか?
その彩咲綾音に向かって、春香さんは答える。
「ここは由乃が新しく住む事になった、沢凪荘というアパートの食堂よ。
これから由乃はここで暮らしていくの」
「なるほどぉ。それじゃあここにいらっしゃるのはこの沢凪荘の住人の皆さんという事ですね?
皆さん初めまして!彩咲綾音です!由乃ともどもよろしくお願いします!」
そういってペコリとお辞儀をする彩咲綾音。
このハキハキした物言いといい、引っ込み思案なぞは微塵も感じさせない明るいオーラといい、
今の彼女は間違いなく、この前のパーティーで俺達が会った彩咲綾音だ。
どうやら彩咲綾音は由乃さんとは完全に別の人格で、その事は彩咲綾音自身も自覚している(・・・・・・・・・・・・・)ようだ。
するとその事を理解した様子の美鈴は、そわそわした様子で俺のシャツの袖を引っ張りながら言った。
「ど、ど、どうしよう?本当にあの綾音ちゃんだよっ。
綾音ちゃんが私達の目の前に居るのよ!きゃーっ」
憧れのアイドルを目の前にして、美鈴は完全に舞い上がっている様子だ。
ちなみに由乃さんは、眼鏡を外しているとほとんど周りの物が見えないド近眼だったが、
今の彩咲綾音もやっぱりそうなんだろうか?
そう思った俺は彩咲綾音に聞いてみた。
「あの、由乃さんは眼鏡をかけてないと何も見えないみたいなんですが、
やっぱり今の綾音さんも、あんまり見えてない状態なんですか?」
「はい、ほとんど見えてません。
本当はコンタクトをすればいいんですが、
私も実は大勢の人に見られるのはちょっと苦手で、
人の顔がぼやけているくらいがちょうどいいんです」
そう言ってペロッと舌を出す彩咲綾音。
う~む、可愛い。
いや、それはともかく、それじゃあこの前パーティー会場で一緒にダンスをした時も、
彩咲綾音は俺の顔がほとんど見えてなかったんだな。
まあ、その方が話がややこしくなくていいけど。
とか思っていると、春香さんが彩咲綾音に向かって言った。
「急に呼び出してごめんね。
由乃と綾音の事を、ここの皆さんにも知っておいてもらおうと思って呼び出しただけなのよ。
今日はもう休んでいいわよ」
「そうですか。まあしばらく、私の出番はありませんもんね(・・・・・・・・・・・・・)。
また綾音が必要になったら、いつでも呼んでくださいね」
彩咲綾音の言葉に頷いた春香さんが
「お疲れ様、綾音」
と言ってまたパチンと右手の指を鳴らすと、彩咲綾音は気を失ったようにその場に倒れこみそうになり、
それを春香さんが両手で受け止め、ゆっくりと畳の上に寝かせた。
「彩咲綾音になっている間は精神的にも体力的にも凄く消耗するみたいで、
こうなるとしばらく目をさましません。
まあ、由乃はこういう子なんです。お分かり、いただけたでしょうか?」
と春香さん。
それに対して俺達沢凪荘の面々は、黙ってうなずく事しかできなかった。
それにしてもこれって、田宮涼美先輩が気絶したはずみで、
子供である『涼ちゃん』の人格に変わるのと似たような理屈なのかな?
人格が変わる引き金こそは違えど、おそらくそういう事なんだろう。
世の中には不思議な事があるもんだ。
と、一人心の中で納得していると、沙穂さんが首を傾げて春香さんに尋ねた。
「それで、これからどうなさるおつもりですか?
由乃ちゃんの事情は分かりましたが、お母様が本気で由乃ちゃんを取り戻そうと動き出すと、
下手をすれば裁判沙汰にもなりかねませんよ?」
それに対して春香さんは、語気を荒くして答える。
「その時はその時です!例え裁判沙汰になったとしても、私は由乃を守って見せます!」
するとそれをなだめるように、矢代先輩が声をかける。
「まあそうカッカせんと。まずはヨッシーがどうしたいのかを聞いた方がええんとちがいますか?
周りの人間がいくら騒ぎたてたところで、一番大事なのは、ヨッシー自身がどうしたいのかやねんから」
「それは、確かにそうなんですが・・・・・・」
矢代先輩の言葉に、そう言ってうつむく春香さん。
と、その時だった。




