契約②
「アーシュさん、ごめんなさい。こんな場まで用意してもらったのに」
「うーん……」
さすがに申し訳なくて俯いて謝罪するわたしに、アーシュさんが首を傾げる。
「どうしたの? なにか怖くなった?」
少し腰をかがめてわたしの目を覗き込むアーシュさんの目に、特に不快な色は見当たらない。ただ、純粋に答えを求めている。
「……ナリタカ様に誓約するということは、ナリタカ様には逆らわないということなんだよ」
アーシュさんが書き並べていた内容のインパクトが強すぎて流しそうになったけれど、契約書には普通の文章も書かれていた。
当然のように主であるナリタカ様に不利になる選択はしないという内容で、ナリタカ様の方にはわたしを絶対的に庇護するという内容だ。
……もしかしたら、わざとかな?
アーシュさんのことだ。わたしがそこに過敏にならないように、わざと普通はないような追加文を書き加えた可能性も否定できない気がする。
「いや、間違ってることは間違ってるって言うよ? オーラフ様なんて、ナリタカ様にも容赦なく厳しいし」
「……むしろ何も言わずに従われることの方が少ないかもな」
……うん。あの人たちなら何でも言いそうだ。軽く想像がつく。
ナリタカ様のぼやきから察するに、たぶんナリタカ様の周りの人はみんな、嫌なことは嫌だとハッキリ言うのだろう。
「でもそれは、ナリタカ様だからだよね?」
「あー……、まぁ、そうだね」
たぶん、タユ様やディーデリク様も、それを許してくださる人たちなのだろうと思う。ただそれは、彼らが王族の中でも穏やかな性格をしているためであって、あくまで彼らに許されているだけだ。
……どうしても譲れないことがあったら?
彼ら王族が「許さない」と言うだけで、わたしたち部下の抵抗など何の意味もなくなってしまう。
「……リニュスさんに、聞かれたことがあったの」
「…………リニュス?」
「もしアーシュさんが、自分の意に沿わないことをナリタカ様に命令されてたら、わたしはどうするのかって」
何の話をしていてそんな質問になったのか、それにどう答えたのかはハッキリとは覚えていないのだけれど、あの時のリニュスさんの妙に真剣な表情だけが印象に残っている。
……あの時は、どうしてそんな質問が出るんだろうって思ったくらいだったけど。
「それって、そういう状況も有り得るってことだよね」
今思えば、あれはリニュスさんのことを聞いていたのかもしれない。
もしかしたら、リニュスさんの主は、相手の意に沿わないことを平気で命令してくる人だったのかもしれない。
「もちろん、ナリタカ様やタユ様がそんなことをする人たちじゃないっていうことは分かってるの。ナリタカ様のことはよく分かっていないけど、アーシュさんがこんなにも信頼してる人だし、タユ様に至っては直接お話しする機会もたくさんあったし」
たぶん、この先も変わらないのだろうと思う。それでも。
……問題は、わたしだ。
ダンだけを頼り切って、ダンが決めたことには疑問すら持たず。
それが、わたしの人生の選択として間違っていたとは思っていない。もう一度人生を繰り返したとしても、わたしはまたダンに絶対に従うだろう。けれど、わたしはもう大人だ。
成人を迎え、大人の仲間入りをする今日この場で、また誰かに人生の選択を委ねる道を選ぶことに、疑問を持ってしまう。たぶん、火山領でダンがわたしの手を離したのは、わたしにそれを考えさせるためなのだ。
……手を引いてくれる相手がいなくても、自分で考えて進めるように。
軽く目を閉じて、一つ深呼吸をする。たぶん、わたしはより厳しい道を選ぼうとしている。
「申し訳ありません、ナリタカ様」
……問題なのは、ナリタカ様じゃない。
改めて、正面からしっかりとナリタカ様に向き合う。
あからさまに無礼な形で辞退を申し出たわたしの話を、それでもナリタカ様は黙って聞いてくれている。これだけでも十分に信頼に足ると思えるのだ。それでも。
「自分の意思が固まらないうちに、誰かに流されるのはもう止めたいと思っています」
……そういう立場に、自分の身を置いておきたくない。
わたしはもう、守ってくれる人に全てを預け流されることを許容できるほど、子どもじゃない。
「……だが君は、さっきその口で言っていたな。力が欲しいと」
「はい。ただの庶民に過ぎないわたくしには、どうしても抗うのが難しい状況がありますので」
「契約はしない。忠誠は誓わず命令も聞かない。だが、私の庇護だけは欲しいと?」
それはたしかに都合がいい話で、王族でなくても飲み込めるものではないだろう。むしろ、王族であるナリタカ様がよく話を聞いてくれてるなと思う。エルンスト様やヘーラルト様辺りなら、すでにわたしの命は失われているかもしれない。
