花元思案 その三 複数主人公という形式
前回、『信長の野望』と『三國志』のゲームは複数主人公の状態にあると書きました。
今回は、その「複数主人公」という形式を取り上げます。
さて、複数主人公について述べる前に、まずは主人公の見付け方を考えましょう。
物語とは、ある人物の体験を描いたものです。
ある人物がある事件に遭遇し、関わり、その結果どうなったかまでが書かれています。
短編なら事件はすぐに終わり、長編なら物語の中で長い時間が流れることもありますが、基本は同じです。
ですので、主人公の見付け方の第一は、物語の中心の事件を誰が体験しているかを考えることです。
誰の立場から眺めているかと言い換えてもよい場合が多いですが、「名探偵シャーロック・ホームズ」シリーズのワトソンのように、語り手が物語に登場する人物だったとしても主人公ではないこともあります。
また、その体験が終わると物語も終わりますが、この時、二つの閉じ方があります。
一つは、その体験が終わると同時に、その人物の人生も終わる場合。
もう一つは、その体験が終わっても、その人物の人生は続いていく場合。
言い換えますと、体験した人物の死によって物語が終わる場合と、死なない場合があります。
物語とは、ある人物の人生の一部または全部を語ったものなのです。
ですので、主人公の見付け方の第二は、誰かの死で物語が終わったかです。
複数主人公の物語では、主人公が全員死ぬ場合と生き残る人がいる場合があります。
さらにもう一つ、主人公の見付け方があります。
登場人物の関係性です。
田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』という小説をモデルに考えましょう。
銀河帝国側の登場人物たちは、ラインハルト・ローエングラムを中心に配置されています。
彼の友、彼の姉、彼の部下、彼の幕僚、彼の敵……。
つまり、ラインハルトを最初に用意し、彼を出発点に他の人物たちを作っていったことが分かります。
そして、自由惑星同盟側にも同じようにヤン・ウェンリーを中心とした人間関係があります。
彼の副官、彼の養い子、彼の先輩と後輩、彼の同僚、彼の部下、彼の敵……。
ここから、この作品が二人主人公であることが分かります。
他に、準主人公としてユリアンがいます。
なぜ「準」なのかは、やはり人物関係で分かります。
ユリアンは同盟側の人物です。
しかし、同盟の人物たちはヤンを起点に配置されています。
ユリアンはヤンを通して彼等と結び付いているにすぎません。
周囲の人物たちのうちユリアンを起点として生み出された人物は、カーテローゼやルイ・マシュンゴなど数名がいるだけです。
ゆえに、「準」主人公なのです。
こうした人間関係の中でも、とりわけ敵対陣営の中心的人物・最強の人物が誰にとっての敵やライバルなのかで主人公が分かることが多いです。
勇者に対して魔王というのは有名な例ですね。
ところで、ラインハルトとヤンのどちらかだけが主人公で、もう一方はその敵役として設定されたという見方はできないのでしょうか。
ヤン陣営はラインハルトの敵として用意されたのではないか、といった考え方です。
これはいくつかの理由から否定されます。
まず、ヤン陣営の登場人物の数と配置はラインハルト側に匹敵する規模であり、単なる敵陣営の域を越えています。
次に、作者はラインハルトとヤンに優劣をつけないようにとても気を使っています。
直接対決ではどちらが勝ちとも負けとも決めないようにしていますし、それぞれが別な相手と戦う場合も両者の活躍に差を付けないようにしています。
最後も、戦いだと直接対決でなくとも勝った者と負けた者になると優劣が付いた印象になってしまうので、別な方法をそれぞれに用意して、戦場以外で決着を付けています。
そして両者の物語が閉じると小説が終わりますので、やはり二人とも主人公なのです。
また、二人とも主人公である理由がもう一つあります
両者をほぼ同じ分量で記述していることです。
物語を語る時に、鉄則があります。
主人公のいない場面は通常は全体の一割程度、多くても二割以下にするということです。
三割を超えると、主人公のいない場面の多くで中心人物となっている人物が第二の主人公に見えたり、その章だけ主人公が変わっているように感じられたりしてしまいます。
繰り返しますが、物語とはある人物の人生の一部です。
「主人公は誰か」という問いは、「この物語は誰の人生について語ったものか」という問いでもあります。
物語の理解のための情報の提示を超えて、主人公でない他の人物の人生に見えてしまう部分があるなら、それはもう一つの物語ではなく、複数の物語を混ぜ合わせたものとなります。
