一歳違い
……あの紙切れのことだ。
わたしは、どう反応したらいいのかわからず固まってしまう。アーシュさんが、わたしが神呪を描けることを、どこまで知っているのかわからない。そして、それが分かったとして、わたし自身がどこまでしゃべっていいのか分からない。
……あめ玉を作る動具のことはバレてた。
きっと穀倉領でみんなに聞いたのだろう。わたしはザルトだけではなくミルレも前でも神呪を描いてしまっている。
「あぁあぁ、そんなに怖い顔しないでよ」
アーシュさんがクスッと笑う。
「別にアキちゃんを捕まえようとか拐かそうとかいうわけじゃないんだ」
「…………うん」
何て答えたらいいのか分からないが、アーシュさんが悪い人じゃないのは知っている。
「あの神呪はね、とても重要なものなんだ」
それは理解できる。あの神呪が引き起こしたことを考えれば。
「不手際で盗まれてしまったんだけど、あの神呪のことはできれば誰にも知られたくない」
だから、オジルさんが神呪師組合に問い合わせても、誰も知らなかったのか。
「返してもらえる?」
アーシュさんやあのキレイさんなら、きっと力ずくで取り返すことができるんだろう。わたしの居場所を突き止めたのだ。あとは踏み込むだけでいい。
……ちゃんと、わたしに確認してくれるんだ。
アーシュさんは怖いと感じることもあるけど、基本的にわたしのような子どもでも、一人の人間として相手をしてくれる。それは初めて会ったときから変わらない。わたしがアーシュさんのそういうところを尊敬している。
「……まだ……あるかどうか、分からないの」
あの紙切れは、森林領に来る途中でダンに預けた。その後どうしたのかは聞いてない。わたしはもう覚えてしまっているので、興味をもたなかった。
「ダンに聞いてみる……。アーシュさん、どこにいるの?」
とてもわたし一人で判断はできない。一度ダンに相談しようと思う。
「…………領都の宿にいるけど……どうしたの……?」
「……え?」
ひどく心配そうにそう聞かれて、瞬きした瞬間、涙がバタバタと落ちてきた。
……また、ここを離れることになるのかな?
せっかくハチミツも、光も、みんなとの生活も落ち着いてきたのに。
やっと掴んだものが、あったのに。
「え、えぇっ……?ど、どうしたの?僕、何か嫌なこと言った!?」
アーシュさんが狼狽えるのが、何だかおかしい。
「ううん。なんでもない。来週の草の日が出荷なの。そのときに領都に行くね」
「ああ、うん……。あ、いや。ちょっと急いでるんだ。君が持ってないなら君の保護者に直接聞いてみるよ」
「……え?」
それだと、わたしがダンに話す前にダンとアーシュさんが話すことになる。何となく、それはダンが困るんじゃないかと思える。
「……あの……ダンたちは、明日からねらしとか窯出しとかあって忙しいの。夜も寝ないで作業するから……」
「ああ、なるほど。それは邪魔しちゃいけないね。いつ頃落ち着く?」
アーシュさんが理解のある人で良かった。
「鋼の日から灰出しとか箱詰めとかするから、森の日なら話せると思う」
「なるほど。で、翌日に出荷なんだね。それにしても、その作業、見てみたいなぁ」
「……箱詰めくらいなら見てても邪魔にならないと思うよ?」
さすがに、夜を徹して作業しているところを隣で呑気に見学されるのは迷惑だろう。
「うん。じゃあ、森の日に行くよ。もし見つかったら取っておいてくれる?」
アーシュさんはそう言うと、近くに繋いであった馬に跨る。コスティの馬も綺麗だが、この馬は更に大きくて立派で、いかにも偉い人が乗る馬といった感じだ。
アーシュさんは、颯爽と森の中を駆けて行った。上品な人が森の中で馬に乗ると、まるで違う森みたいに見えるものだなと思った。
「……ガルス薬剤店か…………」
家に戻ってからダンに報告すると、ダンはなんだか考え込んでいる。
養蜂小屋に戻ったわたしを、コスティが一瞬目を上げて見たが、すぐに何事もなかったかのように作業を再開した。たぶん、わたしから言い出さない限り何も聞いてこないのだろう。お互い様だ。
「…………潮時か」
そう呟くと、ダンは立ち上がって自分の部屋から例の紙切れを持って来た。
