2 罪人の顔跡
それはともかく、今のこの状況。
俺も大概驚いたが、目の前の由乃さんはもっと驚いているんじゃなかろうか?
何しろ昨日出会ったばかりで、しかもあまり良い印象を持っていない(と思われる)男に、
自分の下着姿を見られてしまったのだ。
その驚きと恥ずかしさと屈辱とその他もろもろは、
声を失う程の俺の驚きなど、全く取るに足らないものだろう。
もしこれが由乃さんではなく美鈴なら、今頃耳の鼓膜が木端微塵になるほどの叫び声を上げ、
タオルや洗面器やすのこや、下手をすれば風呂桶も投げてくるかもしれない。
だが、ところが、由乃さんはそうはしなかった。
驚き過ぎて声も出ないからだろうか?
それとも恐ろしくて体が固まってしまったのだろうか?
いや、しかし、どうやら、そうではないようだった。
由乃さんは今俺の方を向いているが、驚いた様子はなく、恐怖におびえる様子もなかった。
ただ、まだ寝ぼけて重たそうなまぶたをこすりながら、こう言ったのだった。
「あ、美鈴さん、おはようございます」
ここで声高らかに、俺は宣言する。
俺は、美鈴では、ない。
我、美鈴に、あらず。
大事な事なので二通りの言い回しで表現してみた。
それはともかく、どうやら由乃さんは、俺の姿が美鈴に見えているようだ。
いや、そんな訳はないか。
そうじゃなくて、恐らく眼鏡を外した今の由乃さんは、周りの物がほとんど見えていないんだろう。
それだけ極度のド近眼だという事だ。
それが証拠に、返事をしない俺を前に由乃さんは首を傾げ、
「あれ?美鈴さんではなく、えと、沙穂さん、もしくは、矢代さんでしたか?
ごめんなさい、私、凄く目が悪くて、眼鏡がないとほとんど何も見えないんです」
なんて言っている。
よし、なるほど、わかった。
この状況を一通り理解した俺。
こうなると、俺が今取るべき行動はひとつ。
声を出さずにそそくさとこの場を立ち去る。
そう、この一択に尽きる。
ここでバカ正直に
「おはようございます。ちなみに僕は美鈴じゃなくて聖吾です」
なんて名乗れば由乃さんはパニックに陥るだろうし、
このままここに居ると、他の沢凪荘の住人にこの場を目撃され、(主に俺が)大惨事になってしまう。
それだけは避けないといけない。
少し名残惜しい気がしなくもないが、俺はこの場を速やかに立ち去るべく、その場でまわれ右をした。
すると、何と、
目の前に、般若のお面をかぶった美鈴が居た。
いや、違う。よく見ると、美鈴が般若のお面をかぶっているのではなく、
美鈴の顔そのものが般若のように恐ろしい形相になっていたのだ。
「ひぅっ――――――」
人は恐怖の度合いがある一定のラインを突破すると、
変なしゃっくりみたいな声が出るのだと、俺はこの時身にしみて感じた。
いや、この際そんな発見はどうでもいい。
どどどどうしよう?
一番見られたくない場面を、一番見られたくない相手に見られてしまった。
美鈴はすでに、下着姿の由乃さんを目撃していた。
そしてそれをバッチリ見ていた俺の事も目撃している。
つまり彼女の中では、俺が由乃さんの着替えを覗いたと解釈し、
こんなに般若のように恐ろしい顔をしていらっしゃるのだろう。
気のせいか、美鈴自身の着替えを目撃してしまった時よりも怒っている気がしないでもないが、
今はそんな事はどうでもいい。
さて、この後の俺はかなり、というかほぼ確実に、美鈴に痛い目にあわされるのだろうけど、
それでも俺は、これが不可抗力である事を美鈴に分かってもらうため、震える声で訴えた。
「いや、あの、これはね?俺が―――――――」
「言い訳なんか聞きたくないわ!」
俺が覗いた訳ではないんだよ?
という俺の言葉をさえぎり、美鈴が左手を振り上げて叫んだかと思うと、
その振り上げた掌が的確に俺の右の頬に炸裂した。
ぶゎちこぉーん!
「いってぇっ⁉」
そして右の頬をぶたれた俺は、左の頬を差し出した訳でもないのに左の頬もぶたれ、
ぶゎっちこぉーん!
「ぐっはぁっ⁉」
更に美鈴は俺の後頭部を右手でワシッと掴み、そのまま俺の顔を正面の壁にめり込ませた!
グシャッ!
「ごふぅっ⁉」
この時脱衣所から出てすぐの壁に、俺の顔がめり込んだ跡がずっと残る事になる。
その跡はいつからか、
『罪人の顔跡』
と呼ばれるようになるのだった。