「……申し訳ありません。契約の内容について、もう一度考えさせてください」
王都にやってきてからも、時間はたっぷりあったはずなのだ。
それなのに、わたしは言われるがまま勉強ばかりしていた。そんな自分を振り返って唇を噛む。
……まだまだ、わたしは甘えようとしてたんだ。
わたしは今日までの間に、私が求めているものとナリタカ様が求めているものの間を対等に繋げられる何かを、もっときちんと探し、よく考える努力をするべきだったのだ。
しんと静まり返った室内で、ディーデリク様とタユ様がなんだかニヤニヤと笑い、ナリタカ様がやや渋い顔で腕を組む。
「……まぁ、この内容についてはアーシュが勝手に考えたものだからな。考え直す必要は互いにあるかもしれないが」
「あれ、僕の観察眼、疑われてます? お二人の性格を鑑みれば当然の内容だったと思いますけど?」
「意見の擦り合わせは大事だな、アーシュ」
護衛の方々は少しピリッとした空気をまとっているが、アーシュさんもオーラフ様も意外なほど穏やかな表情をしている。
「…………例えばこれが、ダンに忠誠を誓うと契約だったとしても。今のわたくしは、それにそのまま従おうとはしなかったでしょう」
「ほぅ?」
「……わたくしには、守りたい、幸せになって欲しいと願う人たちがいます」
……ザルト。ゾーラさん。コスティ。クリストフさん。ラウレンス様。
お世話になった人は数え切れないほどいて、その全てが、わたしが守りたい相手だ。
「けれど、それは見も知らない世界中の全ての民、ではないのです」
火山領で、クレープを買っていってくれた子どもたち。森林領のお城ですれ違う時に挨拶してくれた衛兵さん。穀倉領の市場でおまけをくれた商人たち。
「どこに住む人だとか、どういう立場の人だとか限定できるものでもなくて」
そして、ペトラ。
「わたくしがこれから出会う人たちを含め、その人たちに対して何を行うのか、それは完全に、わたくし自身の選択であり、誠意でありたい。そう思います」
そんな、本当に身近な人たちにしか、わたしの気持ちは向いていない。そしてそれは、酷く自分勝手なものだ。
「……なるほど」
何か考え込むように視線を揺らしながらナリタカ様が小さく呟く。
「だが、私としても君を野放しにすることはできない。君の力はとても放置できるものではないからな」
「はい。これまでのご恩もございますし」
「……いや、それはいい。私はそれほどのことはしていない。だが……、他にも私には君の手を借りたいことがあるしな」
……手を借りたい?
やや言い淀むようなナリタカ様の表情と相まって、不思議な言い回しだと思った。
あのまま契約を交わしていれば、わたしは当然のようにナリタカ様の求める働きをしなければならなかったのだ。それは命令すればいいことで、なんとなく、今その表現は少しそぐわない気がする。
「まぁ、街灯を設置する順番とか、アキちゃんの自由にさせてあげることはできないしね」
「え? ああ……え、そうなの?」
ふと感じた違和感に目をぱちぱちしていると、アーシュさんの明るい声で空気が切り替わる。
「うん。その辺りは所謂大人の事情がいろいろあってね」
「そっか……」
「そういったことも含めて、一旦お互い妥協できるところまでで手を打ちますか、ナリタカ様」
「……そうだな」
重い空気などまるで感じさせない自然さで話が進む。
なんとなく煙に巻かれたような気がしたが、この流れが自然なものだと言われればそんな気もする。要するに、よく分からない。さすがアーシュさんだ。
「アキさんは我々と違って契約前にナリタカ様と接する機会がほとんどありませんでしたからな。信頼関係などなくて当然。そして、信頼関係が結ばれていない相手に忠誠を誓うなど無理で当然。これからですよ」
……これから……。結べるかな、信頼関係。
オーラフ様の言葉を聞く限り、これからナリタカ様との信頼関係を築いてから、後日改めて契約を結ぼうと言うことなんだと思う。なんとなく、期限を切られると難しいかもなと、ナリタカ様の無関心そうな表情をチラリと見て内心ため息を吐く。向こうが関心を示さないのにこちらが関心を持つのは難しい。
「…………いや」
笑顔を張り付けるのを完全に放棄して、小首を傾げて考え込んでいると、腕組みしたナリタカ様が口元に手を当てて、少し考えながら口を開く。
「忠誠は誓わなくても構わないな」
「……へ?」
内容の割に軽やかな口調でさらりと告げられる言葉にポカンとする。オーラフ様やアーシュさんもさすがに予想外だったのか、伺うようにナリタカ様をじっと見詰める。
……え、誓わなくていいの?
