狐福
昔むかし、ある山裾の一軒家に、老婆が独りで住んでいた。老いた身のよるべない暮らしは倹しく貧しいものだったが、足しげく寺に詣で、熱心に和尚の説法に耳を傾けて、信心を怠らなかった。
あるとき、寺からの帰り道、老婆は木々の向こうで猟師と猟犬が荒々しく獲物を追いたてる物音を聞いた。そして、死に物狂いで藪から飛び出してきた一匹の狐と鉢合わせした。雪のように真っ白な毛皮を持つ、あわれなほどに美しい狐だった。
老婆はとっさに継ぎのあたった着物の前を開いて、逃げてきた狐を懐に隠してやった。慈悲深い腕に匿われたことが分かったのか、狐は痩せた老婆の胸に抱かれながらおとなしく息をひそめ、決して爪をたてて暴れたり、唸り声をあげたりしなかった。
無事に林を抜け、猟犬たちの吠え声の届かぬところまで来ると、老婆は狐を土の上に下ろしてやり、畜生に言葉は解るまいと思いながらも、こう言って聞かせた。
「さあ、山奥へお帰り。これに懲りたらもう人の里に近寄るんじゃないよ。痛い目にあうからね」
白い狐はちらりと老婆を見、山へ駆け去っていった。
それから数日後、激しい嵐の夜のことだった。雨風に軋みをあげる老婆の家の戸を、ほとほとと叩く者があった。
「旅の者です。降りすさんで困っております。少しの間、雨宿りさせていただけませんか」
蚊の鳴くような若い娘の声に、老婆は気の毒に思って招き入れた。濡れそぼった簔笠をとると、そこにいたのは色白で切れ長の目をした、髪の長いいとしげな娘で、このような草深い場所をさまよう者とは思われなかった。
老婆はもっと火のそばへ寄るように促しながら、こんな夜更けにどこへ行くつもりだったのかと娘に尋ねた。娘は伏し目がちに、悲しげな様子で首を振り、両親に死なれてとうとう家も追い出され、帰るあてもないのだと打ち明けた。
「ならばここにおればよい。わたしも独りだ、気がねすることはない」
娘はぱっと顔を輝かせ、老婆に何度も礼を言った。
そうして、娘は老婆と一緒に暮らしはじめた。
畑にあっては野良仕事、家にあっては機織り仕事、娘は朝早くから夜遅くまでまめまめしく立ち働き、それでいて愚痴一つこぼさなかった。一つ屋根の下で養う口は二つになったけれど、娘が働き者なので老婆の暮らし向きはかえって楽になった。
それに、心ばえの優しい娘がそばにいてくれることで、老婆も胸にぽっと火のともったような心地がした。まるで最初から本当の親子だったかのように、二人は仲良く暮らすことができた。
奇特な娘が老婆のところにやってきたことは辺りでも少しずつ評判になって、やがて寺の和尚の耳にも入った。物事によく通じた和尚はほんの少し、先行きに曇りを覚えた。
「一度、娘さんをわしのところに連れてくるがいい。何事もなければそれでよいし、もしも山姥などがきれいな娘に化けてお前さんを騙そうとしているなら、わしにはすぐに見破れる」
寺から戻った老婆がそのことを伝えると、娘はさっと青ざめて胸を押さえた。
「どうかそれだけは堪忍してくださいまし。あたしを恐ろしい和尚さまのところに引っ立てようとしないでください。ほかのことなら、なんだってかかさまの言うことを聞きますから。おっしゃる通りにいたしますから」
涙をこぼしながら必死に頭を下げる娘があわれで、老婆はこの話はそれきりにしてしまった。山姥だろうが人食い鬼だろうが、たとえ騙されているのだとしても構わないと老婆は強く心を決めた。そして、和尚から催促されるのがわずらわしくて、ついに老婆も寺から足が遠のいてしまった。
孝行娘のおかげで少しばかりましになったとはいえ、貧乏なことには変わりがない。底をついた米びつを眺めながら、老婆は一つため息をついた。
「もっと食べ物があったら、お前にこんなひもじい思いはさせないのに」
藁縄をなっていた手をとめ、娘はいつものようににっこりとした。
「あたしは充分足りております、かかさま」
「けど、わたしはもっとお前を腹いっぱいにさせてやりたいのだ。餅のようにふっくらとしたお前が見たいのだよ」
「それなら――」
娘は大きな籠をひとつ背負って立ち上がった。
