表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/39

花元思案 その六 小説は作り話

 小説や漫画やテレビドラマなどを見ていて、文句を言う人がいます。

 あれはリアルではない、と。

 あんなことは起こらない、現実はああいう風ではない、あんな風にはうまく行かない、と批判するのです。


 読者の立場で考えると、気になる気持ちは分かります。

 明らかな言葉の誤りや少し調べれば分かるような知識の勘違いは作者も言い返せないでしょう。

 しかし、物語の展開やストーリー、推理小説などのトリック、物語を成り立たせる設定については、言っても仕方がないと書き手の側からは思います。


 理由は二つあります。


 まず、書いているのは人間です。

 完璧ではありません。

 ゆえに、完璧な作品はありません。


 ベートーヴェンの交響曲にも、ダ・ヴィンチの絵画にも、指摘しようと思えば不十分なところ、「もっとこうしたらよくなる」と思うところはきっと見付けられます。

 それでも、そうした作品が素晴らしい傑作であることは全く揺るぎません。

 欠点や足りない点やおかしな点があるかどうかは、その作品が素晴らしいかどうかに直結しないのです。


 お話を作る時、全てを完璧に全くおかしなところがないように仕上げるのは非常に困難です。

 手作りの(つぼ)を思い浮かべて下さい。

 どれほどの名人の作ったものでも、微妙なゆがみや対称でない部分はあるはずです。

 人の感覚や感性で作ると、どうしてもゆがみが出るのです。

 機械や精密な道具を使って作れば完璧になるかも知れませんが、手作りの面白さは失われます。

 その作者らしい味わいを残しつつ、全くゆがみや(かたよ)りのない物語を作ろうとするのは、限りなく矛盾に近い考えだと思います。

 むしろ、その作者らしいゆがみや偏りこそが面白いのだと思います。


 もう一つ、リアルでないことが仕方ない理由があります。

 それは、小説はフィクション、つまり作り話だということです。


 現実に存在しない不思議な力や恐ろしい生き物の出てくるファンタジー、まだ実現していない技術や道具が存在するSFは、言うまでもなく作られたお話です。

 奇抜なトリックの推理小説もそうで、世の中で実際に起こる事件とはかなり違います。

 実在しない人物同士の関係を扱った恋愛小説や青春小説も、現実の交際や学校生活と同じではありません。

 それどころか、史実をもとにしている歴史小説ですら作り話なのです。


 たとえば、本能寺の変を扱った歴小説を考えてみましょう。

 この事件の原因には多くの説があります。

 想像をふくらませると、さまざまなストーリーが考えられます。


 その一

 明智光秀はお(いち)の方に()れていました。しかし、主君の信長も実の妹のお市に恋着(れんちゃく)し、毎夜彼女の部屋に通っていました。彼女の手や首には折檻(せっかん)の跡が。光秀がいたわり怒りを露わにしてもお市は悲しげに微笑みながら首を振るだけでした。ある日彼女が一人で泣いているのを見てしまい、光秀は我慢できなくなりました。「あの方をお救いするには信長様を殺すしかない!」


 その二

 光秀は大名波多野(はたの)氏に当主たちの助命を約束して降伏を(すす)め、信じてもらうために母を人質として預けました。しかし信長は助命を拒否して当主たちを処刑してしまい、怒った波多野氏の家臣たちは光秀の母を(はりつけ)にしました。その夜から光秀の夢に母の亡霊が現れ、(うら)みを晴らしてくれと訴えるようになりました。「もうすぐ機会が来る。信長の命もそれまでじゃ」光秀はノイローゼになり、追い詰められて遂に……。


 その三

 生真面目(きまじめ)几帳面(きちょうめん)な光秀は何事もしっかり計画して記録を取り、お金や時間を無駄にしない人でしたが、信長はずぼらでいい加減で大雑把(おおざっぱ)、二人は()りが合いませんでした。光秀は我慢できずに何度も忠言(ちゅうげん)し、うるさがる信長は次第に会ってくれなくなりました。軍勢を一度に多方面で動かし、都周辺を空にすることにも光秀は反対しましたが、信長は聞きませんでした。本能寺にたった二百人しか連れずに宿泊していると知り、抑えきれなくなった不満がとうとう爆発しました。「そんな無計画で不用心なことをすればどうなるか、思い知らせてやりましょうか」


