長い一日 ~わたしの武器
「……アーシュさん…………あの音……」
人の体重で、数日前から積もっている雪を踏んでも、ああいう音にはならない。なんというか、固めたものを更に固めるようなギュムッという音になるのだ。
「しっ……!」
「え? ……んむ?」
不思議に思ってアーシュさんを振り仰ぐと、突然口を塞がれた。
「…………誰だ?」
アーシュさんが誰何する。でも、一応確認しているだけというように聞こえる。
カササッ……、ザッ……トトトト……。
アーシュさんの問いに返事はなく、ただ、その気配だけが感じられる。こちらのランプの明かりを中心に、周囲をウロウロしている気配がするが、こちらからあちらの姿は全く見えない。
「…………野生の獣、か」
アーシュさんの声が、低く緊張感を孕む。
……野生の獣……。
その言葉に心臓が跳ね上がる。
ここに来るまでにも何度か襲われた。
光の外から狙ってきて、襲われる一瞬しかその姿を捉えることができないため、わたしにはその獣の姿がハッキリとは分かっていない。ただ、4つ足で飛び掛かってくる黒い体が、素早い動きで残像を残すように目に残り、得体の知れない細長い鋭いものとして恐怖を煽っている。
「じっとしててね」
アーシュさんがわたしの口を塞いでいた手を離し、わたしを背後に隠すようにして一歩前に出る。右手には、横たわっている男の人が持っていた剣を持っている。
ガザザッ……、ザザッ……。
相変わらず、相手は姿を見せない。わたしが新たに木の欠片に描いた光の神呪は、それを腕に巻き付けたアーシュさんを中心に、大人2人分くらいの半径しか照らせない。足音から察するに、光が届くすぐ外にいると思われるが、そこから光の中には入って来ない。
「………………」
アーシュさんの背中が極度の緊張を伝えてくる。
ザザッ……、ザクッ……。
足音が止まった。その瞬間の、空気が切れるような緊張感。呼吸音すら、壁に跳ね返ってうるさく響く。
…………あ。
ピンと張りつめた糸を微かに弾くような、波紋のような何かが、一瞬伝わってきた。
そう脳裏に閃いた瞬間、アーシュさんの左手の暗闇から大人くらいの生き物が襲い掛かってきた。
ザ……ッン!
「ギャッ、ギャンッギャンッ!」
咄嗟にアーシュさんが避ける。避けた時に剣で傷をつけたようで、けたたましい獣の悲鳴が響く。
そしてまた、相手が暗闇の中に溶け込む。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
「グルルルルル……」
その呼吸音と気配に息を飲む。
…………2匹いる。
いや、2匹とは限らない。分かったのは1匹ではないということだけだ。もしかしたら、他にも何頭か闇に潜んでいるのかもしれない。
ザザッガザザッ……、ガザザッザザッ……。
激しい息遣いと足音がすぐ近くで聞こえる。でも、光が届く範囲にいないので姿が見えない。音だけで、姿が見えないという状況が更に恐怖を煽る。
アーシュさんの意識が広範囲に向けられているのが背中からでも分かる。それくらい緊迫した空気が辺りを包む。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
「グルルルルル……」
ザッ……。
足音が止まって、獣の低い唸り声が響く。明らかに、敵意を向けられている。
……アーシュさんだけ一方的に丸見えなんだ。
こちらから相手が見えないのに、相手からだけアーシュさんが見えているのは絶対に不利なはずだ。
……どうしたらいい!? ……光、光が……あっ!
「アーシュさん、目印上げる!?」
「…………お願い!」
さっき、目印用に作っていた光を放つ動具を、斜め上に向けて作動する。
「行くよ、目を閉じてぇぇっ!」
手のひらに収まる太さの細長い棒に、思いっきり力を流す。力加減とか全く分からなかったので、とにかく思いっきり光るように作ったものだ。
カッ……!