直臣になるのなら忠誠は必須なはずだ。王族しか知りえない機密情報を耳にする機会もあるだろうし、内部情報に明るくなれば、それを悪用する方法もいろいろと出てくる。ナリタカ様には不都合なはずだ。
「別に、特に私への忠誠がなくとも神呪の仕事だけなら普通に依頼すれば良いし、私はそもそも民を虐げようと考えていない。断られるような依頼自体がないだろう」
「………………」
「なるほど……」
思わずポカンと口を開けて見つめるわたしを全く意に介する様子もなく続けられたナリタカ様の言葉に、オーラフ様が少し考えるような表情で小さく頷く。
「これまで世話になった相手にしか興味が持てないと言うのも分からなくはないからな。世話になった分、しっかり返せばいいだろう。それらの者たちも含めて、民を守り導くのが王族の務めだ」
「……はぁ」
「官僚として研究所に勤めるようになれば、日中はそちらにいて私との接点はそうそうないだろうしな」
「…………たしかに」
「問題は、わたしが君の動きを把握できない場合があることと、君が他の人間に忠誠を誓うことだ」
「………………そうですね」
それはもちろん、そうだろう。忠誠を誓わないということは、場合によってはわたしの動きがナリタカ様の邪魔になってしまうということだ。
「だが君は、私だけではなく養父にすら忠誠を誓うのは嫌だと言う」
「……はい」
「では、残る問題は君の言動の管理だけだ」
「…………はぁ」
……え? つまり、ナリタカ様の邪魔さえしなければいいってことかな?
「というわけだ。アーシュ、そのようにまとめろ」
「承知致しました」
困惑するわたしを余所に、ナリタカ様の言いたいことを正確に組み取ったらしいアーシュさんがスラスラとペンを走らせる。どうでもいいけど、穀倉領出身なのに筆は使わないらしい。
「じゃあ、こんな感じでどうでしょう?」
ひらりとテーブルの真ん中に置かれた紙を、ナリタカ様とオーラフ様と3人で覗き込む。
「ええと……許可のない他者への忠誠の誓約行為を無効とし、これを禁圧する」
「私への忠誠を誓わなくてもいいが、他の者へ忠誠を誓うこともするなということだな」
なんとなく代表として読み上げわたしに、ナリタカ様がとても分かりやすい言葉で補足する。
……まぁ、これはいい……かな?
「……王宮を常に居の本と為し、この外へ出る際は必ずナリタカ様配下への報告を課する」
「王宮外を無断でフラフラ出歩くなということだろう」
この辺りは状況によっては少し難しいかもしれない。
「誰かに言えば王宮外に出ても構わないということでしょうか?」
「……まぁ、そうだが……いや、それも必要最低限にするように」
「フラフラしなければよろしいですか?」
「……念のために言うが、歩き方の問題ではないからな?」
「動具を作るために目的地に真っすぐ向かうのならばよろしいですか?」
「……まぁ……仕事で出ることもあるだろうからな」
「いえ、どちらかというと私用の方が多いかと」
「……自分の身が危険だという自覚はあるか?」
「マルさんとリクさんがいれば大丈夫かなって」
「……ちなみにどのような私用が考えられるんだ?」
「町の人と動具を作る約束をしているのです」
「……さっきアーシュが入れていた注意分は変わっていないからな?」
「きちんと損得勘定するよう努力します」
「………………4歳の子どもとどう違うんだ……?」
……失礼だ。
僅かに顔を背けての小さな呟きだったけど、しっかり聞こえている。というか、聞こえなくてもこめかみに指先を当てて眉間にしわを寄せて呟けば内容は何となく分かる。
「アーシュさん、わたし、王宮に住むの?」
「ああ、それはナリタカ様の邸の離れが空いてるからいいかなって。よろしいですよね?」
「そうだな。西の一棟が空いているからそこでいいだろう」
どうやら、ナリタカ様のお家にお泊りすることになるようだ。斜め前に気配を消して佇んでいたマルさんが顔をしかめるのが見えた。
「家そのものは別棟になるが、他の使用人を置かないので食事は私の邸に来てとるように」
「自炊は構わないでしょうか?」
「構わないが食材が手に入らないのではないか?」
「……たしかに」
王宮からフラフラ出てはいけないのでは、市場に行くのは無理だろう。あそこはまさにフラフラを目的とするところだ。
「護衛からも報告は受けるが、君自身からの報告も欲しい。朝食の際に前日の報告書を提出してくれ」
「え……、報告書を毎日ですか?」
「それほど細かくなくていい。日記くらいの感覚で十分だ」
「…………それは大変ですね」
「…………ヒューベルトの日記は基準にするな」
一瞬頭をよぎったヒューべルトさんの日記が、ナリタカ様の頭の中もよぎったらしい。何かを思い出すような表情で顔をしかめている。あの日記を思い出して顔を顰められるのは不本意だ。
「官僚の採用は1年未満の研修期間の後に正式決定される。報告をきちんと行い、私からの神呪の依頼をこなしてくれれば、正式採用後には一時帰郷を許そう」
「え…………?」
続けられた一言に、ハッと息を飲む。
……帰郷?
まさか、このタイミングで出ると思わなかった言葉に、咄嗟に言葉が出ない。
「数日程しかやれないが、森林領へ出向くことを許可する」