 その四

 光秀は土岐(とき)源氏の血を引く名門の出であることに(ほこ)りを抱いていました。源氏の足利氏こそ武家の棟梁(とうりょう)にふさわしいと義昭の将軍職継承と上洛(じょうらく)に尽力、忠勤に励んでいましたが、義昭は信長と対立し、とうとう都から追い出されてしまいまいした。光秀は義昭の指示で織田家に残って情報を送っていましたが、遂に信長を討つ好機が訪れました。「これでようやく正当な(あるじ)を都にお迎えできます」


 その五

 光秀は信長に理想の君主像と新しい世を切り開く才能を見出し、信長も光秀を頼りにし、意気投合した二人は必死で戦ってきました。ですが、勢力が大きくなり天下が見えてくると、信長は思い上がり、遂には朝廷を(かろ)んじる言動さえ見られるようになりました。「このままでは、信長様は天下の全ての人から憎まれる暴君になってしまう。名君だった頃の面影(おもかげ)と評判がまだ残っている今のうちに殺して差し上げるのが、信長様のためだ」


 その六

 光秀は密かにキリシタンになっていました。伴天連(ばてれん)に言われます。「信長はこの頃キリシタンを弾圧する家臣を重用(ちょうよう)している。この国の民を救うため、信長にかわって光秀殿に将軍になってもらいたい」信仰に(あつ)い光秀はそれが神のご意思ならと、主殺(しゅうごろ)しの汚名(おめい)を着る決意をしました。


 その七

 臆病で小心者の光秀は、信長に目を付けられていじめられていました。家康の供応(きょうおう)不手際(ふてぎわ)を責められ、領地の丹波(たんば)を没収すると告げられ、とうとう窮鼠(きゅうそ)猫を噛むの心境になります。「このままでは殺されてしまう。生き延びるには信長様を殺すしかない!」


 その八

 光秀は野心家でした。織田家で出世し大名のような広い領地を手に入れましたが、そこに信長を討って天下人になれる好機がやってきます。その誘惑に勝てませんでした。


 その九

 光秀は信長に恋していました。後継者を得るためにやむなく妻をもらいましたが、本当は男性が好きだったのです。浪人時代、偵察に来ていた岐阜(ぎふ)城下で美男子の信長に一目惚れし、深い関係に。義昭を説得して信長のもとに来て、義昭が追放されても信長を選ぶことに迷いは全くありませんでした。ところが、信長に森蘭丸(らんまる)という恋人ができました。嫉妬(しっと)する光秀に、蘭丸は得意げに言い放ちました。「あんたのようなきんかん頭のおっさんに、信長様はもう興味がないってさ」若く美しい蘭丸に信長との仲睦(なかむつ)まじい様子を見せ付けられ、光秀は決意します。「蘭丸は許せない。信長様も、もう振り向いてくれないなら、いっそのこと……!」二人を討ち果たすと光秀は巨大な喪失感(そうしつかん)放心(ほうしん)し、家臣にせっつかれて自分が生き残るための手を打とうとするもいつもの頭脳の切れはなく、自殺のようにあっけなく滅んでいくのでした。


 ここにあげた以外にも、さまざまな解釈ができるでしょう。

 史実とされていることや、信頼できる資料で確認できなくても通説(つうせつ)として語られてきたことを組み合わせながら、上記のようなストーリーを矛盾なく語るのは可能だと思います。


 史実とは、歴史上の人物たちの具体的な行動や発言とその結果です。

 記録に残る事実ですが、その行動を起こした理由までは分かりません。

 心の中は見えませんし記録に残りませんので、想像するしかないのです。

 本人が「こういう理由だ」と語っていたとしても、本当とは限りません。

 自分の行動を正当化するためにうそをついた可能性があるからです。


 それに、本人が思い込んでいる理由が他の人から見るとおかしいこともあります。

 「彼女は死にたがっていた。殺してやるのがやさしさだったんだ」と本人は主張しても、まわりには彼女への嫉妬(しっと)や憎悪が原因に見えるといったことも珍しくありません。