「きゃあっ!」
一応、作動させる瞬間目を瞑ったのだが、それでは到底防ぎきれない光が、瞼の向こうで爆発する。
「ギャイン! ギャンッギャンッギャンッ」
動物の甲高い悲鳴のような鳴き声が聞こえてきて、慌てて力を流すのを止める。そうすると、光の元はアーシュさんが腕に巻き付けている枝だけになり、周囲が見えなくなる。
……何がどうなったの?
状況が全く分からず、ちょっと悩んだ末に、持っていた棒に少しずつ神呪に力を流す。色合いがおかしな分アーシュさんが持つ破片より暗めだが、広範囲に光が広がる。さっきの光の暴力よりは随分マシだ。
「アーシュさん!」
光を向けると、アーシュさんが警戒して立つ向こうに、頭を抑えて伏せる獣の影が2つ見える。
どうやら、わたしが放った光の暴力で目を攻撃できたらしい。
……アーシュさんが後ろ向きで良かった。
「アキちゃんありがと!」
そう言うなり、片方に向かって剣を繰り出す。アーシュさんの剣は、大きく振りかぶったりするのではなく、相手に突き出す形をとっているようだ。
「ギャイン! ギャン、ギャギャン!」
わたしからは暗いし遠いのでよく分からなかったが、アーシュさんの剣が獣の体を傷つけたようだ。野犬のような風貌の動物がいて、片方の前脚を浮かせている。傷つけたのはあの脚だろうか。
「グルルルルル……」
「アーシュさん……!」
唸り声にハッと目を向けると、もう片方が一旦低く構えて、一気にアーシュさんに向かって駆け出す。
ザンッ……!
飛び掛かってくる獣をアーシュさんがするりと身をかわして避ける。
着地した獣にアーシュさんが剣を向けた、その瞬間。
「ウウゥゥゥー……」
全く予期しなかったところから唸り声が聞こえてきて、ハッと視線を回す。
……さっきの…………!
前脚をケガをしていたもう片方が、こちらに向かって駆けて来るのが見えた。
「アキちゃん!」
アーシュさんの焦った声が遠くで聞こえる。まるで時間が極端にゆっくりになったみたいに、獣が近づくのが見える。ゆっくりなはずなのに、わたしの体は動けない。
「あ………………」
目を見開いて、その光景を見つめる。こちらに向かって来る傷ついた獣の、その狂ったような血走った目が、過去の記憶と重なる。
ちょうど手元に置いてある、念のための武器さえ一緒だった。あの時と。
「……イ……、イヤァァァァァッ!」
悲鳴と同時に咄嗟に握りこんだ神呪に、加減無しの力が流れ込む。その瞬間、ゴゴゴゴゴゴと地響きがしてハッと青ざめる。
…………マズイ!
「…………あ、」
声をかけなきゃと思った時には、ドォッという音と共に、獣とわたしの間から勢いよく水が噴出した。
「アーシュさん、避けてーーー!」
わたしの絶叫に重なるように、一旦上空高くに吹き上がった大量の水が、ドドドドっという音を立てて地面を叩きつける。
ドダダダダダダダ……!
「ギャギャッ……ン!」
勢いよく叩きつける大量の水に打ち付けられて、獣が身を伏せる。視線を回すと、さっきの場所から少し離れたところで、アーシュさんが呆然と、立ちふさがる壁のようなその大量の水の柱を見ていた。
……あっちにはあんまり水がいかなかったんだ。
地下の水管から大量に呼び寄せられた水は、わたしが危険だと感じたところに集中していたようだ。その分、直撃を受けた獣は地面に伏すほどの衝撃を受け、アーシュさんは大して濡れずに済んだらしい。
「…………あ、アキちゃん……」
「……良かった、アーシュさん」
半ば放心した状態で、呆れたように呟くアーシュさんにホッとする。だが、次の瞬間、アーシュさんが顔色を変えたのを、力の抜けた状態で認識する。
「……アキちゃん!」
全く、何が起こっているか分からなかった。
ただ、顔色を変えたアーシュさんが全然予備動作もなしに飛び掛かって来て、視界を黒いものが掠めた。
「グルルルルル……」
……え?