「お前の目から見て、その人は信用できると思えるか?どういう印象を持った?」
ダンの質問に対する答えは簡単だ。
「わたしは信用してる」
最初から、わたしはアーシュさんに好印象を持っている。
「市場で会った時も、一緒に開発してる時も、アーシュさんはいつもわたしの言葉をきちんと聞いて答えてくれる。ごまかそうとか適当にあしらおうとされたことは一度もないよ。ザルトにもきちんと挨拶して、他の人と変わらない態度で声をかけてくれてた」
アーシュさんは、いろんなことを考える人だ。わたしに告げる言葉が全部じゃないかもしれない。でも、少なくとも、わたしが聞いたことにはきちんと答えをくれた。研究所で秘密にしなければならないことなら、秘密にしなければならないからというふうに答えてくれていた。
「アーシュさんと一緒に開発するのは、とってもワクワクしたよ」
アーシュさんと開発するのは楽しかった。わたしの知らないことをいっぱい知っていて、わたしが考え付いたことをおもしろがって試してくれた。一人でやるよりも考えが広がるなんて、神呪師以外では初めてだった。
「……そうか」
ダンがフッと笑って頭を撫でる。だが、まだ懸念事項を伝えていない。
「でも、アーシュさんは、たぶん王族と関係がある人なの」
「王族?」
「うん……たぶん、そうだと思う」
わたしがキレイさんの話をすると、ダンはまた考える仕草をする。
……心当たりがある、とか?
「……まぁ、穀倉領だからな。とりあえず会ってみるか」
「こんにちは。アキちゃん」
アーシュさんは、約束通り森の日にやって来た。やっぱり、馬で単身だ。
「アーシュさん、従者は?」
「うん?連れて来てないよ?」
意外なことに、アーシュさんは従者を引き連れることはしないらしい。というか、サラッと流されたが、やっぱりアーシュさんにも従者っているんだな。
「僕は身軽な方が好きなんだ。ナリタカ様もそうだね。煩わしいのは面倒くさく感じちゃうんだよね」
「でも、アーシュさんはキレイさんの従者なんでしょ?」
アーシュさんは連れてってもらえないんだろうか。
「うん。他に護衛がいるから最小単位でも3人だね。ところで、キレイさんて何?」
「え?あの人だよ、薬剤店で会った。キレイだったでしょ?名前、この前知ったからまだ慣れないんだよ」
アーシュさんが微妙な顔で固まった。やっぱり名前で呼ばないといけないんだろうか。そうだよね。
「いやいや。いいよいいよ、そのままで。そのままでいこう。そして、対面したら是非本人にもそう呼びかけてみてね」
アーシュさんがとても爽やかな笑顔で言うのが胡散臭く見える。
……これ、絶対おもしろがってるだけだよね。
「アキ」
「あ、ダン」
わたしとアーシュさんが驚くほど緊迫感なく他愛のない話をしていると、箱詰め作業が終わったダンがやってきた。
「アーシュさん、わたしの保護者のダンだよ。ダン、アーシュさん」
「はじめまして、ダンさん。アーシュ・ネフェル・ザン・ファン・トゥルムツェルグ・ディナールです」
……ん?アーシュ・ネフェ……なんて?
「……ディナールか……」
「はい。主はナリタカ様と」
ダンの呟きに、アーシュさんが丁寧に答える。でも、わたしには何のことか分からない。普通、他領の者に自己紹介する時は、名前の後に住んでいる領地名を入れ、働いている人ならその間に更に工房名を入れたりする。何処にある何という工房の〇〇というものですという形だ。ザルトだと、ザルト・ヤダル・ファン・トゥルムツェルグだし、わたしは森林領に住んでいるただの子どもなので、アキ・ファン・シェルヴィステアだ。
でも、ネフェルなんて領地名は初耳だ。コスティの家で本を読んだ時に、各補佐領の地名が出ていたが、見た覚えがない。
「ねぇねぇ、ダン。ネフェルって何?補佐領?」
「いや、領地名じゃねぇ。アーシュさんは苗字付きだってことだな」
「へぇ…………ぇぇぇええ!?」
……苗字付き!
衝撃はじわじわとやってきた。これでもかと目を見開く。苗字を名乗るのは王族だけだと聞いたことがある。ということは、アーシュさんは王族なのだろう。
……苗字付きの人なんて、初めてだ。
「王族直属の従者だな」
……ん?