 そもそも、自分がどういう人間なのか、はっきり分かっている人の方がずっと少ないでしょう。

 ですから、史実というのはあくまでも時代の雰囲気やそこに生きた人々の様相(ようそう)を想像する手がかりにすぎないのです。


 小説とは、人間を(えが)くものです。

 これはすなわち、心の動きの流れを書くということです。

 小説の作者は史実や事実から歴史上の人物たちの心情を想像して描きます。

 記録に残らない部分を推測して筋道を整えることが創作者の仕事です。

 歴史小説の登場人物たちが真実そのような人柄であったかは、同時代に生きておらず直接会ったこともない我々には分からないのです。


 書き手にとって、史実や事実は通過するべき点にすぎません。

 夜空の星の位置を動かすことはできませんが、どのような線でつないでどんな形の星座を作るかは見る人の想像力に(ゆだ)ねられています。

 天文学で使われる星座と違うものを自由に想像して遊んでもかまわないのです。

 見たことや読んだことがない解釈は、読者が気に入るかや面白いかという観点で小説に採用されてこなかっただけです。


 そんな作者の想像など読みたくない、しっかりと裏の取れる史実だけを本に書けばよいと思いますか。

 小説は作り話でうそっぱちだから価値がないと考えますか。


 変人の名探偵シャーロック・ホームズや平安朝の貴公子光源氏は実在した人物ではありません。

 作られたお話であり、その意味ではうそです。

 しかし、未来からタイムマシンでやってきた耳のないネコ型ロボットに、どれだけ多くの子供たちが、また大人が、心躍(こころおど)らせ、笑顔になり、(いや)されたでしょうか。

 もしかしたら、生きることに疲れ、未来に絶望した人を、この世にとどめたかも知れません。

 小説や物語、娯楽(ごらく)というものの価値は、書かれていることが事実や真実かどうかでは決まらないのです。


 創作された物語と事実や現実は違います。

 たとえ事実をもとにしていたとしても、小説は作り話であって、加工が(ほどこ)されています。

 その加工を一言で言い表すなら、面白くなるように、読み(ごた)えや説得力を持つように、整えられているということです。


 例えば、戦国時代の合戦の大部分は数十人から数百人程度の規模です。

 偶然に雑兵(ぞうひょう)同士の小競り合いが起きて全体の衝突に発展したなど、細かな作戦や策略がない場合も多いでしょう。

 そんな戦いをリアルだからといって読みたいでしょうか。

 数万の大軍勢同士がぶつかり合い、双方が頭を絞って奇抜な作戦を立てて相手を出し抜こうとする方が読み物として面白いはずです。

 物語には夢やロマンが必要なのです。

 だから、脚色(きゃくしょく)し、うそを加えるのです。


 また、物語には美男美女がたくさん出てきます。

 美男美女しか出てこない小説や漫画もあります。

 非現実的ですが、その方が登場人物を好きになれますし、読んでいて楽しいのです。

 美男と美女が恋に落ちる方が、そうでない二人の物語より夢があります。

 それに、容姿の美しさを称賛(しょうさん)するのは問題が起きにくいですが、容貌(ようぼう)や体形が醜悪(しゅうあく)だと繰り返したり、主人公が他の人物から「君は醜いな」と言われたりするのは、読んでいて気分が悪いかも知れません。

 主人公など味方側の重要人物を不細工や不美人(ふびじん)にする利点はあまりないのです。

 架空の物語だからこそ、不快なものや醜いものを意図的に排除して、心地よく美しい世界を作ることができるのです。


 他の例としては、物語の登場人物たちがしばしば大人げないことを挙げられるでしょう。

 思っても普通は口に出さないようなことを言ってしまって相手を怒らせたり、衝動に駆られても通常は我慢するはずのことを実行してしまって問題を引き起こしたりします。

 現実的に考えればおかしく、人としてだめだと言われてしまう振る舞いです。

 しかし、登場人物の人柄や嗜好(しこう)や欠点を伝えたり作品のテーマを示したりできますし、起きた問題が人々を動かすことで物語が前に進むため、文学でもエンターテインメントでも珍しいことではありません。



 このように、物語の世界は作者側の都合によって意図的に整えられ、調整されています。

 その目的は面白くするためですが、より具体的には二つの理由があります。


 一つ目の理由は、説得力を増すためです。


 上記の合戦の例のように、現実に沿った設定やストーリーが物語を面白くするわけではありません。

 物語の戦いや戦術は、作者がその作品でやりたいことを実現し、読者を楽しませるためにあります。

 軍事学的に正しくするとその目的が達せられないのなら、そこからはずれてでも面白い作戦を書くべきです。


 説得力というのは事実を書けば勝手に生まれるものではなく、作者が作り出すものです。

 現実もそうだからリアリティーがあると感じるのではありません。

 現実性や常識に引きずられると、中途半端になって面白さが失われることも珍しくないのです。

 敢えて極端にしたり非現実的なほど徹底的にこだわったり強調したりする方が面白く分かりやすくなり、登場人物に親しみが持てるようになることも多くあります。

 創作物に必要な現実感というのは、作者のねらいや物語の都合によってストーリーや登場人物の行動と心の動きが強引にねじ曲げられていないことであり、読者に不自然に感じさせないことです。