「あたしはひとっ走り、山へ行ってまいります。食べ物をこの籠いっぱいにして戻ってきます。でも、かかさま、あたしが山にいる間は念仏を唱えたり仏様に手を合わせて祈ったりしないでくださいまし」
そう言い置いて、娘はしゃんしゃんとした足取りで山へ出かけていった。
明くる日、山おろしがごおっと吹いて、老婆の家は吹き飛ばされそうなほどがたぴし鳴った。次の瞬間、どしん、と地鳴りのような腹に響く音が轟いて、老婆は驚いて外に飛び出した。
すると、家の前で、大きな籠を背負った娘が両頬にえくぼをくぼませ、「ただいま戻りました」としとやかに頭を下げた。
娘の籠は、食べ物でいっぱいになっていた。まるまる肥えた山鳥や雉がわんさと折り重なって、ぴちぴちしたイワナやヤマメがどっさりぶら下がっている。見るからに甘い栗や柿がぎっしりと籠の目を膨らませていた。
老婆と娘は、腹いっぱいになるまで食べた。
薄汚れた野良着をつくろいながら、老婆はまたため息をついた。
「もっと着物があったら、見目良いお前をこんなみっともない格好にしてはおかないのに」
藁縄をなっていた手をとめ、娘はいつものようににっこりとした。
「あたしは充分足りております、かかさま」
「けど、わたしはもっとお前を着飾らせてやりたいのだ。幸せなお姫さまのように装ったお前が見たいのだよ」
「それなら――」
娘は大きな籠をひとつ背負って立ち上がった。
「あたしはひとっ走り、山へ行ってまいります。着物をこの籠いっぱいにして戻ってきます。でも、かかさま、あたしが山にいる間は念仏を唱えたり仏様に手を合わせて祈ったりしないでくださいまし」
そう言い置いて、娘はしゃんしゃんとした足取りで山へ出かけていった。
明くる日、山おろしがごおっと吹いて、老婆の家は吹き飛ばされそうなほどがたぴし鳴った。次の瞬間、どしん、と地鳴りのような腹に響く音が轟いて、老婆は外に飛び出した。
すると、家の前で、大きな籠を背負った娘が両頬にえくぼをくぼませ、「ただいま戻りました」としとやかに頭を下げた。
娘の籠は、着物でいっぱいになっていた。秋の山のように色美しい綾錦がわんさと折り重なって、金糸銀糸のきらきらした帯がどっさりとぶら下がっている。つややかなツゲの櫛や桜の簪がぎっしりと籠の目を膨らませていた。
老婆と娘は、気の済むまで身を飾った。
隙間風の吹き込む自分の家を見回しながら、老婆は三度ため息をついた。
「お前と出会う前、わたしは狐を助けてやったことがあるのだよ。雪のように白い、美しい狐だった。うかうかと山へ逃がしてしまったが、今にして思えばあんな無駄な情けをかけるのではなかった。あの毛皮をそっくり剥いで殿様に売ったら、一財産作ることができただろう。こんなぼろ屋ではなく御殿を建てて、お前と遊んで暮らすことだってできたろうに」
花のような娘の笑顔は凍り付いた。震える声で言う。
「……あたしは充分足りております、かかさま」
「けど、わたしはもっと豊かに暮らしたいのだ。腹いっぱい食べ、着るものもたくさんある。この上、立派な屋敷を建ててお前にしかるべき婿を迎え、たくさんの孫に囲まれてにぎやかに余生を過ごすことができたら、どんなに嬉しいことだろう」
「それなら――」
娘は手ぶらでよろりと立ち上がった。
「あたしはひとっ走り、山へ行ってまいります。狐の毛皮をかかさまにさしあげます」
そう言い置いて、娘はとぼとぼとした足取りで山へ出かけていった。
明くる日、山おろしがごおっと吹いて、老婆の家は吹き飛ばされそうなほどがたぴし鳴った。次の瞬間、どしん、と地鳴りのような腹に響く音が轟いて、老婆は外に飛び出した。
すると、家の前には、真っ白な狐の毛皮が一枚横たわっていた。
雪のように清らかに輝く毛皮だったが、裏皮はべっとりと血に濡れており、持ち上げた老婆の両手から肘までどろりとしたたり落ちて赤く汚した。生きながら剥がれたかのように毛皮はまだ生あたたかく、死んだ狐の顔は地獄のような苦しみと痛みにぎりぎりと歪んでいた。
老婆は動かない狐を胸に抱きながら、娘の名前を呼んで辺りを捜し回ったが、答える声はなかった。
娘は二度と戻らなかった。