気が付くと、わたしはアーシュさんに抱えられて地面に転がっていた。
アーシュさんが素早く身を起こす。その向こうに、あまり濡れていない獣が身を低くして唸っていた。
「あ……」
その姿を見て、わたしのちょうど目線の高さにある手元を見て、心が黒く塗りつぶされるような錯覚を覚える。
……剣が…………!
肩で息をしているアーシュさんは、さっきの戦いでボロボロだ。そして、持っていた剣はわたしを助ける際に地面に投げ出されてしまっている。
…………無理だ。
一瞬で、頭が勝手に思考を閉じる。諦めるとか諦めないとか、そんなことを考える余裕もないわたしの脳の、咄嗟の反応だ。
獣が低く前身を落とすのが見えた。その両脚に、力を込めているのが分かる。
「グルルルルル……」
目を鋭く光らせて、機を窺っている。その目線はもうわたしから外れて、アーシュさんをしっかり捉えている。
……わたしの代わりに、アーシュさんが狙われてるんだ。
そう分かっても、どうしようもない。さっき庇われた時に動具を投げ出してしまったわたしには、もう戦う術はなくて、アーシュさんのために獣の前に躍り出て犠牲になる勇気もない。鈍ってしまった思考では、何かを考えることすら無理だと感じる。
……わたし、守られて、庇われてばかりだ。
獣が一層低く身を構える。それを、まるで時間がゆっくりになったかのように鈍く捉える。真っ白に冷えた頭に、自分の心臓の鼓動だけが響く。
………………誰か……!
「アキーーー!!!」
瞬きもできず、目を見開いたわたしの耳に、怒号のような太い怒鳴り声が飛び込んで来る。
「ギャンッ!」
「……え?」
わたしの間抜けな声に重なって、ザザーッという音が横手から聞こえてくる。
「…………え?」
獣の代わりに目の前に立つその熊のような大きな姿に、目を瞬く。
……え、熊?
「………………クリストフ、さん?」
「……無事か?」
クリストフさんの言葉にキョトンとする。一瞬、ここがどこで何をしていたのか分からなくなる。
……え? 炭やき?
そんなわけはないのに、ついそんな疑問が頭を過ぎる。それくらい、クリストフさんは平然としているのだ。たった一発殴り飛ばされて、それだけでもうピクリとも動かなくなっている獣が、視界の端に入っているはずなのに。
「…………どうして……」
「ダンに頼まれた」
「あ…………」
……そうか。
ダンという言葉に反応して、体が勝手に力を抜く。
ダンに頼まれたというクリストフさんがいるのだ。それなら大丈夫だ。だって、ダンが大丈夫じゃないことをするはずがないのだ。
両手の力をダラリと抜いて、その場にペタンと座り込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
そうやって力を抜くと、そこで初めて思い切り呼吸する。さっきまでは緊張して呼吸すら止めてしまっていたのではないかと錯覚するくらい、体が大量の空気を欲する。
大きく息をし過ぎて却って眩暈がしてきた頃に、1つ大きく息を吐いてやっと気持ちが切り替わった。
「……あ、ありがとう」
「いや」
座り込んだ姿勢で、その熊のように大きな体を見上げる。クリストフさんは、何も特別な様子もなく、いつも通り静かに佇んでいる。
「……クリストフさんて…………、強いんだね」
「ああ」
特に否定も自慢もしないところがいかにもクリストフさんで、なんだかおかしくなる。そのいつも通りの雰囲気にホッとして、確信する。
……ああ、助かったんだ。
次話は「長い一日 ~迎えの光」です。
※タイトルは変更するかもしれません。