 そういう違和感やねじ曲げられた感じも、より面白くなっていれば許されることもあり、一番大切なのは面白いことなのです。


 なお、物語の中で現実性が欠けて感じられる部分がある場合、大抵は作者がその要素をよく考えて(えが)いていません。

 例えば、いつもイライラしていて周囲につらく当たる中年の女性がいるとします。

 学生時代や新入社員だった頃から言葉がきつかったわけではないはずで、そうなった理由や経過があったに違いありません。

 そうした部分を作者が具体的に想像しているかどうかで、キャラクターの立ち具合やリアリティーが変わってきます。

 主人公にとっての役割、敵とか親とか助けてくれる友達といった一面しか描かれず、それ以外の場面での彼等を読者も作者も想像できない作品は、リアリティーを感じられないでしょう。


 そして、物語を整えるのには大きな理由がもう一つあります。

 読みやすく、分かりやすくするという目的です。


 小説では事実や想像したものを組み合わせてさまざまな物語を生み出しますが、それを読者にすんなりと受け入れさせ、理解してもらうためには、きちんと筋が通っている必要があります。

 意図的に矛盾がなくなるように調整し、自然に見える流れを作るのが作者の仕事です。


 この代表は、登場人物たちの心情の移り変わりの描き方です。

 人間の思考や行動というのは、はたから見れば矛盾だらけです。

 言っていることが朝と夕方で異なるのは、政府がすれば批判の対象ですが、個人では普通のことです。

 相手や気分によって態度や言うことが違うのも当たり前で、本人に変えている自覚がないことも多いです。

 もし筋が一本通って矛盾が全くない論理的な行動を常にとる人物がいたとすれば、とても頭がよくて自分の全ての思考や欲望や感情を考慮して行動を完全に制御(せいぎょ)しているか、体面や立場を全く考えずに感情と本能の(おもむ)くままに行動しているかであり、どちらも稀有(けう)なことです。