「王族じゃないの?」
「ディナールは直属の従者に与えられる苗字だ」
直接の王族ではないらしい。それでも、なんだかすごそうな感じだ。
……あれ?じゃあもしかして、あのキレイさんが王族なのかな?
直観だったけど、そう言われても違和感がないくらいの浮きっぷりだった。質素な服なのに、まったく質素になる気がなさそうだったし。
「お詳しいですね。その辺りの知識は研究所で?」
アーシュさんが静かに微笑みながらダンに聞くが、ダンはそれには答えず家に行こうと促す。そのそっけない態度に、見ているわたしはハラハラする。アーシュさんのことは好きなので、できれば仲良くしてほしい。
「大丈夫だよ、アキちゃん」
アーシュさんがクスッと笑いかけてくれるのに、少しホッとした。
「さて、あの書付はあった?」
「うん。ダンが持ってた」
そう言って、例の紙切れを渡す。他にわたしが描き散らした神呪の紙は捨ててしまったので、残っている暗闇の神呪の手がかりは、この紙切れとわたしの頭の中だけだ。
「……で、これを使ったのは、アキちゃんかな?」
アーシュさんが軽い口調で聞いてくるが、目が笑っていない。なんと答えたらいいか分からず、ダンの方を見る。
「これを渡したんだから、要件は済んだはずだな?」
「アキちゃんの年齢。いつまでこのままなんです?」
ダンが目を細めて突き放すように言うと、同じように目を細めて、ゆっくりとアーシュさんが聞き返す。
……わたしの年齢?
わたしの疑問の視線を受けて、ダンが思いっきり顔を顰める。
「少なくとも、僕と僕の主は気付いています。これ以上は必要ないのでは?」
ダンが渋い顔のまま何か考えている。時々視線が揺れるので、何か迷っているのかもしれない。
しばらくじっと考えて、ダンが軽く目を瞑る。
「…………ハァ」
深いため息を吐いた後、わたしの方を見て、いかにも面倒くさそうに言う。
「アキ、お前な、9歳だ」
「…………へ?」
何のことだか分からず首を傾げる。たしかに、わたしはもうすぐ9歳になる。
「……穀倉領に向かう前のことはどれくらい覚えてる?」
「ケガした後、起きたら知らないところで、ダンがいた」
「季節は?」
「夏」
ダンが頷く。
「それな、事故があった後の丸一年後の夏だ」
「…………え?」
目をぱちぱちしてしまう。
「え、一年?」
意味が分からない。だって、お父さんに頭を撫でられた後の記憶は全くないのだ。わたしは一年何をしていたのだろう。
「やっぱ覚えてなかったのか」
「何を?」
自分の知らない時間がまだあったことに少し怯える。しかも、ダンの言い方からすると、何かをしていたような感じだ。
「お前、何かよく分からん神呪を描き散らしては喚き散らし、暴れて疲れては寝るってのを約一年繰り返してた。ま、ほぼ寝てたんだがな」
わたしは瞬きも息も止めて固まる。
…………え、猛獣?
「なんか、別人みたいになっててな。でもお前はお前だから殴るわけにもいかねぇし、あれはホントに大変だった……」
ダンがひどく遠い目をする。でも、わたしはそんな冷静になれない。
「いやいやいや、何それ、怖いよ!別人て誰!?何の神呪描いてたの!?暴れるとか、それわたし!?……ていうか、ダン、殴ろうとしてた?」
「暴れて椅子投げるわ、皿割るわ、止めようとすると噛みつくわ……実はあの時は人間じゃなかったんだと言われてもオレは納得するぞ」
その状況を思い浮かべると、一気に頭が冷えた。
「…………えっと……、なんかごめんね。ダン」
一歳違いという衝撃の上に、更にダンから明かされる数々の奇行に顔が引きつるのを感じる。そのまま後ろにひっくり返りそうな遠い意識で、とりあえず謝っておいた。
「……お前の父親に直接頼まれてなければ絶対放り出してた」
……お父さん、ありがとー!
人選が間違っていたらきっとわたしはここにいなかっただろう。わたしは、自分の命を繋いでくれた父の慧眼に深く感謝した。
9歳だと判明したのが9月5日(森)なので、あっという間に10歳になっちゃいます。