誰の人生を読んでいるのか、誰を追いかければよいのか、読者は混乱するかも知れません。
この観点からすれば、ラインハルトとヤンはほぼ同じ比重で扱われて対等ですし、それぞれを中心とした人物関係があります。
どちらかが主人公でもう一方が「主人公のいない場面の中心人物」となっているとは言えず、両方主人公と考えるのが妥当でしょう。
同じ理由で、フェザーン陣営のアドリアン・ルビンスキーは主人公ではありません。
なお、主人公が複数いる場合、大抵は互いに離れた位置にいます。
普段は互いに関わりを持たずに別なことをしていて、たまに出会うけれども、またすぐに分かれてそれぞれの活動をする形になりやすいです。
主人公たちが出会う場合、普通は誰か一人をその場の中心、つまり視点が寄り添う人物にして、他の主人公たちは脇役たちと同様に眺められる側になります。
そういう場面で視点人物となる主人公は形式的には最も重要な人物とみなされ、最上位の主人公となります。
では、複数主人公という形式にはどんな特徴があるのでしょうか。
最も大きい利点は、複数の陣営の動きを継続的に描けることです。
普通、敵側の登場人物たちは主人公たちの前に姿を現す時しか出てきません。
主人公の視界の外にいる時に何をしていたのかは、セリフなどで示すか、敢えて視点変更をして描かなければ、読者は知ることができません。
複数主人公なら、それぞれの活躍を描くことで、互いの陣営の動きを詳しく記述することができます。
この利点が最も生きるのは戦記物や歴史物です。
こうしたジャンルでは、複数の陣営が出てきて、それぞれ目的をもって別な場所で独自の動きをしています。
それらがぶつかり合ったり関わり合うと、戦いが起こったり、敵対したり、同盟や協力や共闘をしたりすることになります。
互いに知恵を絞ってお金や命をかけた勝負をするような物語にも、複数主人公は向いています。
互いのねらいやたくらみが詳細に描かれた方が盛り上がる物語もあるからです。
逆に、注意するべき点としては、「どの陣営も忘れられてはいけない」ということがあります。
一つの陣営の記述が長くなって、他の陣営のことを全く語らないのはまずいです。
それぞれの陣営の記述の中で他の陣営の動きを入れたり、一つのエピソードを短めにして早めに他の主人公に視点移動したりといった配慮が必要になります。
まるまる本一冊が一つの陣営の話だけで終わってしまうのは避けるべきでしょう。
章が変わる時には主人公を入れ替えるべきです。
もちろん、視点を移動させる時は読者が混乱しないようにしましょう。
注意すべき点の二つ目は、時間の進行です。
別な主人公に視点が移った時、どうしても時間がさかのぼったり、急に進んだりしやすいです。
このエピソードは他の主人公の出来事より前なのかあとなのか同時なのか分かりやすくし、読者の頭の中にきれいな年表ができるようにしなくてはなりません。
また、物語の時間は先へ進むのが原則なので、できるだけエピソードを時間順に並べる方がよいでしょう。
複数主人公の物語でも、案外時間順に語ることはできるものです。
さらに、主人公の重要度に差があるなら、順位を明確にして、主人公たちが同じ場所に集まった時は誰の視点にするのか、それとも客観的な立場に徹して誰にも寄せないのかといったことを、書き始める前に決めておきましょう。
ここがゆらいで場面によって順位が変わると、読者が混乱するかも知れません。
もう一つ、陣営が複数あると登場人物が増えます。
多数の人物をうまく書き分けることを求められますので、安易な気持ちで始めると苦労します。
どうしても複数主人公にしたい理由がないのであれば、一人主人公を選ぶのが無難だと思います。
複数主人公はあまり使う機会のない形式ですが、物語の内容によってはとても効果があります。
同時に難しさもあり、とりわけどの陣営にも偏らないように記述するのは大変です。
壮大な物語を書き切れる自信と実力がある人が挑戦する形式だと思います。
おまけ
『お気の毒だ、疾風ウォルフ』
『金銀妖精で迫られたらドキドキしちゃって』
『ロイエンタールの大ばか野郎!』
「……という夢を見ましたの。確かに魅力的な方ですけれど、どうしてかしら」
「エヴァンジェリン、すまなかった! 昨日はかっとして言いすぎた。だから、それだけは勘弁してくれ!」
「ユリアン、イゼルローン要塞にも真珠の首飾りをつけたらどうかと言う民間人がいるらしいぞ」
「そんなものは必要ありませんよ、ポプラン少佐。みなさんがいらっしゃるんですから。ねっ、シェーンコップ准将?」
「そうだな。ヤン提督にふさわしいのは『オリーブの首飾り』だろう。魔術師だけにな」
※ポール・モーリア楽団の一番の名曲だと思います。