 だからといって、次の章になったら何の説明もなく登場人物の考えや行動が変わっていたらどう思うでしょうか。

 受ける印象や人物像が崩れ、きっと読者は混乱します。

 ですから、執筆する前にその人物の気持ちの変化を計画しておき、大きな変化をするところにはきっかけとなった出来事を配置し、自然な推移に見えるようにします。


 そもそも、小説の大きな特徴として、登場人物たちの性格や心理が明確になっていることがあります。

 現実の人間は、顔をじっと眺めても、発言や行動を観察しても、何を考えているのか本当のところはよく分からないものです。

 人はうそをつく生き物ですし、表情をとりつくろうからです。

 しかし、登場人物の発言や行動が意味不明ではつまらないでしょう。

 ゆえに、発言や行動がどんな考えや気持ちで行われたかを基本的には明示して、読者に共感したり同情したり批判したりするのを楽しんでもらうのです。


 ストーリーにも同様のことが行われます。

 主人公の運命を大きく変える事件が突然起こると読者はびっくりします。

 そのため、人生の流れを前もって決め、大きな転換点には説得力のあるきっかけの事件を用意し、伏線や布石(ふせき)を配置して不自然やいきなりに見えないようにします。

 物語にプロットが必要なのはこのためです。

 ご都合主義の展開と呼ばれるものは、この準備に失敗して強引な出来事を起こしたり、都合のよい心の動きをさせたりして、読者を呆れさせてしまうことを言います。


 計画的な構成は面白さを大きくするためにも必要なことです。

 葬儀中によくできた冗談を言っても、人々はにこりともしないでしょう。

 笑うような状況でも精神状態でもないからです。

 冗談を楽しめる雰囲気や気分に持って行かないと、読者を笑わせることはできません。


 代表的な例が「嵐の前の静けさ」です。

 平和でおだやかな光景を描いて読者の気をゆるませておいて、事態が一気に緊迫するような大事件を起こしてびっくりさせる手法(しゅほう)です。

 歴史小説でさえも、ただ順番に起こったことを書けばよいわけではありません。

 どういう印象を与えてどんな効果を出したいかを考えて、ストーリーの流れを組み立て各場面を作り上げることが求められます。


 創作とは現実をそのまま写すことではありません。

 要点や面白い部分だけを取り出して骨組みとして組み上げ、そこに豊かな表現という肉や皮を付けて形を整えることです。

 物語では、全ての出来事や登場人物の行動や発言はストーリーの流れの中で意味や役割があり、無意味なものは書かれません。


 これは小説以外の文章でも変わりません。

 例えば、自説を主張したり何かを教えようとしたりする文章では、一貫した矛盾のない論理と明快な結論が求められます。

 簡単に白黒つけられない物事は珍しくないですが、イエスの意見とノーの意見を併記(へいき)してどちらにも偏らないようにした文章は分かりにくくなります。

 さまざまな意見や見方を並べるだけで結論を出さない文章を読みたいでしょうか。


 また、九割以上はそうだという時、一割未満のことには触れずに話を進めてしまうことはよくあります。

 例外を述べると論理に穴があるように感じられたり、主旨(しゅし)からすると重要でないことのせいで文章が長くなってしまったり、言い訳がましく見えたりするからです。

 分かりやすくするためや説得力を持たせるために、想定し()る反論を無視して自説に都合のよいように言い切ってしまうことすら少なくありません。


 そういう書き方を正確でないと非難するのは簡単ですが、全ての文章には書いた目的があり、それを実現できる書き方が正解なのです。

 作者はその文章に何を書くのかを選んでそれだけに集中し、邪魔になるものや不必要なものは排除しなくてはなりません。

 全てを語ったら読みにくく分かりづらくなって説得力が薄れるのであれば、不正確な方がその文章を書いた目的にかなっていることになります。

 ましてや、考えられる反論や異論を全て網羅(もうら)し、それらが成り立たない理由をいちいち説明するなど全く無駄で余計なことです。


 ゆえに、文章や発言は常に偏っています。

 全ての方向や人々に配慮した完全に公平で少しの(すき)もない意見や文章など存在しないのです。

 偏っていることは、文章の宿命なのです。

 作者は自分の立ち位置や立場や姿勢を自覚し、明確にする必要があります。

 どういう思想や観点に立つのか、どういうところに力を入れて書き、どういうところは敢えて書かないのかといったことを自分で決めて、しっかり守らなければなりません。

 これができないと、主人公だけをえこひいきして都合よく事件や人々を動かしてしまったり、人物や勢力によって扱いが極端に変わったりして、全体の均整が崩れた作品になってしまいます。


 こうしたことの例として、中国や日本で書かれた史書(ししょ)が挙げられます。

 これらは編者(へんじゃ)や当時の権力者の歴史観に合わせてストーリーと視点が組み立てられ、彼らに都合の悪いものは意図的に排除や改変をしています。

 伝わっている複数の逸話が互いに矛盾する時は、筋に合わないものはうそだと見なしたり、混乱を招くと考えたりして、敢えて記述しないといったことも行われてきました。


 創作小説では、書き手の嗜好(しこう)や思想や倫理観などで選択が行われます。

 考え()る無数のストーリーからどの展開を選ぶかに、作者ごとの違いが生まれ、それが味わいとなります。

 だからこそ、同じ時代や人物を描いた歴史小説であっても、作品ごと作者ごとに面白さが違うのです。


 物語を整えるのは、読者を納得させ、テーマに一貫性を持たせ、物語の目的を達成するためです。

 読んでいる時、内容がすんなりと頭に入ってきて理解でき、納得できて疑問や引っかかりを覚えず、楽しませることができればよいのです。

 ですから、読み終わったあとで全体を振り返ってじっくり考えて、突っ込みどころを発見されるのは問題ありません。


 ストーリー作りで一番大切なことは、最後に主人公や事件や世界がどうなっているかを決めておくことです。

 そのためにプロットを作り、筋を整えるのです。

 ストーリーは物語の結末を読者に納得させるための過程です。

 それを面白く読み応えのあるように書くのです。



 このように、物語は作り話であり、作者によって意図的に整えられていて、自然や現実とは違います。

 典型はコメディー、喜劇です。

 底抜けに明るい陽気な話は、大抵は真っ赤なうそであり、作り話です。

 しかし、楽しくて、よい気持ちで読み終われます。

 人生の現実を直視して真実を浮き彫りにする物語は、多くの悲しみや苦しみや理不尽を含むことになり、必然的に暗い話になります。


 物語の作者はうそを書くのが仕事です。

 俳優が自分と違う人格や人生を一生懸命に演じるように、読者を楽しませようと自分が面白いと思うお話を真剣に作ります。

 大切なのはその作品や場面でやりたいことです。

 それを正しさが邪魔するのなら、多少の都合のよさには目をつむってもらうのです。


 面白い作品がたくさん生まれるためには、それくらいの余裕や遊びが必要なのでしょう。

 現実の世界は、整理しようもないくらい矛盾と非情理(ひじょうり)と不思議に満ちているのですから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